カップ一杯の絶望を

そろばん戦士

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カップ一杯の絶望を

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 暗い部屋。夜だからというわけではなく、昼間からカーテンを締め切って光を遮っているからだ。床にはゴミが散乱し、足の踏み場もない。その真ん中、ずいぶん前からシーツすら変えていない布団に男が寝転がっていた。何をするでもなく、ただ天井を眺めている。
 いつからこうなってしまったのか、男はしばし自分の過去を思い出す。
 この社会は一つの大きな機械だ。そして人々はそれを形成する歯車。皆自分の役割を見いだし、それをこなすことで噛み合って社会を回している。かつては自分もその一部だった。家と会社を往復し、別段変わったことも起きない単調な毎日。しかし、それは周りの歯車たちも同じだったし、それに対して特に疑問を感じることもなかった。不満もない。そもそもそうやって大きな集団に加わっているというのは楽なことなのだ。
 しかし、その歯車は少しずつずれていった。初めは単なる仕事上の軽いミス。歯車の間にゴミが挟まったようなものだ。いつもならさっさと修正し、何事もなかったように単調な生活に戻る。だが何の因果か、そのときは偶然に偶然が重なり対応が遅れてしまった。
 それから歯車の空回りが始まった。今までとやっていることは変わらないはずなのに、何をやってもうまくいかない。それを取り返そうと焦れば焦るだけ自分の回転数が上がっていき、また失敗を重ねてしまう。次第に周りの歯車たちの自分を見る目が変わっていった。いや、変わったのはおそらく自分のほうだったのだろう。今更わかったところでどうしようもないが。
 そしてあるとき気がついた。この機械に、自分という部品はもう必要ないのだと。自分がいてもいなくてもこの社会は回る、それはつまり大きな集団から外れたことを意味する。誰かが抜けた穴を誰かが埋め、まるで最初からそうであったように振る舞う。それに気づいてからは、今まで自分もそっちにいたはずなのに、なぜかひどく異質なもののように感じた。しかしこの社会では、今この自分こそが一番の異質なのだ。
 自分の中で何かが抜け落ち、もう歯車に戻ろうとはしなかった。そして戻そうとする者もいなかったことが何よりの証明だろう。しかし、すべてから解放されることのなんと自由なことか。そして実は自分のように社会から弾き出された者も一定数いる。いよいよ危機感を感じた時はそういった者たちを見ることでなんとか自分を納得させてきた。
 だがここまでだな。虚ろな目で男は思う。気づいた時にはもう取り返しのつかないところまで来ていた。いままで見下してきた者たちはいつの間にか歯車の一つになり、ぽつり、ぽつりと消えていった。結局、そうなのだ。社会のことを拒みつつも、いつの間にかその一員となっている。だが社会に拒まれた自分に行き場は用意されていない。同じところにいるように見えて実際は全く違ったのだ。裏切られたような気分だがそれを責められるわけでもない、そもそもそんなことをしてなんになる。そうして何もかもが面倒くさくなり、ただただ無気力に時間を浪費するだけの毎日になっていった。
 退屈そうに寝返りを一つ。本当はこんなことを考えている場合ではない。わずかに残った貯蓄を切り崩しながら生活していたが、それももう底をつく。こうやって怠惰に日々を過ごすだけでもやはり金はいる。皮肉なものだが、案外これこそが最後に残された自分と社会とのつながりなのかもしれない。
 さて、これからどうしようか。生きていこうというのなら、方法はある。しかしわからない、誰からも必要とされていない自分は、なぜ生きていかなければいけないのか?自分がいなくても回る社会に自分がいる意味とは?
 もういっそこのまま溶けてしまったら、などとあり得ないことを思う。目を強くつぶり、開くを繰り返す。理解できないだろうが、次に目を開いた時に何か変化が起きていることを願ったのだ。いっそのこと、悪魔に魂でも売り渡した方が楽になれるのではないか。そんな妄想にすら縋ろうとする自分が情けなかったが、
 かくして、願いは叶えられた。
 何度目か目を開いた時、視界の端に見慣れないものが写った。急いでそちらに目を向ける。 そこには悪魔がいた。頭には角を生やし、背中には翼。ご丁寧に尖った尻尾までついている。誰もが想像する悪魔の姿がそこにはあった。
「はは、なるほど。ついに幻覚まであらわれたか。いよいよ俺も終わりってことだな」
 自嘲気味に男は言う。しかし、悪魔はおどけたように返した。
「いえいえ、幻覚などではありません。そもそも私を願ったのはあなたでしょう」
「するとお前は本物の悪魔だというのか。にわかには信じがたい話だが、確かにその姿はどこからどう見ても悪魔だが……。となると、俺の魂を奪いに来たのか」
「そんな野蛮なことはいたしません。ただ、あなたの願いを叶えに来たのです。もちろん見返りは求めますけどね。いきなりですが、あなたは欲しいものはありませんか?例えば、お金、とか」
 男は上体を起こす。
「ああ、欲しいとも。金があれば何でもできる。しかし、お前は悪魔だ。おおかた金を与えた後にうまいことやって魂を奪うのだろう」
 悪魔は肩をすくめる。
「どうやらよほど信用されていないようですね。では私の欲しいものを先に提示しましょう」
 悪魔はどこからかコーヒーメーカーを取り出し、慣れた手つきで淹れ始めた。セットされたカップに黒い液体が溜まってゆく。一見コーヒーにも見えるが、一抹の光すら逃さず吸い込むそれはよく見てみれば似ても似つかない。
「私が欲しいものは人間が追い込まれた時に感じる感情、つまり『絶望』です。私はあなたに望むものを与える代わりに。あなたの絶望をいただきたいのです」
 男は憤って立ち上がり、悪魔に詰め寄る。
「なんだと!?ふざけるな!やっぱりお前は悪魔だ!そうやって耳障りのいい言葉を並べておいて、結局は無理矢理拷問でもするんだろう!」
 悪魔はため息をつき、コーヒーメーカーからカップを取り出す。
「最初からそう名乗っているのですが。ですが信用のないのは慣れたものです。まあ落ち着いてください、すぐにあなたの魂を奪ったり、直接危害を加えるようなものではありません。絶望は絶望ですが、あなたには『カップ一杯の絶望』を味わってもらいます」
 言われたことが理解できず、悪魔を見る男。悪魔はカップに顔を近づけ、目を細めて中の液体の香りを楽しんでいる。
「どういうことだ、それは」
「そうですね、そう思われるのも仕方がありません。しかし、これ以上はなんとも言えない決まりなのです。しかし了承さえしてくれれば、今すぐにこれはあなたの物になるのですが」
 悪魔がカップを軽く動かすと、男の横に札束の山が現れた。男は驚いたがそれを素早く手に取り、まじまじと眺め、匂いまで嗅ぎ出す。久しぶりの金の感触にその目はすっかり濁ってしまっていたが、もちろん男は気づかない。
「信じられん、だが確かに本物だ……。うむ、しかし、絶望……。もう少しだけ具体的には言えないのか?」
「そうですね、死や大けがに直結する訳ではないということしか。まあ無理にとは言いません、この話はなかったことにいたしますか?」
 悪魔がもう一度カップ振ると、男が握りしめていた金は跡形もなく消えた。男は慌ててあたりを探るが、当然見つかるわけもない。耐えかねたように男が叫ぶ。
「わかった、わかった!お前の言うとおりにする!だから早く金を!」
 悪魔はにこりと微笑んだ。
「では契約成立ということで。安心してください、悪魔は嘘はつきません」
 再び男の横に札束の山が現れる。男は恍惚とした表情を浮かべ、それに向かって倒れ込んだ。
「では私はこれで。どうぞ、絶望をお楽しみください……」
 悪魔は空中に溶けるように消えた。しかし欲望にまみれて絶頂を感じている男はそれに気づくこともなかった。

 それから男は贅沢の限りを尽くした。不思議なことに、悪魔から貰った金はどれだけ使おうと減らないのだ。それを鞄にありったけ詰め込み、まずは服屋に行く。そこで一番上等な服を見繕わせ、得意げに買うとそのまま身につけ店を出る。ひとたび町を歩けばすれ違う人々は皆羨望の眼差しでこちらを見、その視線を浴びるたびに男は優越感に浸った。
 それまでの人生なら絶対に足を運べなかったであろう料亭やレストランに何度も行ったし、ブランド物の時計や装飾品も片っ端から買い漁った。豪遊を続ける男の噂はひっそりと広まっていった。
 そしていきなり羽振りのよくなった男を周りの人々が放っておくわけもなく、男の元には連日親戚や旧友を名乗る者が訪れ金をせびるようになった。そんな者たちにも初めは気前よく金を振りまいていた男だが、次第に面倒になり、有り余る金を使ってより良い所に住まいを移した。しかし人間の欲望だけはいくら金があろうとどうすることもできないようで、男はどこへ移ろうといつの間にか嗅ぎつけた人々にたかられた。悩みと言える悩みもそれくらいだったのでそれほど負担にはならなかったが。
 言い寄ってくる女たちも山ほどいたが、今まで選ぶ立場になったことのなかった男にとって新鮮な感覚だった。気楽なものだ、誰とどれだけ関係を持とうが金があればすべて解決してくれる。そもそも男には恋愛をする気などさらさらない。そして案外、こういう関係が都合のいい相手というのも一定数いるものなのだ。
 そうやって日々を暮らし、しばらくした頃。男は特に目的もなく町を散歩していた。久しぶりにこういって何も考えない時間もいいものだ。しかしやはり人々からは嫉妬と羨望の目で見られたが、それに関しては自己顕示欲を満たしてくれるので心地よかった。
 そしてとあるアパートの前を通ったそのとき。偶然の巡り合わせか、高層階から落下した植木鉢が男のすぐそばで地面に激突して割れた。驚いて振り返る男。もしあと少しでもずれていたら頭に直撃していただろう。せっかくいい気分だったのに、なんなんだ。こんな日はもうさっさと家に帰ってしまおう。男はもやもやとしたことを抱えながらもその日は帰宅したが、
「あなたには、カップ一杯の絶望を味わってもらいます」
 今の今まで忘れていた悪魔の言葉が、頭にこびりついて離れない。コーヒーに入れられた砂糖のように、さらさらと不安が男の心に積もる。いや、こんなこともあるさ。ただの偶然だ。それをぐるぐるとかき混ぜるようにして男は振り払った。
 しかし、それから男は毎日の生活に少しずつ違和感を感じるようになった。バーで機嫌良く酒を楽しんでいた時、横に座った男にいきなり身に覚えのない言いがかりをつけられ、殴られた。すぐにほかの客が止めてくれたからよかったものの、男はさっさと去ってしまったのでただの殴られ損だ。他にも、たまたま乗ったタクシーが後ろから車に衝突され、首を痛めた。見えない力がじわじわと自分を追い詰めているようで、次第に男は外出を減らし、ついには家から出ないようになってしまった。
 さらさら、さらさらと不安は溜まっていく。
 いい時代になったものだ。金さえあれば家から出る必要などない。男はさまざまな娯楽品を買いあさり。とにかく家で時間を潰した。家というものは一種の聖域のようなもので、ここにればすべての不幸から守られる気さえする。実際今まで感じていた煩わしさもしばらくの間は消えていた。
 だが終わりは唐突だった。ある日、男の家にトラックが突っ込んできたのだ。偶然男はけがもなく助かったが、自分が心から安心できるところなど最初からどこにもなかったということを悟った。
 その日男は首をくくった。最後に残された自分の居場所を目指して。
 悪魔は天井からぶら下がる男を見ながら、手に持ったカップを軽く揺らす。そしてその芳醇な絶望の香りをうっとりと楽しんだ後、ゆっくりと啜る。
「やはりこの味は堪りませんね。瞬間的に訪れる死による絶望などとは比べものにならない。諦め、悲観、欲望。時間をおき、ゆっくりと熟成させる手間はかかりますが、その価値は十二分にある」
 男は部屋をちらりと見渡す。ゴミが散乱し、カーテンを閉め切って薄暗い部屋は男と悪魔が最初に出会った時となんら変わりはなかった。
「人は急激には変われません。あなたも器ではなかったということ。なぜ後ろ向きにばかり考え、『命は助かって良かった』と思うことはできなかったのか。結局自分で投げ出す事になってしまうというのに。まあ、私としてはこちらのほうが都合がいいので別にかまいませんがね」
 空になったカップを放り、悪魔は呟く。
「さて、次の絶望を探すとしますか」
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