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もう一つの顔

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ある平日の昼休み、美咲さんからメッセージが届いた。まだ、夏の気配が消えない9月、強めの冷房に晒されたふくらはぎをどうやって回復しているか、先輩たちの話を聞いたりしていた頃だ。

「今日ちょっと会社に残っててくれないかな?」

仕事の用事だろうか、でも、企画部長の美咲さんと、一受付の私とでは仕事上の関わりなんてないに等しい。


美咲さんとは毎週のように週末には時間を作り逢瀬を重ねていた。
先日内乱会に招待され、晴香ちゃんと出会ったあのホテルにも一緒に足を運んだ。
その時は内覧会で見た部屋ではない方の、和のコンセプトルームに泊まって、ルーフバルコニーに設えられた岩風呂を楽しんだり、冷蔵庫に用意されていたラムネを飲んだりして、ちょっとした旅行気分を味わう事ができた。

様々なコスプレ衣装の貸し出しもあり、美咲さんにせがまれて色浴衣を着たりもした。
高級品ではなかったが、その時借りた濃紺になでしこ柄の浴衣がすごく似合うと褒められ、そのまま襲われそうにもなった。「汚したらいけないから」とすぐに脱がされてしまったけれど。

美咲さんのメッセージを見ながらほんの一瞬だけ、その事を思い出してしまい身体が熱くなったけれど、とりあえず余計な想像は振り払って返信をする。

「大丈夫です」
「良かった、じゃまた夕方に連絡するね」

会社で美咲さんとまともに対面する事はなかったし、少し緊張した。午後はなんだか落ち着かない気持ちだった。

-*-*-*-*-*-

「冴子大丈夫?」

友紀にそう声をかけられて、私の困惑が顔にも出てしまっているのかと落ち込んだ。

「それにしても、今日の食事会だけどさ」
「え?」
「企画部の男性陣と、って…私さっさと断ったからね」

私は誘われていない。

「まさか冴子は…そもそも声かけられてないって事なの?そうとは知らずでごめんね」
「いや、私も断っただろうから、いいよ」

何やら連絡系統が入り乱れているようだ。こういう流れは結果もややこしくなる事が多いし、あまり関わらないのが得策だ。

「…でもなんで冴子だけ誘われてないんだろう?行く行かないは別として、どう考えても声がかからないのはおかしいよ。ちょっと、聞いてくる」
「友紀ったら」

友紀は奥に引っ込んで事務仕事を片付けている後輩女子を捕まえて絞り上げる勢いだ。

「…大丈夫かな」

しばらくすると友紀が戻ってきて、「何かよくわからない」などと呟いている。

「今日急に声がかかったって事らしいけど、冴子の事は誘っちゃいけないって、向うから言われたんだって」
「え……」
「なんでそれをあっちが決めて指図してくるのかしら」
「…そうだね」

もしかして、美咲さんだろうか?ほんの少しそんな事も考えたが、まあ真相は直接美咲さんに会えばわかるような気がした。


少し居残りする事を友紀にも伝え、食事会へ向かう面々と友紀を見送った。後片付けをして、制服を着たまま美咲さんからの連絡を待つ。

「上がってきて」

急にそれだけメッセージが来た。私はエレベーターに乗り込む。既に社のエントランスの照明は半分落ちて、通常よりもやや暗くなっている。企画部は7階、実際にそこで降りるのは初めてだった。

7階で降りるとエレベーターホールに続く廊下に美咲さんの姿があった。今日はグレーのパンツスーツを着ている。朝は受付に立たなかったので、私はこの日初めて美咲さんの姿を見た事になる。
他に人がいるかもしれないので、私はビジネスライクに話しかけた。

「松浦部長、何か御用でしょうか」

声に出して『松浦部長』と言うのが久しぶりだったのと、一瞬二人だけの時のように『お姉さま』と呼んでしまいそうになったので、若干噛んでしまった。

「…失礼いたしました」

美咲さんは一瞬くすっと笑ったようだったが、それ以上は言及せずに「こっち」とだけ言って歩き出す。私が慌てて後をついて行くと、6名吸われるサイズの会議室に通された。

「あの…」

用件があるはずなのだが美咲さんは何も言い出さない。

「やっぱり、ここは止めてあっちへ行こう」
「はい?」

今度は会議室を出て執務室に通された。パソコンの置かれた事務机が島型に並べられている。美咲さんはその一番端のお誕生日席の位置にある大き目のデスクに就いた。

「失礼します」

と声には出したものの、他には誰もいない。以前に一度各部署のデスク配置を暗記しようとした事を今になって思い出した。今でも管理職以上の席次はなんとなく覚えているし、そこは勿論美咲さんの自席だとわかる。

「冴子はそこに座って」
「はい」

会社であるにも関わらず普通に「冴子」と呼ばれているし、仕事の用事ではないのだろうなと察してはいたが、いまいち心意がわからず、くだけた態度は取りにくかった。
私は近くの部員とおぼしきデスクの椅子に腰を下ろした。机上にはパソコンと、何色ものボールペンで書き込みのされた卓上カレンダー、そして男性にも人気のあるクマのキャラクターが描かれたマグカップが置いてある。
美咲さんは少し疲れたような様子で続けた。

「大丈夫もうみんな帰ったから」

執務室は静まり返っている。あまりに静かで不安になるくらいだ。
日中は尋常でないほど賑やかなはずのこの場所で、私は美咲さんと二人きりだ。

「あの、何か…」

御用なのではありませんか、と言うより先に美咲さんに「仕事の用じゃない」と遮られてしまい、拍子抜けする。

「…そこの席のやつね、冴子が食事会に来ない、ってわかったらめちゃくちゃ残念がってたのよ」

どうやら私の座っているデスクの主の話らしい。
それを私になぜ話すのか、理由がよくわからなかった。

「その、食事会には私は誘われていないです」
「そりゃそうよ、私が止めたんだから」

やっぱり。

すると美咲さんは椅子ごとこちらに近づいてきた。

「…大丈夫なんですかそんな事して」
「だってどいつもこいつも冴子、冴子ってうるさいんだもの」

実際彼らが私をどう呼んでいるのかは定かではないが、そんなに感情的な事をしたら美咲さんが怪しまれたりはしないかと、心配になる。

ただ、そんな風にふてくされる美咲さんの姿を見ていると優越感に浸れるのも事実だった。私に妬いてくれているようで嬉しい。

「…誘われたかった?」

美咲さんは身を乗り出して私にそう尋ねてくる。

「いえ、そういうわけではないです」

美咲さんは溜息を吐いて再び椅子ごと定位置に戻っていく。今度は背中を丸めてしゅんとしながらパソコンの画面を見ているようだった。仕事が残っているのかもしれない。

「コーヒーでも買って来ましょうか」
「…大丈夫」

とりあえず、私がここから離れてしまうと美咲さんは一人になってしまうし、話し相手になればいいのだろうと推測して、席を立たない事にした。

「普段冴子がどんな風に噂されているか、聞かせてあげようか」

美咲さんはスマホを取り出して、隠し録りしたらしい音声を再生する。
電話の鳴る音や様々な会話の声を背景に、男性社員複数名の声が聞こえてきた。

日ごろの、美咲さんの過ごす空気に近づく事ができたようで、私はそこに興味をひかれて聞き入ってしまう。

『今日の受付女子との飲み会』という言葉に、これは今日の、昼間の事なのだとわかる。

『やっぱり大本命は二宮さんだよな』
『お前抜け駆けしたら許さないぞ、席はくじ引きだからな』

そこで『真面目に仕事しなさい』という美咲さんの声が流れる。更に美咲さんが『二宮さんはダメよ、定時終わりで打合せを入れてるから』と続ける。

私はその『二宮さん』という呼称に変な新鮮さを感じてしまった。美咲さんが私を直接そう呼んだ事はなかったから。

『えーっ、なんでですか部長っ』
『来月大学生向けにやるサンプリングのスケジュール確認です』

『別に今日でなくても良くないですか?』など男性社員が一斉にブーイングを飛ばす。『時間外はダメでしょ』とか『職権乱用ですよ』などと言う声もある。

私はだんだん恥ずかしくなってきた。

『やっぱり今日の今日で無理やり招集は厳しかったか』
『なら俺は佐藤さんに行くからな』

友紀もこの食事会をパスしているが、それはまだ知らない時点の音源のようだ。

『あのー、二宮さんと打合せのついでに連絡先とか彼氏の有無とか聞いといてくれませんか?…あ、打合せ終わりで合流って事でもいいですけど』
『馬鹿、それをしたら受付女子全員松浦さんにもってかれるだろ』
『そうだよ女子たちの憧れの的がいたら俺たちがかすむだろ』
『…二宮さん、どうせ彼氏いるんだろうな~、誰だよちくしょー』

美咲さんはそこで再生を止めた。
「こんな事言われてるよ?」と問いかけてくる。
「彼氏が誰か、だって」

彼氏はいない。実際の所私は美咲さんに夢中なのだ。美咲さんはそれをわかっていてこれを聞かせているのだとわかる。

「なんて答えたんですか」
「何も言ってない、スルーした」

気まずい沈黙が流れる。私は思わずこう言葉にしていた。

「言ってしまっても良かったのに」
「…」

美咲さんは何も我慢したりする必要はないのだ。私は直観的にそう思っただけだった。

「大丈夫、我慢してるってわけじゃないんだ」
「そうですか」
「ただ、冴子がみんなから言われてる事、思われてる事を知らせたらどう思うのかなって、ちょっといじりたかっただけ」

これぐらいは想像がつく。男性社員の言っている感じにも特別驚きはしなかった。

私は、真面目で、純粋そうで、三歩下がって男の後ろを歩く、そんな古風なイメージを持たれやすい。そしていざセックスとなれば私の貪欲さにはじめのうちは興奮する彼らも、そのうち飽きてくるか、余裕を感じて浮気する。それがいつもの展開なのだ。

それよりも、私はさっきの音声の中で垣間見る事のできた仕事モードの美咲さんの口調や、私にしかわからない程度にだが、「食事会なんて誘っても無駄よ」という裏の心意も感じ取れる様子になぜか高揚を覚えた。私はこんな人に独占されているのだ、と。
だから男性陣の事はどうでも良いと伝えたくなった。

「それよりも、」

お姉さまが、と言いかけて一瞬躊躇した。美咲さんは黙って待ってくれている。私はその言葉を避けた言い回しに切り替えた。

「私の噂話ばかり聞いているのも、疲れるんじゃないかと思って、だから、何か、申し訳ないです」
「なんで冴子が謝るのよ、おこがましいと思わないあいつらが悪いの」
「そうなんでしょうか…」

美咲さんの中に葛藤があるような気がした。
己惚れかもしれないが、何かに苛立ったから、食事会の邪魔をして私を今ここに呼び出した、そういう事なのではないだろうか。

「冴子、なんで今日ここへ呼んだか、教えてあげようか?」
「はい」

美咲さんはさっきのスマホに視線を送りながら、
「そんなモテまくりの冴子を独り占めしたくなったから」と言った。

それ自体は嬉しい。だが続けて
「そんな事考えてたら、わざとこういう場所で冴子とエッチしたくなっちゃった」という美咲さんの言葉に耳を疑った。

「え…ここでですか」
「そう、ここで」

美咲さんは眼鏡を外して机上におく。
そして私の座る椅子の後ろに立ち、屈んで私の肩に両手を置きながら耳元で囁いた。

『ねえ………冴子…』

「?!」

それは、今までに聞いた事もないような、甘く艶のある囁き声だった。
一瞬本気で別人かと思ったほどだ。

だが確かに美咲さんの声なのだ。

その声からは、その気のない相手さえも問答無用で欲望の海に引きずり込むような、強烈なフェロモンを感じる。こんな声、二人で激しく交わっている時にでさえ聞いた事がないと思った。

私は美咲さんのもう一つの顔を、今になって知ったという事か。
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