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2.きみと恋して
待ちこそ時に嬉しかれ
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最悪だった。
失態だった。
……オワタ。
百彩ちゃんの隣で悲鳴を上げて、袖を掴んで二の腕を掴んで、まるで俺の方が女子だった。「大丈夫だよ」と小さな子をあやすように、よしよしと頭を撫でられた。きっと涙目になって見つめていたはず。
「ろくん、ホラー平気になったって言わなかった?」
みっちゃんはため息混じりで同情するように問いかけた。俺もため息混じりに小さく頷くことしかできなかった。
「ちょい待ち、今日のこれってそんなホラーだった? うち的にはちょいファンタジーだった」
「ロカ男、漢が泣いてるぜ!」
映画を見終わりロビーに出てきた。
ポップコーンやチュロスの甘い香りが、再び鼻の中に心地よく侵入してくる。チラッと目に入る誰かの持ったそれが、たまらなく今の自分に必要な気がして、小さなため息混じりに振り返ってしまう。
狭くはないはずの空間が人混みで賑わっていた。通学電車の中で見たことありそうな顔やら、カップルやら、怖そうな人たち、親子連れ、さまざまな人達が同じ目的でここにいる。変な感覚だ。
今日は夏休み前の最後の日曜日、休みに入れば当分の間部活漬けになる。だから、その前に街に繰り出したかった。
「絽薫、福居昇流、行くぞ」
「いずこへ?」
「連れションだろ?」
「おう!」
「じゃ、うちらも?」
映画を見る前にトイレには行ったけれど、ホラーを見ていたんだから、そりゃ尿意には勝てない。
俺は輝紀に肩を抱かれて、トイレまで歩いていった。「心配すんな」とウィンクからの笑顔に少し泣きそうになった。情けない俺を否定せず、大丈夫なんだと励まされているようだ。
「絽薫、お前以外といい感じじゃなかった?」
「えっ? そんなはずないよ」
突拍子もない問いかけに思わず眉を顰めた。
「何でだよ? もっちゃん、ロビーに出てくるまでずっと寄り添ってたじゃん」
もしかしたら、そんな事実があったのかもしれない。けれど、自分の不甲斐なさに今さっきの記憶さえも消し去りそうになる。
「えっ、そーだっけ?」
男の園だ。女子には言えない話は今ここでしかできない。
手洗い場の鏡に映る自分をうんうんと頷きながら見た。結構イケている。俺、輝紀、福居、レベルは高いと思う。
「キャワメンとかそんなことじゃねーからな」
「なぬ、サッカードは自分ひとりがイケメンだと?」
「お前らは女心がまったくわかってねーな」
「ギクッ! そそそそりゃ、童貞だしまだ何も知らない」
輝紀は浅いため息を吐き、俺と福居の肩を抱き、鏡に向き合った。
「俺は童貞じゃない。いいか? そういうことじゃないんだよ。もし、凛花や新座ならダメだと思う。でも、もっちゃんはあれでいいんだと思う」
鏡越しに間違いないと、自信のある笑顔で俺に頷いた。
「マジで? 信じていいの?」
「ああ、絶対にもっちゃんは嫌がってない」
「まさか、尊い?」
「福居昇流の言う通り」
「じゃあ、俺は? まだ見込みあるのかな?」
いつの時代だか、昼の生放送の司会者のように言った。
「ごめん、昇流ちゃんは……眼中にない!」
「サッカード……そーだよな? わかってたさ」
「昇流ちゃん、ごめん。俺……」
「ロカ男、本気のごめんとか……ムナシイ」
三人のバカな雑談が落ち着いたところで、何気なくロビーへと出ていった。どこにいるのか、キョロキョロ探していると、エスカレーター前の壁際に寄りかかっていた。「何してたの?」とみっちゃんはニンマリとした笑顔を俺たちに向けた。見透かされているようで、少し恥ずかしい。
流されるようにエスカレーターに乗り、一階のレストランフロアへとやってきた。甘い香りが消えていくと、今度はソースやら油やらの匂いに鼻がヒクヒクと反応してしまう。ごくりと生唾を飲み込んだ。
和、洋、中、それぞれ違った雰囲気の店舗がいくつかあった。ちょうど正午を回る頃、店の前には列ができていた。待ちくたびれたような顔を見ると気乗りしなくなる。
待つ? 待たない? 六人はそれぞれ顔を見合わせたけれど、まだ時間もあるし、ささしまライブ駅から名駅の方へと歩くことにした。
梅雨明けが発表されて、より一層暑さが増したように感じる。
線路の高架下を歩けたならよかったけれど、線路を隠すようにビルが立ち並び、そのまままっすぐに進んでくれているなら、日差しもよけられた。それなのに、弧を描くように日差しを出迎えている。そこに信号待ちがやってくる。確実に策略でしかない。
みんなバテそうになると、こっちこっちと駅裏にあるファミレスに入った。別にいつもの感じでよかった。可愛い店とか、おしゃれな店とかそんなものはデートのときや大人になってからでいいと思う。
二〇分程度待ち時間はあったけれど、室内は冷房が効いていて、待ちこそ時に嬉しかれとことわざをアレンジしたくなる。
ドリンクバーを頼み、一時間は居座っていた。涼しくて外の暑さは映像が何かだっけと、別次元のような感覚になっていた。そんなことがあるはずもなく、会計を済ませて店のドアが開いた瞬間、現実逃避だったと思い知らされた。
髪の毛の一本一本に纏わりつく熱い空気に、日向はホットプレートのように、もし素足で歩いたならジュッと焦げ目がつきそうだ。やっと夏が始まったというのに、先日までの梅雨を懐かしんでしまう。
涼しさと水分を求めて、歩いて七分ほどの距離にあるカラオケへと向かった。なるべく、ビルの陰になる場所を選んで進むけれど、大通りの横断歩道は仕方がなかった。いや、というよりかは失敗だった。でも、俺はこういうのは嫌いではない。むしろ、気持ちよくて好きだ。
信号機の青色が点滅をしていたため、昇流がダッシュでーす! とその高身長を活かして一気に渡り切った。それに続いた俺たちって、やはりまだ子どもなんだなと思えてくる。たった数メートルの距離でも汗が溢れ出し、日陰を歩いていた意味がなくなってしまった。釣られた自分たちがバカだとわかっていたけれど、信号が変わるや否や昇流が責められたのは仕方がない。
百彩ちゃんを見ると同じように汗を拭っていても、なんだか涼やかに感じる。今日の服装のせいだろうか。
小さめのクルッとした襟にふんわりと風が靡くような裾、前裾が短めになっていて綺麗な足が露になる白のシャツワンピ、Vネックの花柄のような透かし編みで、上半身を包むような少し大きめな赤のジレ、色を合わせたメガネと、アクセントのピンクの英字が可愛い赤と白のハイカットキャンバススニーカー、差し色と言えばいいのかグレーの靴下がチョイ見えしている。髪は後ろでふんわりとお団子だ。
このままファッション誌から飛び出してきたのかと思えるほど、究極に可愛い。
「絽薫くん、どーしたの?」
俺の視線に気づいてしまったのか、メガネの隙間から上目遣いできょとんとした表情を見せた。
生唾を飲み込んだ。こんな瞳で見つめられたら、心だけではなく体だって反応してしまう。いつもなら心の声が漏れ出すところ、他の漏れ出した部分を気づかれないように、手振り素振りでごまかすしかなかった。
「えっ、ななななんでもないよ」
「……なんだ、そっか」
気のせいだろうか、俺の返事が下手すぎたのだろうか、百彩ちゃんの顔が少しつまらなさそうに見えた。ほんの数秒だけれど、口を尖らせて小さな子どものように膨れていた。
「うん……」
カラオケに着くと、さっそくフリードリンクだからとドリンクバーにみんなで押しかけた。そのまま飲むこともあればカスタマイズもする。俺のおすすめはコーラとホワイトソーダだ。クリーミーさがプラスされて、コーラフロートを飲んでいるようで、間違いなくうまい!
輝紀、みっちゃん、昇流、新座とはカラオケに行ったことがあるけれど、百彩ちゃんとは初めてだ。どんな歌声なのか楽しみで仕方がない。
もちろん、初めては俺たちだけではなく、百彩ちゃんもそうだ。とういかカラオケ自体初めてらしい。大丈夫かな? 本当はカラオケに来たくなかったのかなと、少し心配になってくる。自分の番が来るまで何度も前髪を整えたり、深呼吸したりとずっとソワソワしていた。みっちゃんが大丈夫だよと背中を摩り、新座はこうだよと発声を教えていた。
「百彩ちゃんがんばれ」
いわゆるコンパとかいうあれのように、男女別に座っていたため、向かいにいる百彩ちゃんにちゃんと聞こえていたからわからないけれど、拳を握りエールを送った。
歌い出すと少し声が震えていたけれど、とても綺麗な歌声だった。透き通っていて純度一二〇パーセントの清らかな声色、目を閉じるとそのまま夢の中に落ちていきそうだ。
みっちゃんと新座がうまいじゃんいいじゃんと肩を叩いたり、間奏の間に飲んで飲んでとドリンクを差し出したりと、すっかり緊張も解けたようで、歌声は震えることなく、しっかりとしていた。
百彩ちゃんめっちゃよかったよと親指を立てて呼びかけると、ありがとうとハニカんでいた。チラッと視線が合い、頬を薄ピンクに染めている百彩ちゃんを見ていると、ギュッと抱きしめたくなる。
飲み物がなくなりみっちゃんとドリンクバーに取りに行った。
「ろくん」
「みっちゃん、次何飲む? 俺はやっぱりコーラと……」
「ろくん、あのさ、もっちゃんから多少のことは聞いたよ」
「えっ、何?」
みっちゃんを見ると目つきが少し怖かった。怒っているのか、真剣な表情なのか、どちらとも取れる。
「カラオケに着く前さ、もっちゃんといい雰囲気だったでしょ?」
「えっ? そーだっけ?」
何を言われるのか恐怖に駆られて、ドリンクを持ち、何事もなかったかのようにさりげなく立ち去ろうという思惑は、お見通しだったようだ。
「ごまかさないで」
「いや、だって情けないけどさ」
「どんだけの付き合いだと思ってんの? ろくんが優柔不断って知ってる」
呆れたようにため息をつかれた。
「俺……そこまで言ってない……」
「えっ? あっ……じゃなくて、今日のもっちゃん可愛いでしょ?」
「えっ、そ、そりゃめちゃくちゃ可愛いよ」
「だったら、ちゃんと言ってあげなよ。心の声が漏れちゃったとかじゃなくて、ちゃんと伝えるの」
「えっ?」
みっちゃんにはお見通しのようだ。俺の不器用さは自分でもどうにかしたいと思う。でも、その瞬間になってしまったら、なかなかはっきりとは言い出せない。うまく言葉が見つからなくて……。
室内に戻り席についた。何度百彩ちゃんを見ただろうか、何度視線があっただろうか、どんなタイミングで何を言うべきなのか、考えれば考えるほどわからなくなった。
夕飯は地下街にあるハンバーガー店で食べた。ジャンクフードは高校生の味方だ。千円未満でハンバーガー、ポテト、ドリンクまで付いてくるなんて、こんなに最高なことはない。
女子たちの門限九時までにはまだ時間がある。今からやることと言ってもゲーセンやカフェでのんびりするとか……、他に思いつくことがない。もしこれがデートならと思うと、震えが止まらない。
「あの、わたしあそこに行ってみたい」
みんなで百彩ちゃんの指さした方を見た。
「うわっ、ちょっと待って、きれい」
「いや、すげーなこれ」
「福助はどこにいても目立てるよね?」
「今なら俺との写真撮影無料だぜ」
高層ビルの展望台に来た。みんなが好き勝手に楽しそうにしているところ、俺と来たらたじろいでいる。情けないことにオバケやらゾンビやらはもちろん怖くて無理だけれど、こういった高所も苦手だ。目の前の絶景よりもまず下に降りたい。
「絽薫くん、大丈夫?」
顔を覗き込み心配してくれている。
「えっ? 全然。大丈夫に決まってる、うん」
けれど、まともに見られない。百彩ちゃんの可愛さと恐怖が入り混じって、平行バランスが崩れそうだった。
「ねぇ、わたしと絽薫くん先に階段降りて下に行ってるね」
「ろくん……まあもっちゃんがついててくれるなら」
「みんなごめん」
みんなはここが怖くないのかと、強がっているだけじゃないかと、疑いたくなる。最上階は下の階から吹き抜けになっていて、それだけでも怖いというのに、下からここまでは二、三階分ほどありそうだ。床は四方の窓側に沿って吊り橋のようにぐるりと回っている。手すりの部分は胸の辺りから塀になっているけれど、ガラス張りだ。嫌でも高さが強調される。そして何よりも最高の景色を見るためには、大パノラマの全面ガラス窓、柵があるとはいえ地上を見下ろすことはできない。
「じゃあ、下で待ってるね。絽薫くん、行こ」
「うん……」
何とも情けなさすぎて、帰りたい。というか、ここから消えたいという気持ちが、夜景とは反対に、心を霞ませていくようだ。
「俺、ダサすぎで……ごめんね」
階段の途中足を止めて、後ろ姿の百彩ちゃんを見下ろして力なく言った。降りる足が止まり、振り返るとこちらを見上げた。優しい眼差しを向けられて、目を逸らしてしまった。
「絽薫くん?」
俺の名前を呼ぶと、五段離れた距離を一歩ずつゆっくり詰めてきた。どうしたらいいかわからずに、ギュッと瞼を閉じた。頬に柔らかい何かが触れた。目を開けると百彩ちゃんが俺の頬に手を当てていた。恥ずかしさと高鳴りで胸がはち切れそうだった。
「ダサくなんかないよ。絽薫くんはいつもかっこいいから」
優しくて少し強い眼差しに吸い込まれそうだった。
「下、行こ」
「……うん」
のぼせそうなほどに身体が熱っていた。このまま後ろから百彩ちゃんのことを抱きしめたかった。
「ほら、見てー」
何かに気づいたように、急に窓側に向かって駆け出した。
「えっ? 百彩ちゃん」
呆気に取られながら、後を追った。その先には三段の段差があった。それに気づいていないのか、後ろを振り向きこっちこっちと手招きをしている。確実に転ぶと思い、全力で百彩ちゃんのところへと駆け寄った。
「危ない!」
「きゃっ、ありがと」
「うん」
受け止めた。ギリギリだったけれど、段差を飛び越えて百彩ちゃんの肩を抱いた。頭がクラっとした。百彩ちゃんから女子の香りがフェロモンのように漂ってきて、理性という壁が乾いた砂のように砕けそうだった。生唾を飲み込むと、ちょうど視線が交わった。優しい笑顔を向けられて、すかさず百パーセントの笑顔をお返しした。きっと目も鼻も開き切って笑顔というより、変顔になっていたと思う。
「絽薫くんがいなかったら、わたし転んでた」
くっついていた身体を離して、服装を整えながら言った。
「そーだね、確実に……ちゃんと前見てないと危ないよ?」
「うん……ごめん」
上目遣いでこちらを見上げた。しかめっ面で瞳を覗き込むように、百彩ちゃんを見返した。頬がピンク色になって、目がキュルンと見開いたと思うと、重なっていた視線を逸らされた。
「あっ、ほら、名古屋城。ここから見えるんだよ」
外を指さして窓側まで駆け寄った。
「あっ、ホントだ。きれいだね」
「でしょ?」
本来なら真っ暗なはずの景色は、街のネオンがまるで夜景を彩るイルミネーションのように、落ち着いた街並みに華やかさをプラスする。
でも、俺には百彩ちゃんの方が綺麗だよ。と心の中で湧き上がる気持ちがあるのに、目の前にするとやはり言えない。いつものように、心の声が漏れてはくれない。
あっちはテレビ塔で……と楽しそうに笑顔を見せている。ふとみっちゃんの言葉が思い浮かんだ。
『心の声が漏れちゃったとかじゃなくて、ちゃんと伝えるの』
————。
「絽薫くん? どーしたの?」
「えっ? いやその……」
夜景をバックに百彩ちゃんを見た。いくつもの光の輝きが重なり合い、まるで、百彩ちゃんから光が放たれているようだった。
浅く深呼吸をした。
「んっ?」
「百彩ちゃん、めちゃくちゃ綺麗だよ。なんか天使みたいに光ってる」
「えっ? ……そんなことないよ。天使なんて……」
儚さを残す声が聞こえた気がした。
どこか遠くを見ているようだった。今見えるパノラマの中ではなくて、俺の知らない何かを見ているのだろうか。
「百彩ちゃん?」
「えっ? 嫌だな、もう。恥ずかしいよ。絽薫くんが真剣な顔してるから、ボーッとしちゃったよ」
「えっ? 俺、どんな顔してた? はずいけど」
「えっとね……あれっ? そういえば平気じゃない?」
「えっ、何が?」
「ほら、外見ても怖くない?」
「えっ?」
窓の外を上から下に視線を下げた。ほんの一瞬、背中がゾクっとしたけれど、上の階から見た時ほどの怖さはなかった。
「あ、あー、なんか大丈夫っぽい」
「よかった」
「うん」
アートのような映像のようなそんな夜景は、意識しなければ高層階にいることを忘れさせてくれる。
「ふぁーあ。ごめん」
百彩ちゃんがふいにあくびをした。チラッと横目でこちらを見て、慌てて口元を押さえた。
「謝んなくたっていいよ、可愛いし」
「もう、やめてよ」
恥ずかしそうに俺の二の腕を叩いてきた。
「ごめん。ってか、あっちにベンチあるから座る?」
「うん」
ベンチまでの短い距離、時折触れる手がパチパチと弾けているかのように、くすぐったくて心を熱くする。
ベンチに座った。拳ひとつ分の些細な距離が精一杯だ。
「なんか熱くない?」
「暑い? エアコンが効いてて気持ちいいよ」
「だよね?」
ハハッと笑うしかなかった。
少しの心地いい沈黙が流れていた。それにほんの少しのアクセントが加わった。
「あっ、ごめん」
百彩ちゃんが俺にもたれ掛かってきた。
「うん。……いいよ、俺気になんないし。みんなくるまで、もたれてても」
「……うん、ありがと。そーする」
「うん」
腕に伝わる体温が心地よかった。ほんわかと暖かいお互いの温もりが、全身まで染み渡り、ふたりだけの空間にいるようだった。
怖いものが苦手な自分を今日なら許せる。
一〇分程経っただろうか、気持ちよくてふたりでうとうととしていた。このまま待っていてもよかった。これぞ待ちこそ時に楽しかれだ。普通なら一〇分間何もなく待たされていたら、イラっとしてしまいそうだけれど、今はこの時間に感謝しかない。
こんなことがなければ、みんなといるときにふたりきりになれる瞬間なんてこなかった。そんなことを頭の奥の方で考えていると、後ろの方から煮え切らないような、焦ったいような声がヒソヒソと聞こえてきた。
後ろを向くと、上の階から降りてきただろう四人が足元がぐらつくように立っていた。
「わっ、みんなどーしたの? ……百彩ちゃん」
半分くらい眠りに落ちていた百彩ちゃんを起こして、後ろを指さした。
「あれっ? どーしたの?」
「なんか、いつ話しかけたらいいかなって」
「そーだよな? なんかいい雰囲気だったしな?」
「そーなの、うち的にはこのまま帰るのもありだったかも」
「何を言うだ、俺だってあーんなことこーんなことしてーやい!」
「昇流ちゃんごめんな」
「いや、サッカードに言われたって……」
何やら茶番劇を始めているようで、少し見届けた。
「あんたたちがここで無意味なこと言っててどーするの?」
「かりん、そんな咎めないであげて、このただ身長がでかいだけの男を」
「はっ! 身長がでかいだけ? 俺が……アキ・ホリデー、きみの情報は間違っている!」
「うち、いや、このあたいの情報を舐めてるわけ?」
新座は睨みを利かせて昇流を見た。
「いや、アキホリデー、俺がそんなこと……」
俺はふたりに近づいて右手を前に出し、五、四、三とカウントを取った。
「はい、終了!」
「チクショー!」
輝紀とみっちゃんは何のことやらと目が点になっていた。
「ってか、いつからエチュードになったの?」
「えっ?……あはは。すまん、つい」
「うちも福助に乗っちゃって」
てへっと舌を出して照れ笑いをした。
「みんなどうだった? 上からの景色は」
百彩ちゃんの何気ない一言で、茶番劇が一瞬にして空気から消えた。
「よかったよー。絶景だった」
みっちゃんはそう言うとスマホを見せてきた。画面いっぱいに広がる夜景は写真でもよくわかるほどに綺麗だった。
「でも、こっちからでも多少角度は違うだけで、変わんなく綺麗だよね?」
「写真撮ろう?」
輝紀の一言で各々睨み合うかのような含み笑いをして、ダッシュで窓際まで向かった。
身長がでかければ手も長いということで、昇流がスマホを構えた。変顔したり、可愛い顔したり、流行りのポーズをしたりと何枚か写真を撮った。後は、ササっと展示などを見て、エレベーターに乗り込んだ。
明日は学校があるため、門限ギリギリまでと言うわけにはいかない。地上に着くなり、慌てて地下鉄を目指した。また明日学校でと、手を振りそれぞれの帰路に着いた。
百彩ちゃんを家まで送った。暗い道をひとりで歩かせるわけにはいかない。
何だろうか? 何か変わったわけではないけれど、いつもよりも百彩ちゃんのことが気になる? 恋しい? 恋しいは恋しいけれど、めちゃくちゃ好きだ、このままどこかに行ってしまいたいくらいに。
「じゃあ、また明日」
庭先で手を振り、寂しさが募るのを感じながら、ペダルに足を乗せた。
門扉の開く音がして、よしっと踏み出そうとした、そのとき百彩ちゃんの声がした。
「待って!」
「えっ?」
振り向くと百彩ちゃんがこちらへと飛び出してきていた。
「百彩ちゃん、どーしたの?」
少し目を泳がせて、お腹の辺りで手を何度かギュッギュッと握っていた。
「えっ、あの、その、別に何でもないんだけど……今日は楽しかったね。ありがと」
街灯がまるで舞台のスポットライトのように、俺たちを浮かび上がらせる。
そして、純心すぎる百彩ちゃんの笑顔が夜に輝く妖精のようだった。
「うん、こっちこそ、楽しかった」
「また明日ね」
そう言うと、グリップを握る手に優しく手が触れた。その瞬間、全身に淡く電気が走り、身動きが取れなくなった。そのままほっぺにチュッとキスをされた。淡い電気が爆音の心臓ともに血液に火をつけたようだった。嬉しいのに、最高なのに、何のリアクションもできなかった。
それは百彩ちゃんも同じだったようで、自分でやったことなのにかなり驚いていた。ハニカんだ表情を見せて、じゃあねと手を振り玄関ドアまで走っていった。ドアノブに手を掛けこちらを一瞬振り返ると、家の中に入った。
玄関ドアを見つめた、まだ百彩ちゃんの影が残るような気がしたから。
ほっぺに触れる。柔らかくてマシュマロみたいな唇だった。百彩ちゃんの吐息がまだ残っていた。
夜の通学路をこれでもかと言わんばかりにゆっくりと進む。
やったー! と叫びたいはずなのに、何も声に出てこない。石焼き芋のように熱せられて、ホクホクねっとりと甘ったるいこの状態を、俺は、手放したくないのかもしれない。
進む目の前が明るくなったり暗くなったり、おしゃれなキャンドルが、家までの道のりを照らしてくれてるかのようだ。
こんな気持ちは本当に初めてだ。これが恋ってやつなのかと、家に着くまでの間、空想と現実を何度も重ねていた。
失態だった。
……オワタ。
百彩ちゃんの隣で悲鳴を上げて、袖を掴んで二の腕を掴んで、まるで俺の方が女子だった。「大丈夫だよ」と小さな子をあやすように、よしよしと頭を撫でられた。きっと涙目になって見つめていたはず。
「ろくん、ホラー平気になったって言わなかった?」
みっちゃんはため息混じりで同情するように問いかけた。俺もため息混じりに小さく頷くことしかできなかった。
「ちょい待ち、今日のこれってそんなホラーだった? うち的にはちょいファンタジーだった」
「ロカ男、漢が泣いてるぜ!」
映画を見終わりロビーに出てきた。
ポップコーンやチュロスの甘い香りが、再び鼻の中に心地よく侵入してくる。チラッと目に入る誰かの持ったそれが、たまらなく今の自分に必要な気がして、小さなため息混じりに振り返ってしまう。
狭くはないはずの空間が人混みで賑わっていた。通学電車の中で見たことありそうな顔やら、カップルやら、怖そうな人たち、親子連れ、さまざまな人達が同じ目的でここにいる。変な感覚だ。
今日は夏休み前の最後の日曜日、休みに入れば当分の間部活漬けになる。だから、その前に街に繰り出したかった。
「絽薫、福居昇流、行くぞ」
「いずこへ?」
「連れションだろ?」
「おう!」
「じゃ、うちらも?」
映画を見る前にトイレには行ったけれど、ホラーを見ていたんだから、そりゃ尿意には勝てない。
俺は輝紀に肩を抱かれて、トイレまで歩いていった。「心配すんな」とウィンクからの笑顔に少し泣きそうになった。情けない俺を否定せず、大丈夫なんだと励まされているようだ。
「絽薫、お前以外といい感じじゃなかった?」
「えっ? そんなはずないよ」
突拍子もない問いかけに思わず眉を顰めた。
「何でだよ? もっちゃん、ロビーに出てくるまでずっと寄り添ってたじゃん」
もしかしたら、そんな事実があったのかもしれない。けれど、自分の不甲斐なさに今さっきの記憶さえも消し去りそうになる。
「えっ、そーだっけ?」
男の園だ。女子には言えない話は今ここでしかできない。
手洗い場の鏡に映る自分をうんうんと頷きながら見た。結構イケている。俺、輝紀、福居、レベルは高いと思う。
「キャワメンとかそんなことじゃねーからな」
「なぬ、サッカードは自分ひとりがイケメンだと?」
「お前らは女心がまったくわかってねーな」
「ギクッ! そそそそりゃ、童貞だしまだ何も知らない」
輝紀は浅いため息を吐き、俺と福居の肩を抱き、鏡に向き合った。
「俺は童貞じゃない。いいか? そういうことじゃないんだよ。もし、凛花や新座ならダメだと思う。でも、もっちゃんはあれでいいんだと思う」
鏡越しに間違いないと、自信のある笑顔で俺に頷いた。
「マジで? 信じていいの?」
「ああ、絶対にもっちゃんは嫌がってない」
「まさか、尊い?」
「福居昇流の言う通り」
「じゃあ、俺は? まだ見込みあるのかな?」
いつの時代だか、昼の生放送の司会者のように言った。
「ごめん、昇流ちゃんは……眼中にない!」
「サッカード……そーだよな? わかってたさ」
「昇流ちゃん、ごめん。俺……」
「ロカ男、本気のごめんとか……ムナシイ」
三人のバカな雑談が落ち着いたところで、何気なくロビーへと出ていった。どこにいるのか、キョロキョロ探していると、エスカレーター前の壁際に寄りかかっていた。「何してたの?」とみっちゃんはニンマリとした笑顔を俺たちに向けた。見透かされているようで、少し恥ずかしい。
流されるようにエスカレーターに乗り、一階のレストランフロアへとやってきた。甘い香りが消えていくと、今度はソースやら油やらの匂いに鼻がヒクヒクと反応してしまう。ごくりと生唾を飲み込んだ。
和、洋、中、それぞれ違った雰囲気の店舗がいくつかあった。ちょうど正午を回る頃、店の前には列ができていた。待ちくたびれたような顔を見ると気乗りしなくなる。
待つ? 待たない? 六人はそれぞれ顔を見合わせたけれど、まだ時間もあるし、ささしまライブ駅から名駅の方へと歩くことにした。
梅雨明けが発表されて、より一層暑さが増したように感じる。
線路の高架下を歩けたならよかったけれど、線路を隠すようにビルが立ち並び、そのまままっすぐに進んでくれているなら、日差しもよけられた。それなのに、弧を描くように日差しを出迎えている。そこに信号待ちがやってくる。確実に策略でしかない。
みんなバテそうになると、こっちこっちと駅裏にあるファミレスに入った。別にいつもの感じでよかった。可愛い店とか、おしゃれな店とかそんなものはデートのときや大人になってからでいいと思う。
二〇分程度待ち時間はあったけれど、室内は冷房が効いていて、待ちこそ時に嬉しかれとことわざをアレンジしたくなる。
ドリンクバーを頼み、一時間は居座っていた。涼しくて外の暑さは映像が何かだっけと、別次元のような感覚になっていた。そんなことがあるはずもなく、会計を済ませて店のドアが開いた瞬間、現実逃避だったと思い知らされた。
髪の毛の一本一本に纏わりつく熱い空気に、日向はホットプレートのように、もし素足で歩いたならジュッと焦げ目がつきそうだ。やっと夏が始まったというのに、先日までの梅雨を懐かしんでしまう。
涼しさと水分を求めて、歩いて七分ほどの距離にあるカラオケへと向かった。なるべく、ビルの陰になる場所を選んで進むけれど、大通りの横断歩道は仕方がなかった。いや、というよりかは失敗だった。でも、俺はこういうのは嫌いではない。むしろ、気持ちよくて好きだ。
信号機の青色が点滅をしていたため、昇流がダッシュでーす! とその高身長を活かして一気に渡り切った。それに続いた俺たちって、やはりまだ子どもなんだなと思えてくる。たった数メートルの距離でも汗が溢れ出し、日陰を歩いていた意味がなくなってしまった。釣られた自分たちがバカだとわかっていたけれど、信号が変わるや否や昇流が責められたのは仕方がない。
百彩ちゃんを見ると同じように汗を拭っていても、なんだか涼やかに感じる。今日の服装のせいだろうか。
小さめのクルッとした襟にふんわりと風が靡くような裾、前裾が短めになっていて綺麗な足が露になる白のシャツワンピ、Vネックの花柄のような透かし編みで、上半身を包むような少し大きめな赤のジレ、色を合わせたメガネと、アクセントのピンクの英字が可愛い赤と白のハイカットキャンバススニーカー、差し色と言えばいいのかグレーの靴下がチョイ見えしている。髪は後ろでふんわりとお団子だ。
このままファッション誌から飛び出してきたのかと思えるほど、究極に可愛い。
「絽薫くん、どーしたの?」
俺の視線に気づいてしまったのか、メガネの隙間から上目遣いできょとんとした表情を見せた。
生唾を飲み込んだ。こんな瞳で見つめられたら、心だけではなく体だって反応してしまう。いつもなら心の声が漏れ出すところ、他の漏れ出した部分を気づかれないように、手振り素振りでごまかすしかなかった。
「えっ、ななななんでもないよ」
「……なんだ、そっか」
気のせいだろうか、俺の返事が下手すぎたのだろうか、百彩ちゃんの顔が少しつまらなさそうに見えた。ほんの数秒だけれど、口を尖らせて小さな子どものように膨れていた。
「うん……」
カラオケに着くと、さっそくフリードリンクだからとドリンクバーにみんなで押しかけた。そのまま飲むこともあればカスタマイズもする。俺のおすすめはコーラとホワイトソーダだ。クリーミーさがプラスされて、コーラフロートを飲んでいるようで、間違いなくうまい!
輝紀、みっちゃん、昇流、新座とはカラオケに行ったことがあるけれど、百彩ちゃんとは初めてだ。どんな歌声なのか楽しみで仕方がない。
もちろん、初めては俺たちだけではなく、百彩ちゃんもそうだ。とういかカラオケ自体初めてらしい。大丈夫かな? 本当はカラオケに来たくなかったのかなと、少し心配になってくる。自分の番が来るまで何度も前髪を整えたり、深呼吸したりとずっとソワソワしていた。みっちゃんが大丈夫だよと背中を摩り、新座はこうだよと発声を教えていた。
「百彩ちゃんがんばれ」
いわゆるコンパとかいうあれのように、男女別に座っていたため、向かいにいる百彩ちゃんにちゃんと聞こえていたからわからないけれど、拳を握りエールを送った。
歌い出すと少し声が震えていたけれど、とても綺麗な歌声だった。透き通っていて純度一二〇パーセントの清らかな声色、目を閉じるとそのまま夢の中に落ちていきそうだ。
みっちゃんと新座がうまいじゃんいいじゃんと肩を叩いたり、間奏の間に飲んで飲んでとドリンクを差し出したりと、すっかり緊張も解けたようで、歌声は震えることなく、しっかりとしていた。
百彩ちゃんめっちゃよかったよと親指を立てて呼びかけると、ありがとうとハニカんでいた。チラッと視線が合い、頬を薄ピンクに染めている百彩ちゃんを見ていると、ギュッと抱きしめたくなる。
飲み物がなくなりみっちゃんとドリンクバーに取りに行った。
「ろくん」
「みっちゃん、次何飲む? 俺はやっぱりコーラと……」
「ろくん、あのさ、もっちゃんから多少のことは聞いたよ」
「えっ、何?」
みっちゃんを見ると目つきが少し怖かった。怒っているのか、真剣な表情なのか、どちらとも取れる。
「カラオケに着く前さ、もっちゃんといい雰囲気だったでしょ?」
「えっ? そーだっけ?」
何を言われるのか恐怖に駆られて、ドリンクを持ち、何事もなかったかのようにさりげなく立ち去ろうという思惑は、お見通しだったようだ。
「ごまかさないで」
「いや、だって情けないけどさ」
「どんだけの付き合いだと思ってんの? ろくんが優柔不断って知ってる」
呆れたようにため息をつかれた。
「俺……そこまで言ってない……」
「えっ? あっ……じゃなくて、今日のもっちゃん可愛いでしょ?」
「えっ、そ、そりゃめちゃくちゃ可愛いよ」
「だったら、ちゃんと言ってあげなよ。心の声が漏れちゃったとかじゃなくて、ちゃんと伝えるの」
「えっ?」
みっちゃんにはお見通しのようだ。俺の不器用さは自分でもどうにかしたいと思う。でも、その瞬間になってしまったら、なかなかはっきりとは言い出せない。うまく言葉が見つからなくて……。
室内に戻り席についた。何度百彩ちゃんを見ただろうか、何度視線があっただろうか、どんなタイミングで何を言うべきなのか、考えれば考えるほどわからなくなった。
夕飯は地下街にあるハンバーガー店で食べた。ジャンクフードは高校生の味方だ。千円未満でハンバーガー、ポテト、ドリンクまで付いてくるなんて、こんなに最高なことはない。
女子たちの門限九時までにはまだ時間がある。今からやることと言ってもゲーセンやカフェでのんびりするとか……、他に思いつくことがない。もしこれがデートならと思うと、震えが止まらない。
「あの、わたしあそこに行ってみたい」
みんなで百彩ちゃんの指さした方を見た。
「うわっ、ちょっと待って、きれい」
「いや、すげーなこれ」
「福助はどこにいても目立てるよね?」
「今なら俺との写真撮影無料だぜ」
高層ビルの展望台に来た。みんなが好き勝手に楽しそうにしているところ、俺と来たらたじろいでいる。情けないことにオバケやらゾンビやらはもちろん怖くて無理だけれど、こういった高所も苦手だ。目の前の絶景よりもまず下に降りたい。
「絽薫くん、大丈夫?」
顔を覗き込み心配してくれている。
「えっ? 全然。大丈夫に決まってる、うん」
けれど、まともに見られない。百彩ちゃんの可愛さと恐怖が入り混じって、平行バランスが崩れそうだった。
「ねぇ、わたしと絽薫くん先に階段降りて下に行ってるね」
「ろくん……まあもっちゃんがついててくれるなら」
「みんなごめん」
みんなはここが怖くないのかと、強がっているだけじゃないかと、疑いたくなる。最上階は下の階から吹き抜けになっていて、それだけでも怖いというのに、下からここまでは二、三階分ほどありそうだ。床は四方の窓側に沿って吊り橋のようにぐるりと回っている。手すりの部分は胸の辺りから塀になっているけれど、ガラス張りだ。嫌でも高さが強調される。そして何よりも最高の景色を見るためには、大パノラマの全面ガラス窓、柵があるとはいえ地上を見下ろすことはできない。
「じゃあ、下で待ってるね。絽薫くん、行こ」
「うん……」
何とも情けなさすぎて、帰りたい。というか、ここから消えたいという気持ちが、夜景とは反対に、心を霞ませていくようだ。
「俺、ダサすぎで……ごめんね」
階段の途中足を止めて、後ろ姿の百彩ちゃんを見下ろして力なく言った。降りる足が止まり、振り返るとこちらを見上げた。優しい眼差しを向けられて、目を逸らしてしまった。
「絽薫くん?」
俺の名前を呼ぶと、五段離れた距離を一歩ずつゆっくり詰めてきた。どうしたらいいかわからずに、ギュッと瞼を閉じた。頬に柔らかい何かが触れた。目を開けると百彩ちゃんが俺の頬に手を当てていた。恥ずかしさと高鳴りで胸がはち切れそうだった。
「ダサくなんかないよ。絽薫くんはいつもかっこいいから」
優しくて少し強い眼差しに吸い込まれそうだった。
「下、行こ」
「……うん」
のぼせそうなほどに身体が熱っていた。このまま後ろから百彩ちゃんのことを抱きしめたかった。
「ほら、見てー」
何かに気づいたように、急に窓側に向かって駆け出した。
「えっ? 百彩ちゃん」
呆気に取られながら、後を追った。その先には三段の段差があった。それに気づいていないのか、後ろを振り向きこっちこっちと手招きをしている。確実に転ぶと思い、全力で百彩ちゃんのところへと駆け寄った。
「危ない!」
「きゃっ、ありがと」
「うん」
受け止めた。ギリギリだったけれど、段差を飛び越えて百彩ちゃんの肩を抱いた。頭がクラっとした。百彩ちゃんから女子の香りがフェロモンのように漂ってきて、理性という壁が乾いた砂のように砕けそうだった。生唾を飲み込むと、ちょうど視線が交わった。優しい笑顔を向けられて、すかさず百パーセントの笑顔をお返しした。きっと目も鼻も開き切って笑顔というより、変顔になっていたと思う。
「絽薫くんがいなかったら、わたし転んでた」
くっついていた身体を離して、服装を整えながら言った。
「そーだね、確実に……ちゃんと前見てないと危ないよ?」
「うん……ごめん」
上目遣いでこちらを見上げた。しかめっ面で瞳を覗き込むように、百彩ちゃんを見返した。頬がピンク色になって、目がキュルンと見開いたと思うと、重なっていた視線を逸らされた。
「あっ、ほら、名古屋城。ここから見えるんだよ」
外を指さして窓側まで駆け寄った。
「あっ、ホントだ。きれいだね」
「でしょ?」
本来なら真っ暗なはずの景色は、街のネオンがまるで夜景を彩るイルミネーションのように、落ち着いた街並みに華やかさをプラスする。
でも、俺には百彩ちゃんの方が綺麗だよ。と心の中で湧き上がる気持ちがあるのに、目の前にするとやはり言えない。いつものように、心の声が漏れてはくれない。
あっちはテレビ塔で……と楽しそうに笑顔を見せている。ふとみっちゃんの言葉が思い浮かんだ。
『心の声が漏れちゃったとかじゃなくて、ちゃんと伝えるの』
————。
「絽薫くん? どーしたの?」
「えっ? いやその……」
夜景をバックに百彩ちゃんを見た。いくつもの光の輝きが重なり合い、まるで、百彩ちゃんから光が放たれているようだった。
浅く深呼吸をした。
「んっ?」
「百彩ちゃん、めちゃくちゃ綺麗だよ。なんか天使みたいに光ってる」
「えっ? ……そんなことないよ。天使なんて……」
儚さを残す声が聞こえた気がした。
どこか遠くを見ているようだった。今見えるパノラマの中ではなくて、俺の知らない何かを見ているのだろうか。
「百彩ちゃん?」
「えっ? 嫌だな、もう。恥ずかしいよ。絽薫くんが真剣な顔してるから、ボーッとしちゃったよ」
「えっ? 俺、どんな顔してた? はずいけど」
「えっとね……あれっ? そういえば平気じゃない?」
「えっ、何が?」
「ほら、外見ても怖くない?」
「えっ?」
窓の外を上から下に視線を下げた。ほんの一瞬、背中がゾクっとしたけれど、上の階から見た時ほどの怖さはなかった。
「あ、あー、なんか大丈夫っぽい」
「よかった」
「うん」
アートのような映像のようなそんな夜景は、意識しなければ高層階にいることを忘れさせてくれる。
「ふぁーあ。ごめん」
百彩ちゃんがふいにあくびをした。チラッと横目でこちらを見て、慌てて口元を押さえた。
「謝んなくたっていいよ、可愛いし」
「もう、やめてよ」
恥ずかしそうに俺の二の腕を叩いてきた。
「ごめん。ってか、あっちにベンチあるから座る?」
「うん」
ベンチまでの短い距離、時折触れる手がパチパチと弾けているかのように、くすぐったくて心を熱くする。
ベンチに座った。拳ひとつ分の些細な距離が精一杯だ。
「なんか熱くない?」
「暑い? エアコンが効いてて気持ちいいよ」
「だよね?」
ハハッと笑うしかなかった。
少しの心地いい沈黙が流れていた。それにほんの少しのアクセントが加わった。
「あっ、ごめん」
百彩ちゃんが俺にもたれ掛かってきた。
「うん。……いいよ、俺気になんないし。みんなくるまで、もたれてても」
「……うん、ありがと。そーする」
「うん」
腕に伝わる体温が心地よかった。ほんわかと暖かいお互いの温もりが、全身まで染み渡り、ふたりだけの空間にいるようだった。
怖いものが苦手な自分を今日なら許せる。
一〇分程経っただろうか、気持ちよくてふたりでうとうととしていた。このまま待っていてもよかった。これぞ待ちこそ時に楽しかれだ。普通なら一〇分間何もなく待たされていたら、イラっとしてしまいそうだけれど、今はこの時間に感謝しかない。
こんなことがなければ、みんなといるときにふたりきりになれる瞬間なんてこなかった。そんなことを頭の奥の方で考えていると、後ろの方から煮え切らないような、焦ったいような声がヒソヒソと聞こえてきた。
後ろを向くと、上の階から降りてきただろう四人が足元がぐらつくように立っていた。
「わっ、みんなどーしたの? ……百彩ちゃん」
半分くらい眠りに落ちていた百彩ちゃんを起こして、後ろを指さした。
「あれっ? どーしたの?」
「なんか、いつ話しかけたらいいかなって」
「そーだよな? なんかいい雰囲気だったしな?」
「そーなの、うち的にはこのまま帰るのもありだったかも」
「何を言うだ、俺だってあーんなことこーんなことしてーやい!」
「昇流ちゃんごめんな」
「いや、サッカードに言われたって……」
何やら茶番劇を始めているようで、少し見届けた。
「あんたたちがここで無意味なこと言っててどーするの?」
「かりん、そんな咎めないであげて、このただ身長がでかいだけの男を」
「はっ! 身長がでかいだけ? 俺が……アキ・ホリデー、きみの情報は間違っている!」
「うち、いや、このあたいの情報を舐めてるわけ?」
新座は睨みを利かせて昇流を見た。
「いや、アキホリデー、俺がそんなこと……」
俺はふたりに近づいて右手を前に出し、五、四、三とカウントを取った。
「はい、終了!」
「チクショー!」
輝紀とみっちゃんは何のことやらと目が点になっていた。
「ってか、いつからエチュードになったの?」
「えっ?……あはは。すまん、つい」
「うちも福助に乗っちゃって」
てへっと舌を出して照れ笑いをした。
「みんなどうだった? 上からの景色は」
百彩ちゃんの何気ない一言で、茶番劇が一瞬にして空気から消えた。
「よかったよー。絶景だった」
みっちゃんはそう言うとスマホを見せてきた。画面いっぱいに広がる夜景は写真でもよくわかるほどに綺麗だった。
「でも、こっちからでも多少角度は違うだけで、変わんなく綺麗だよね?」
「写真撮ろう?」
輝紀の一言で各々睨み合うかのような含み笑いをして、ダッシュで窓際まで向かった。
身長がでかければ手も長いということで、昇流がスマホを構えた。変顔したり、可愛い顔したり、流行りのポーズをしたりと何枚か写真を撮った。後は、ササっと展示などを見て、エレベーターに乗り込んだ。
明日は学校があるため、門限ギリギリまでと言うわけにはいかない。地上に着くなり、慌てて地下鉄を目指した。また明日学校でと、手を振りそれぞれの帰路に着いた。
百彩ちゃんを家まで送った。暗い道をひとりで歩かせるわけにはいかない。
何だろうか? 何か変わったわけではないけれど、いつもよりも百彩ちゃんのことが気になる? 恋しい? 恋しいは恋しいけれど、めちゃくちゃ好きだ、このままどこかに行ってしまいたいくらいに。
「じゃあ、また明日」
庭先で手を振り、寂しさが募るのを感じながら、ペダルに足を乗せた。
門扉の開く音がして、よしっと踏み出そうとした、そのとき百彩ちゃんの声がした。
「待って!」
「えっ?」
振り向くと百彩ちゃんがこちらへと飛び出してきていた。
「百彩ちゃん、どーしたの?」
少し目を泳がせて、お腹の辺りで手を何度かギュッギュッと握っていた。
「えっ、あの、その、別に何でもないんだけど……今日は楽しかったね。ありがと」
街灯がまるで舞台のスポットライトのように、俺たちを浮かび上がらせる。
そして、純心すぎる百彩ちゃんの笑顔が夜に輝く妖精のようだった。
「うん、こっちこそ、楽しかった」
「また明日ね」
そう言うと、グリップを握る手に優しく手が触れた。その瞬間、全身に淡く電気が走り、身動きが取れなくなった。そのままほっぺにチュッとキスをされた。淡い電気が爆音の心臓ともに血液に火をつけたようだった。嬉しいのに、最高なのに、何のリアクションもできなかった。
それは百彩ちゃんも同じだったようで、自分でやったことなのにかなり驚いていた。ハニカんだ表情を見せて、じゃあねと手を振り玄関ドアまで走っていった。ドアノブに手を掛けこちらを一瞬振り返ると、家の中に入った。
玄関ドアを見つめた、まだ百彩ちゃんの影が残るような気がしたから。
ほっぺに触れる。柔らかくてマシュマロみたいな唇だった。百彩ちゃんの吐息がまだ残っていた。
夜の通学路をこれでもかと言わんばかりにゆっくりと進む。
やったー! と叫びたいはずなのに、何も声に出てこない。石焼き芋のように熱せられて、ホクホクねっとりと甘ったるいこの状態を、俺は、手放したくないのかもしれない。
進む目の前が明るくなったり暗くなったり、おしゃれなキャンドルが、家までの道のりを照らしてくれてるかのようだ。
こんな気持ちは本当に初めてだ。これが恋ってやつなのかと、家に着くまでの間、空想と現実を何度も重ねていた。
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