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第九章 復讐の舞台から
第百九十一話 復讐の舞台から(5)
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一瞬の沈黙がおりて、それを突き破るように笑い声が巻き起こった。
「演劇って!」
「そんなもん金になるかよ」
「どこのお嬢様か知らねぇが平和なもんだな」
さっと顔が赤らむのを感じた。ちょっとばかり勉強ができることや、地獄のような練習をした演劇もここでは取るに足らないことのようだ。確かに学問や演技が即座に金になるわけではない。それを活かせる場がなくては稼げない。
「じゃあ、ここでは何ができればいいの?」
不貞腐れたような少女の声に子供たちがざわざわと騒ぎ出す。しばらくお互いにお前が行けというように押しあったりしていたが、最終的に「ジェイス、見せてやれよ」という声があがり「そうだ」とばかりに全員がうなずいた。
先ほどの棒切れを持った少年がすっと進み出る。騒いでいた子供たちの声がしんと静まる。
そして少年は予備動作なしにその場で宙返りした。そこから間を置かずに半回転して片手で体を支えたかと思うと、腕一本の力だけで大きく飛び上がってまた宙返り、それから体をひねってさらに高い宙返りを披露した。まるで体がバネでできているようだ。すべて一瞬の動作だった。驚くべき身体能力だ。先ほどの取っ組み合いの喧嘩にならなくてよかった。この動きでは勝ち目はない。
「見せ物小屋から逃げてきたんだ。もっといろいろできるけどお前に見せても金にならないからな」
呆気に取られている少女の前に小さな女の子が布のかたまりを持って進み出た。
「これ、あたしが作ったの。あまり売れないけど」
端切れを縫い合わせたような布袋のようだ。確かにお世辞にも売れそうだとは思えないが、こんな小さな子まで働いているのかと思うと胸がつまった。
クトが急にするりと後ろに下がる。
「どうしたの?」
そう声をかけた瞬間、息をのんだ。先ほどまで集団の奥の方で一人静かに様子をうかがっていた少年が突然目の前にいた。
「ちっ。何も持ってねぇのかよ。そっちのチビは猫みたいに素早いし」
少年が目の前に広げたのは少女がポケットに入れていたハンカチである。すっかり汚れてはいるが唯一といっていい所持品だ。
「えっ、いつの間に?」
「ガジムはスリだ。褒められたことじゃないが、きれいごとだけじゃここでは生きていけない」
呆然としている少女にリーダーの少年が言い聞かせるように説明をする。少年の目に得意げな光がひらめいた。
「ほら。こんなもんいらねぇから」
ガジムと呼ばれた少年がゴミのように少女に丸めたハンカチを投げつけた。腹が立ったが、それよりも大人の助けなしに生きていくことの厳しさで少女の頭はいっぱいになっていた。悪事を厭うてサティエルのもとを去ったはずだが、このようにボロをまとって汚い仕事に手をそめなければ生きていけないのが現実のようだ。死んだ父が見たら何というだろうか。どんな手を使っても生きのびろと叱咤する気もするが、誇りを捨てるなというような気もする。父のことは好きだったはずなのに、こんな簡単なことさえわからない。
ハンカチはくしゃくしゃに丸まったまま足元に落ちる。当のガジムは「あのチビはすばやいな」と悔しそうにクトを見ていた。クトは相変わらず焦点の定まらない目で雲でも見ているようだ。
「あ、あなたは何ができるのよ」
少女はリーダーの少年を見た。
よく見ると整った顔立ちは品があり、上等な服さえ着せればそれなりに見栄えがしそうである。年は少女より二、三歳ほど上に見えた。
「ルーサスは騎士様の家柄だからな。強いんだぞ」
「そうだ。そうだ」
子供たちの間から誇らしげな声があがるが、即座にリーダーの少年は「やめろっ」と声を荒げた。途端に子供たちはしゅんとおとなしくなる。
ルーサスというのか。いかにも育ちがよさそうな名前だ。先ほど「お嬢様」と馬鹿にされたが、ここのリーダーは「お坊ちゃん」ではないか。本人もそのことを気にしているようで、怒気を帯びた顔は、先ほどまでの年長者らしい顔よりずっと幼く見えた。もしかしたら同い年くらいだったかもしれない。境遇も似たり寄ったりだろう。自分だけが特別不幸というわけではないようだ。少女の家は娘がお嬢様と呼ばれるような家柄ではなかったが、ここの暮らしを考えると十分に裕福だった。少なくとも子供である自分は働かずに本を読んだり、学問をすることに熱中できるくらいには。
しかし、と少女はルーサスをまた見やる。どうやら家柄の話は彼にとって相当根深い問題のようだ。唇をかみしめて何かをこらえるような顔をしている。今後、この話題だけはしないようにしよう。
騎士の家柄というと軍部でも名のある古い家系だったに違いない。そこからの没落を考えると背後には少女の家の比ではない大勢の絶望がうずまいていることだろう。彼の家族はどうしたのだろうか。まだ子供といってもさしつかえないルーサスがこんなところで暮らすことになっているということは聞いてしまえば、こちらまで落ち込みそうな話になるだろうことは容易に想像がついた。
「演劇……か。ひとつ思いついたことがある。仲間に入れてやってもいいが、あんた名前は?」
落ち着きを取り戻したルーサスはバツが悪そうな顔でちらりと少女を見やる。気に入らない話題で一方的に腹を立てるのが子供っぽいことであることに自覚はあるようだ。
ルーサスも気の毒だが、少女は少女で何とか生きていかなければならない。
「この子はクト、私は……」
もう過去の自分は捨てた方がいいだろう。どんな手を使ってでも生き延びて、いつか必ず父を殺したやつらを見つけ出さなければならない。なぜ今までそのことに思い至らなかったのだろうか。ここで暮らす子供たちを見て、自分がすべきことにようやくたどり着いた気がする。今までは(今もだが)自分が生きることだけで精一杯だったけれど、いつか必ず――。
「私はジルクト。ジルでいいよ」
ディガレイ語で野良猫である。レジスで野良猫というよりはもっと「ふてぶてしい」とか「図々しい」という意味を多分に含む言葉だ。人を指して使えば悪口になる。だが、まさに今の少女にとってぴったりの名前ではないか。
「クトと、ジルクト……?」
ルーサスは怪訝な顔をしたが、特に何も言わなかった。もしかしたらルーサスもお勉強がよくできてディガレイ語がわかるのかもしれない。とりあえず偽名と気づきつつも問い詰める気はないというところか。
それからジルとクトは旧市街地の子供たちと共同生活をはじめた。しかし二人は大人たちから逃げ出したばかりなので、ほとぼりがさめるまでは隠れているようにと、ルーカスに指示された。すぐ自分で何かをして稼がなければと気負っていただけに肩透かしをくった気分だったが、その時間で他の子供たちからここでの生活のことを教わることができた。
それは夜は絶対に住処としている廃屋の外に出ないことなどの危険を回避するためのルールや、生活のための役割分担、そしてお金を稼ぐ方法である。
ジェイスからは人の目を引くような芸を、カジムからはなんとスリの方法も教わる。もともと体を動かすことは得意で器用な方だったので、早い段階で宙返りや素早く財布の紐を切る方法を覚えた。他の子供たちからも商売の口上や売り物をつくるための裁縫、街に出たときに拾うべき金目のものや、その換金方法、とぼしい材料で作る「それなりの料理」まで教わる。どれも生きていくうえで大切な技で、ジルはみるみるここでの作法を学んでいった。もとから新しいことを学ぶのは好きだったが、それがこういう形で役に立つとは思わなかった。
代わりにジルはサティエルから仕込まれた大きな声を出す練習や、体を柔らかく保つ体操、いろいろな立場の人の歩き方を教えた(それは物乞いと思わせないように街を歩くのに使える)。演劇を馬鹿にしていた子供たちが歩き方ひとつで裕福な子供のように、または具合が悪そうに、そして見た目が子供なのに一目置かれる傑物のように感じられることに目を丸くした。ジル自身も人に教えるという段になって初めてサティエルの言っていた意味がわかり、子供たちと一緒にどんどん上達していった。これならサティエルもジルの成長に大喜びするのではないかと考えてあわてて首を振る。もう大人には頼らないのだ。
「そういえば、前に演劇で思いついたことがあるといっていたのは何だったの?」
もうすっかり旧市街地での生活に慣れ、そろそろ街に稼ぎに行ってもいいのではないかと考えていた頃、ジルはようやくそのことを思い出した。それを聞いたとき、劇場以外で稼ぐ方法があるのだろうかと不思議に思っていたのだ。街から戻ってきたルーサスは「もう忘れていると思っていた。そのことでずっと準備していたんだ」と、めずらしくいたずらを仕掛けようとする子供のように笑った。
「演劇って!」
「そんなもん金になるかよ」
「どこのお嬢様か知らねぇが平和なもんだな」
さっと顔が赤らむのを感じた。ちょっとばかり勉強ができることや、地獄のような練習をした演劇もここでは取るに足らないことのようだ。確かに学問や演技が即座に金になるわけではない。それを活かせる場がなくては稼げない。
「じゃあ、ここでは何ができればいいの?」
不貞腐れたような少女の声に子供たちがざわざわと騒ぎ出す。しばらくお互いにお前が行けというように押しあったりしていたが、最終的に「ジェイス、見せてやれよ」という声があがり「そうだ」とばかりに全員がうなずいた。
先ほどの棒切れを持った少年がすっと進み出る。騒いでいた子供たちの声がしんと静まる。
そして少年は予備動作なしにその場で宙返りした。そこから間を置かずに半回転して片手で体を支えたかと思うと、腕一本の力だけで大きく飛び上がってまた宙返り、それから体をひねってさらに高い宙返りを披露した。まるで体がバネでできているようだ。すべて一瞬の動作だった。驚くべき身体能力だ。先ほどの取っ組み合いの喧嘩にならなくてよかった。この動きでは勝ち目はない。
「見せ物小屋から逃げてきたんだ。もっといろいろできるけどお前に見せても金にならないからな」
呆気に取られている少女の前に小さな女の子が布のかたまりを持って進み出た。
「これ、あたしが作ったの。あまり売れないけど」
端切れを縫い合わせたような布袋のようだ。確かにお世辞にも売れそうだとは思えないが、こんな小さな子まで働いているのかと思うと胸がつまった。
クトが急にするりと後ろに下がる。
「どうしたの?」
そう声をかけた瞬間、息をのんだ。先ほどまで集団の奥の方で一人静かに様子をうかがっていた少年が突然目の前にいた。
「ちっ。何も持ってねぇのかよ。そっちのチビは猫みたいに素早いし」
少年が目の前に広げたのは少女がポケットに入れていたハンカチである。すっかり汚れてはいるが唯一といっていい所持品だ。
「えっ、いつの間に?」
「ガジムはスリだ。褒められたことじゃないが、きれいごとだけじゃここでは生きていけない」
呆然としている少女にリーダーの少年が言い聞かせるように説明をする。少年の目に得意げな光がひらめいた。
「ほら。こんなもんいらねぇから」
ガジムと呼ばれた少年がゴミのように少女に丸めたハンカチを投げつけた。腹が立ったが、それよりも大人の助けなしに生きていくことの厳しさで少女の頭はいっぱいになっていた。悪事を厭うてサティエルのもとを去ったはずだが、このようにボロをまとって汚い仕事に手をそめなければ生きていけないのが現実のようだ。死んだ父が見たら何というだろうか。どんな手を使っても生きのびろと叱咤する気もするが、誇りを捨てるなというような気もする。父のことは好きだったはずなのに、こんな簡単なことさえわからない。
ハンカチはくしゃくしゃに丸まったまま足元に落ちる。当のガジムは「あのチビはすばやいな」と悔しそうにクトを見ていた。クトは相変わらず焦点の定まらない目で雲でも見ているようだ。
「あ、あなたは何ができるのよ」
少女はリーダーの少年を見た。
よく見ると整った顔立ちは品があり、上等な服さえ着せればそれなりに見栄えがしそうである。年は少女より二、三歳ほど上に見えた。
「ルーサスは騎士様の家柄だからな。強いんだぞ」
「そうだ。そうだ」
子供たちの間から誇らしげな声があがるが、即座にリーダーの少年は「やめろっ」と声を荒げた。途端に子供たちはしゅんとおとなしくなる。
ルーサスというのか。いかにも育ちがよさそうな名前だ。先ほど「お嬢様」と馬鹿にされたが、ここのリーダーは「お坊ちゃん」ではないか。本人もそのことを気にしているようで、怒気を帯びた顔は、先ほどまでの年長者らしい顔よりずっと幼く見えた。もしかしたら同い年くらいだったかもしれない。境遇も似たり寄ったりだろう。自分だけが特別不幸というわけではないようだ。少女の家は娘がお嬢様と呼ばれるような家柄ではなかったが、ここの暮らしを考えると十分に裕福だった。少なくとも子供である自分は働かずに本を読んだり、学問をすることに熱中できるくらいには。
しかし、と少女はルーサスをまた見やる。どうやら家柄の話は彼にとって相当根深い問題のようだ。唇をかみしめて何かをこらえるような顔をしている。今後、この話題だけはしないようにしよう。
騎士の家柄というと軍部でも名のある古い家系だったに違いない。そこからの没落を考えると背後には少女の家の比ではない大勢の絶望がうずまいていることだろう。彼の家族はどうしたのだろうか。まだ子供といってもさしつかえないルーサスがこんなところで暮らすことになっているということは聞いてしまえば、こちらまで落ち込みそうな話になるだろうことは容易に想像がついた。
「演劇……か。ひとつ思いついたことがある。仲間に入れてやってもいいが、あんた名前は?」
落ち着きを取り戻したルーサスはバツが悪そうな顔でちらりと少女を見やる。気に入らない話題で一方的に腹を立てるのが子供っぽいことであることに自覚はあるようだ。
ルーサスも気の毒だが、少女は少女で何とか生きていかなければならない。
「この子はクト、私は……」
もう過去の自分は捨てた方がいいだろう。どんな手を使ってでも生き延びて、いつか必ず父を殺したやつらを見つけ出さなければならない。なぜ今までそのことに思い至らなかったのだろうか。ここで暮らす子供たちを見て、自分がすべきことにようやくたどり着いた気がする。今までは(今もだが)自分が生きることだけで精一杯だったけれど、いつか必ず――。
「私はジルクト。ジルでいいよ」
ディガレイ語で野良猫である。レジスで野良猫というよりはもっと「ふてぶてしい」とか「図々しい」という意味を多分に含む言葉だ。人を指して使えば悪口になる。だが、まさに今の少女にとってぴったりの名前ではないか。
「クトと、ジルクト……?」
ルーサスは怪訝な顔をしたが、特に何も言わなかった。もしかしたらルーサスもお勉強がよくできてディガレイ語がわかるのかもしれない。とりあえず偽名と気づきつつも問い詰める気はないというところか。
それからジルとクトは旧市街地の子供たちと共同生活をはじめた。しかし二人は大人たちから逃げ出したばかりなので、ほとぼりがさめるまでは隠れているようにと、ルーカスに指示された。すぐ自分で何かをして稼がなければと気負っていただけに肩透かしをくった気分だったが、その時間で他の子供たちからここでの生活のことを教わることができた。
それは夜は絶対に住処としている廃屋の外に出ないことなどの危険を回避するためのルールや、生活のための役割分担、そしてお金を稼ぐ方法である。
ジェイスからは人の目を引くような芸を、カジムからはなんとスリの方法も教わる。もともと体を動かすことは得意で器用な方だったので、早い段階で宙返りや素早く財布の紐を切る方法を覚えた。他の子供たちからも商売の口上や売り物をつくるための裁縫、街に出たときに拾うべき金目のものや、その換金方法、とぼしい材料で作る「それなりの料理」まで教わる。どれも生きていくうえで大切な技で、ジルはみるみるここでの作法を学んでいった。もとから新しいことを学ぶのは好きだったが、それがこういう形で役に立つとは思わなかった。
代わりにジルはサティエルから仕込まれた大きな声を出す練習や、体を柔らかく保つ体操、いろいろな立場の人の歩き方を教えた(それは物乞いと思わせないように街を歩くのに使える)。演劇を馬鹿にしていた子供たちが歩き方ひとつで裕福な子供のように、または具合が悪そうに、そして見た目が子供なのに一目置かれる傑物のように感じられることに目を丸くした。ジル自身も人に教えるという段になって初めてサティエルの言っていた意味がわかり、子供たちと一緒にどんどん上達していった。これならサティエルもジルの成長に大喜びするのではないかと考えてあわてて首を振る。もう大人には頼らないのだ。
「そういえば、前に演劇で思いついたことがあるといっていたのは何だったの?」
もうすっかり旧市街地での生活に慣れ、そろそろ街に稼ぎに行ってもいいのではないかと考えていた頃、ジルはようやくそのことを思い出した。それを聞いたとき、劇場以外で稼ぐ方法があるのだろうかと不思議に思っていたのだ。街から戻ってきたルーサスは「もう忘れていると思っていた。そのことでずっと準備していたんだ」と、めずらしくいたずらを仕掛けようとする子供のように笑った。
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