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当日 後編(司)
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俺は慌てて術野を覗き込んだ。
「思ったより門脈の浸潤範囲が長いねぇ……」
低く唸るような教授の声を聞きながらその手元を見つめると、病魔は膵臓の背側を流れる紫色の清流にがっちりと噛みついて、密やかに範囲を広げていた。その長さは五センチはあるだろう。
予想していたよりも、先生の病気は進行していたのだ。
どす黒い霧が一気に胸の中に立ち込めた。
「このまま進めるなら、血管移植が必要だな」
赤木教授の声に安西先生は静かに頷いて、「私もそう思います」とはっきりと答えた。
続いて教授は安西先生の隣に視線を移し、「鈴田先生」と改まった口調で言った。
「見ての通り門脈の浸潤が長いことは厄介だが、そのことを除けば予定通り根治手術が可能と考えられる。しかし何しろ肝転移を伴う膵癌だ。引き返すなら今しかないが……どうする?」
先生の命の分岐点に立って、どちらにするか今直ぐ俺に決めろと言うのか!?
「……」
皆の視線が一斉にこちらに集中するなか、俺は言葉が出なかった。
短時間に頭の中を色々な思いが駆け巡る。
もともと根治性がほとんどない事は、先生も十分理解していた。その上でこの手術を希望された。先生は、自分の運命を少ないチャンスに賭けたのだ。
しかし、さらに深刻なこの状況でも、先生は同じ選択をされただろうか?
たとえ手術が成功しても、再発する可能性がいっそう高くなった状況でも。
分からない、どうすればいい……。
とその時、『リンダ……リンダ……』少し笑みを含んだ先生の声が、優しく耳に響いた。
同時に、今朝の先生の背中が頭の中にありありと浮かんだ。覚悟と威厳に満ちた広い背中が。
「教授、切除でお願いします」
気付けば俺は何のためらいもなく、はっきりとそう口にしていた。
「よし分かった」
頷きながら答える声も、同じくらい強い。
「グラフトは右の総腸骨静脈を使おう。せっかく血管外科のエースが入ってるんだから、腕前を見せてもらおう。鈴田先生、頼んだよ」
カリスマ教授は少し楽しげに言って、メガネの奥で微かに目を細めた。
腕前もなにもグラフトの採取はそれほど難しいことではないが、冗談交じりに言って、張り詰めた空気を和ませてくれたのだろう。
「はい」
もう後戻りはできない。
教授と安西先生の手の動きがさらに加速し、あっという間に胃、十二指腸、胆管が切り離されてゆく。
「鈴田先生、もう少しで膵臓と門脈を切って膵臓を取り出すから、そろそろグラフトをとってくれるかな?」
「分かりました」
俺は努めて冷静な声を出したが、胸の奥ではまた心臓がめちゃくちゃなリズムを刻み始めていた。手足は緊張で強張り、頭や体のあちこちを、まるで虫が這い回っているかのような感覚が広がっていた。
何食わぬ顔で先生の足の方に立ち、右の下腹にメスを入れた。
今までに何度も同じことをしてきたというのに、右手が震える。
『おい、いったい何年目だ、だらしないぞ!!』
自分を叱咤しながら深呼吸をして息を整え、言うことを聞かない右手を、左手で押さえつけた。
ほんの少しの間を置いて、何故か左手の上に微かな温もりを覚えた。まるで誰かの手がそっと重なったような……。
『リンダ』
あ、またあの声だ……。一瞬ふわっと気持ちが逸れた。
我に返って手元を見ると震えはピタリと止まっており、心は落ち着きを取り戻していた。
そこからは一気に後腹膜に切開をおき、総腸骨静脈を露出。静脈周囲を丁寧に愛おしむように剥離を進めた。
再建に使う血管なので失敗は許されない。
思い描いた長さを確保した後に静脈を切離し、摘出した。
膵臓を見ると、あとは門脈を切れば摘出できる状態だ。
やはりこの二人の手術は恐ろしく早い。しかも丁寧だ。俺様教授が皆から尊敬されるのも頷ける。
「おぉ、ちょうど一緒だったねぇ」
教授は軽やかに言った。
摘出したグラフトを門脈の間に挟み、長さを確認する。
「おっ、いいねぇ、ぴったりだ。君、血管辞めてうちに来ないか?」
なんて冗談を言いながらも、教授は手を休めることはなく、門脈の足側から吻合を始めている。
一針一針血管が繋がれてゆく。強すぎず弱すぎず、確実に確実に。
全周縫い終わった後に、一度クランプ鉗子をはずして血液を流す。繋いだ部分からの漏れはなさそうだ。
今度は頭側を同じように縫合してゆく。
病魔により一度は切り離された道が、少しづつけれど着実に繋がってゆく。
全周を回った糸が、新庄の手によって丁寧に結紮された。
「うん、良さそうだ……。クランプを外します」
赤木教授はそう言って、クランプ鉗子を外した。
繋がれた道を通って一気に血液が流れ出す。しなりと虚脱していたグラフトは一瞬で息を吹き返したように膨らみ、力強く脈を打って先生の赤い血を、そして命を繋いでゆく。俺は何とも言えない高揚感に包まれていた。
先生、まだ雲の龍にはのせません。どうか生きて下さい……。
「鈴田先生がきれいにとってくれたから、門脈血流も問題なさそうだね」
「僕は何も……でも、大丈夫そうですね」
「ははは、誉め言葉は遠慮なく受け取るもんだぞ」
赤木教授の声を聞きながら、俺はグラフトが脈打つ美しい光景を目に焼き付けた。
そこからは、膵臓、胆管、胃が次々と繋ぎ直され、肝臓もあっという間に切離された。
「あとは、三人にまかせていいかな?」
「分かりました」「ありがとうございました」「お疲れ様でした」
腹腔ドレーンを留置し終わると、赤木教授は手袋をはずしながら手術台を離れた。
あとは閉腹するだけだ。
「じゃあ鈴田、あっちに回れ」「せんせぇ、お願いします」
安西先生と新庄は同時に言って、術者の位置を指さした。
了解!!
丁寧に縫い、閉腹して最後の糸を切ったのは午後五時、予定より二時間も早い計算だ。
「お疲れさまでした」
数子終わったよ。成功だ……
俺は世界でいちばん可愛い笑顔を思い浮かべながら、心の中で囁いた。
「思ったより門脈の浸潤範囲が長いねぇ……」
低く唸るような教授の声を聞きながらその手元を見つめると、病魔は膵臓の背側を流れる紫色の清流にがっちりと噛みついて、密やかに範囲を広げていた。その長さは五センチはあるだろう。
予想していたよりも、先生の病気は進行していたのだ。
どす黒い霧が一気に胸の中に立ち込めた。
「このまま進めるなら、血管移植が必要だな」
赤木教授の声に安西先生は静かに頷いて、「私もそう思います」とはっきりと答えた。
続いて教授は安西先生の隣に視線を移し、「鈴田先生」と改まった口調で言った。
「見ての通り門脈の浸潤が長いことは厄介だが、そのことを除けば予定通り根治手術が可能と考えられる。しかし何しろ肝転移を伴う膵癌だ。引き返すなら今しかないが……どうする?」
先生の命の分岐点に立って、どちらにするか今直ぐ俺に決めろと言うのか!?
「……」
皆の視線が一斉にこちらに集中するなか、俺は言葉が出なかった。
短時間に頭の中を色々な思いが駆け巡る。
もともと根治性がほとんどない事は、先生も十分理解していた。その上でこの手術を希望された。先生は、自分の運命を少ないチャンスに賭けたのだ。
しかし、さらに深刻なこの状況でも、先生は同じ選択をされただろうか?
たとえ手術が成功しても、再発する可能性がいっそう高くなった状況でも。
分からない、どうすればいい……。
とその時、『リンダ……リンダ……』少し笑みを含んだ先生の声が、優しく耳に響いた。
同時に、今朝の先生の背中が頭の中にありありと浮かんだ。覚悟と威厳に満ちた広い背中が。
「教授、切除でお願いします」
気付けば俺は何のためらいもなく、はっきりとそう口にしていた。
「よし分かった」
頷きながら答える声も、同じくらい強い。
「グラフトは右の総腸骨静脈を使おう。せっかく血管外科のエースが入ってるんだから、腕前を見せてもらおう。鈴田先生、頼んだよ」
カリスマ教授は少し楽しげに言って、メガネの奥で微かに目を細めた。
腕前もなにもグラフトの採取はそれほど難しいことではないが、冗談交じりに言って、張り詰めた空気を和ませてくれたのだろう。
「はい」
もう後戻りはできない。
教授と安西先生の手の動きがさらに加速し、あっという間に胃、十二指腸、胆管が切り離されてゆく。
「鈴田先生、もう少しで膵臓と門脈を切って膵臓を取り出すから、そろそろグラフトをとってくれるかな?」
「分かりました」
俺は努めて冷静な声を出したが、胸の奥ではまた心臓がめちゃくちゃなリズムを刻み始めていた。手足は緊張で強張り、頭や体のあちこちを、まるで虫が這い回っているかのような感覚が広がっていた。
何食わぬ顔で先生の足の方に立ち、右の下腹にメスを入れた。
今までに何度も同じことをしてきたというのに、右手が震える。
『おい、いったい何年目だ、だらしないぞ!!』
自分を叱咤しながら深呼吸をして息を整え、言うことを聞かない右手を、左手で押さえつけた。
ほんの少しの間を置いて、何故か左手の上に微かな温もりを覚えた。まるで誰かの手がそっと重なったような……。
『リンダ』
あ、またあの声だ……。一瞬ふわっと気持ちが逸れた。
我に返って手元を見ると震えはピタリと止まっており、心は落ち着きを取り戻していた。
そこからは一気に後腹膜に切開をおき、総腸骨静脈を露出。静脈周囲を丁寧に愛おしむように剥離を進めた。
再建に使う血管なので失敗は許されない。
思い描いた長さを確保した後に静脈を切離し、摘出した。
膵臓を見ると、あとは門脈を切れば摘出できる状態だ。
やはりこの二人の手術は恐ろしく早い。しかも丁寧だ。俺様教授が皆から尊敬されるのも頷ける。
「おぉ、ちょうど一緒だったねぇ」
教授は軽やかに言った。
摘出したグラフトを門脈の間に挟み、長さを確認する。
「おっ、いいねぇ、ぴったりだ。君、血管辞めてうちに来ないか?」
なんて冗談を言いながらも、教授は手を休めることはなく、門脈の足側から吻合を始めている。
一針一針血管が繋がれてゆく。強すぎず弱すぎず、確実に確実に。
全周縫い終わった後に、一度クランプ鉗子をはずして血液を流す。繋いだ部分からの漏れはなさそうだ。
今度は頭側を同じように縫合してゆく。
病魔により一度は切り離された道が、少しづつけれど着実に繋がってゆく。
全周を回った糸が、新庄の手によって丁寧に結紮された。
「うん、良さそうだ……。クランプを外します」
赤木教授はそう言って、クランプ鉗子を外した。
繋がれた道を通って一気に血液が流れ出す。しなりと虚脱していたグラフトは一瞬で息を吹き返したように膨らみ、力強く脈を打って先生の赤い血を、そして命を繋いでゆく。俺は何とも言えない高揚感に包まれていた。
先生、まだ雲の龍にはのせません。どうか生きて下さい……。
「鈴田先生がきれいにとってくれたから、門脈血流も問題なさそうだね」
「僕は何も……でも、大丈夫そうですね」
「ははは、誉め言葉は遠慮なく受け取るもんだぞ」
赤木教授の声を聞きながら、俺はグラフトが脈打つ美しい光景を目に焼き付けた。
そこからは、膵臓、胆管、胃が次々と繋ぎ直され、肝臓もあっという間に切離された。
「あとは、三人にまかせていいかな?」
「分かりました」「ありがとうございました」「お疲れ様でした」
腹腔ドレーンを留置し終わると、赤木教授は手袋をはずしながら手術台を離れた。
あとは閉腹するだけだ。
「じゃあ鈴田、あっちに回れ」「せんせぇ、お願いします」
安西先生と新庄は同時に言って、術者の位置を指さした。
了解!!
丁寧に縫い、閉腹して最後の糸を切ったのは午後五時、予定より二時間も早い計算だ。
「お疲れさまでした」
数子終わったよ。成功だ……
俺は世界でいちばん可愛い笑顔を思い浮かべながら、心の中で囁いた。
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