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第七章 盛夏の逃げ水
第百七十四話 盛夏の逃げ水(39)
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王妃は悲痛な面持ちでアッシュグレン王子に近づこうと大袈裟に身を乗り出している。まるで首元の刃物が存在しないかのような動きだ。いくら王子を心配するのであっても、普通はもう少し気にする。何しろちょっと動いたくらいですっぱりと血脈が切れて死ぬかもしれないのだ。それすらもかまわないというほどの気迫も特に感じられない。もしかしてあの刃物は刃を落してあるのだろうか。
「帝印をここに置け」
グリディランは淡々と指示をしてゆく。アッシュグレン王子は一度王妃の方を見る。相変わらず王妃は先ほどから同じことを繰り返しているだけだ。王子は王妃のしぐさの違和感に気づいているだろうか。
「そんなもの、くれてやれ!」
総長がまるでイゴルデでゲームを見ている客のような野次を飛ばした。背中しか見えないためよくわからないが、アッシュグレン王子は王妃を見たり、ライラを見たり、手元、おそらく帝印を見たりしている。しばらくの逡巡の後、結局帝印の木箱を膝前にそろそろと差し出した。
「素直でよろしい」
グリディランは満足げにしわの多い唇の間から黄色い歯を見せる。
「さて、次はきみたちの命をもらおうか」
グリディランは帝印の箱を拾いあげる。それが合図だったかのように、左右に控えていたグリディランの兵たちが長剣を抜いた。王妃は「殺さないで」と大袈裟に泣きわめく。渓谷の一団や兵たちの間も悔しげにうめく声があがった。
いよいよ何か手を打たないと二人が殺されてしまう。エリッツは総長をちらりと見るが、今すぐ何か行動を起こす様子はない。エリッツは自身とライラたちの距離を目算した。行けなくはないが、怪我の影響で自分で思うよりも素早くは動けないかもしれない。
「エリッツ、動いちゃだめだよ。あいつらの中に術士がいる」
後ろからつかまえているアルヴィンにはエリッツが何かしようとしているのがわかってしまう。
「でも……」
「静かに」
アルヴィンがさらに声をひそめる。
何かあるのだろうか。エリッツは落ち着いて辺りを見てみる。術兵たちはじっと耳をすませているような表情をしていた。グリディラン側の兵たちも一部が不安げに辺りの様子をうかがっている。その人たちが術兵なのかもしれない。またエリッツには感知することができない何かが起こっているようだ。総長もめずらしく真剣な面持ちで、何かを聞き逃すまいとしているようだ。
その異様な雰囲気を感じているのか、ライラとアッシュグレン王子の前で長剣をかまえた兵たちも動きをとめている。
「ライラ、戻れ!」
突如、総長が声をあげた。それに素早く反応したライラはアッシュグレン王子を首根っこを乱暴に引き寄せて立たせると、一目散にこちらへと駆けてくる。グリディランたちがライラの動きに反応するまでの一瞬の出来事だった。直後、すさまじい地鳴りと揺れがあり、グリディランたちはもうもうと立ちのぼる砂塵の中に消えた。
何が起こったのか、よくわからない。そこからアッシュグレン王子がはい出てくるのが見える。周りにいた兵たちも大慌てで砂塵から逃げていった。どうやらグリディランたちだけがきれいに消えているようだ。
そのとき上空で風の鳴る音がした。すでに聞き馴染んだ水竜の咆哮である。
「見えてたからやるだろうなとは思ってたけど、それはいらないんだよ。気に入ってんのかな」
総長が上空を見ながらぶつぶつ言っている。水竜が砂塵の舞う辺りに向かって水を吐いた。総長をずぶ濡れにした時の比ではない。あきらかに攻撃としてやっている勢いだ。さらについでとばかりに総長に向かってペッと唾を吐くように水を飛ばす。本当にコントロールが抜群だ。また見事に総長だけがずぶ濡れである。「いちいち俺にじゃれつくんじゃない」と、総長はうんざりしたように濡れた髪をかきあげた。
「シェイル、どこにいるんだろう」
水竜ということは、シェイルがやっているに違いない。
「近くにはいると思うよ。さっき術兵たちの話を聞いてたでしょ。こういう術は術士の居所がわかると手を打たれちゃうからね」
「その通りです。狙いを定めているうちに逆にあっち側の術士に狙われてしまいますから」
いつのまにか隣にシェイルがいる。上空にはまだ水竜もいる。さっきは渓谷の辺りに体がつながっていたが、今は少しだけ小ぶりになり、尾までしっかりと見えている。あれをどう操っているのだろう。
「あの水竜というのを引っこめれば問題ないだろうに」
総長はまた文句を言っている。エリッツが首をかしげていると、アルヴィンが小声で補足してくれる。
「地中の術というのはもとから対抗しにくいんだよ。動きを見づらいうえに、術素が重いからそもそも扱える術士自体も少ない。水竜を使わなければ隠れる必要はなかったのかも」
シェイルがちらりとこちらを見たので、アルヴィンが緊張する。
「エリッツもすぐ飛び出したりしてしまうので、隠れていて欲しかったんですけどね」
それはまさにそうだったので何も言えない。アルヴィンに止められなかったらたぶん飛び出して、あの砂塵の中にいたことだろう。
舞いあがった砂が落ちつき、何が起こっているのか少しずつ見えてくる。
穴だ。
グリディランたちがいたところに大きな穴があいている。水竜を掘り出した術と同じ理屈だろうか。おそらく命まで奪うつもりはなかったらしく、深さはそこまでないようだ。しかし水竜の吐いた水で池のようになり、装備が重いのか数人の兵たちがおぼれかけていた。
「王子様、ご指示を!」
何度もびしょ濡れにされて、やけくそのように総長が叫ぶ。
「母を……王妃を早く……」
アッシュグレン王子はどうやらすっかり腰が抜けてしまったようで地面にはった姿のまま、震える指で、できたばかりの池を指している。
「アッシュグレン王子のご命令だ。グリディランとその仲間たちをしばりあげろ。ついでに王妃様もだ」
総長がまたでたらめを言っている。総長も王妃の動きの違和感に気づいていたのだろう。エリッツが気づくくらいなら、みんな気づくということか。総長の声に疑問をさしはさむ者もなく全員が水から引きあげられ、とらえられた。王妃は縄こそかけられはしなかったものの、二人の兵にがっちりと囲まれている。「無礼者!」と大声で抗議している様子はいかにもアッシュグレン王子の母親らしい。この後のことはエリッツたちが首を突っ込むべきことではないだろう。
「さて事務仕事を片付けたら帰りますよ」
シェイルがエリッツとアルヴィンに顔を向けた。ちょっと様子がおかしい。顔色があまりよくないようだ。
「おい、おい、そのおもちゃを放すなよ」
総長がため息まじりで、しかし少しあわてた様子でシェイルに歩みよる。
「気を失うまでおもちゃで遊ぶとか五歳児かよ」
総長がシェイルの左手をとると、シェイルはそのまま総長の方へ倒れこんだ。
「重い。お前も重いが、おもちゃが重い」
総長がよくわからないことを言いながら歯を食いしばっている。
「よくこんなもん掘りおこしたうえにここまで持ってきたな」
軽々とシェイルを抱きとめているように見えるが、エリッツはとりあえず「大丈夫ですか」と総長に駆けよった。アルヴィンが後ろから「きみじゃ無理だ」と、ついてくる。
「手伝うよ」とアルヴィンが総長に声をかけたが「いや、ごめん。ちょっと無理だった」と、総長が脱力したように笑った。
直後、すさまじい勢いで雨が降り出す。空は快晴であるが、文字通り滝のような大雨だ。なすすべもなくその場の全員がずぶ濡れになる。視界がさえぎられるほどの豪雨の中、みんな呆然と立ち尽くしていた。
この雨はもしかして水竜だったものだろうか。
「俺はこれ、何度目だ?」
ようやくやんだ雨のあと総長はやはりずぶ濡れのまま、ぼんやりとつぶやいた。
「帝印をここに置け」
グリディランは淡々と指示をしてゆく。アッシュグレン王子は一度王妃の方を見る。相変わらず王妃は先ほどから同じことを繰り返しているだけだ。王子は王妃のしぐさの違和感に気づいているだろうか。
「そんなもの、くれてやれ!」
総長がまるでイゴルデでゲームを見ている客のような野次を飛ばした。背中しか見えないためよくわからないが、アッシュグレン王子は王妃を見たり、ライラを見たり、手元、おそらく帝印を見たりしている。しばらくの逡巡の後、結局帝印の木箱を膝前にそろそろと差し出した。
「素直でよろしい」
グリディランは満足げにしわの多い唇の間から黄色い歯を見せる。
「さて、次はきみたちの命をもらおうか」
グリディランは帝印の箱を拾いあげる。それが合図だったかのように、左右に控えていたグリディランの兵たちが長剣を抜いた。王妃は「殺さないで」と大袈裟に泣きわめく。渓谷の一団や兵たちの間も悔しげにうめく声があがった。
いよいよ何か手を打たないと二人が殺されてしまう。エリッツは総長をちらりと見るが、今すぐ何か行動を起こす様子はない。エリッツは自身とライラたちの距離を目算した。行けなくはないが、怪我の影響で自分で思うよりも素早くは動けないかもしれない。
「エリッツ、動いちゃだめだよ。あいつらの中に術士がいる」
後ろからつかまえているアルヴィンにはエリッツが何かしようとしているのがわかってしまう。
「でも……」
「静かに」
アルヴィンがさらに声をひそめる。
何かあるのだろうか。エリッツは落ち着いて辺りを見てみる。術兵たちはじっと耳をすませているような表情をしていた。グリディラン側の兵たちも一部が不安げに辺りの様子をうかがっている。その人たちが術兵なのかもしれない。またエリッツには感知することができない何かが起こっているようだ。総長もめずらしく真剣な面持ちで、何かを聞き逃すまいとしているようだ。
その異様な雰囲気を感じているのか、ライラとアッシュグレン王子の前で長剣をかまえた兵たちも動きをとめている。
「ライラ、戻れ!」
突如、総長が声をあげた。それに素早く反応したライラはアッシュグレン王子を首根っこを乱暴に引き寄せて立たせると、一目散にこちらへと駆けてくる。グリディランたちがライラの動きに反応するまでの一瞬の出来事だった。直後、すさまじい地鳴りと揺れがあり、グリディランたちはもうもうと立ちのぼる砂塵の中に消えた。
何が起こったのか、よくわからない。そこからアッシュグレン王子がはい出てくるのが見える。周りにいた兵たちも大慌てで砂塵から逃げていった。どうやらグリディランたちだけがきれいに消えているようだ。
そのとき上空で風の鳴る音がした。すでに聞き馴染んだ水竜の咆哮である。
「見えてたからやるだろうなとは思ってたけど、それはいらないんだよ。気に入ってんのかな」
総長が上空を見ながらぶつぶつ言っている。水竜が砂塵の舞う辺りに向かって水を吐いた。総長をずぶ濡れにした時の比ではない。あきらかに攻撃としてやっている勢いだ。さらについでとばかりに総長に向かってペッと唾を吐くように水を飛ばす。本当にコントロールが抜群だ。また見事に総長だけがずぶ濡れである。「いちいち俺にじゃれつくんじゃない」と、総長はうんざりしたように濡れた髪をかきあげた。
「シェイル、どこにいるんだろう」
水竜ということは、シェイルがやっているに違いない。
「近くにはいると思うよ。さっき術兵たちの話を聞いてたでしょ。こういう術は術士の居所がわかると手を打たれちゃうからね」
「その通りです。狙いを定めているうちに逆にあっち側の術士に狙われてしまいますから」
いつのまにか隣にシェイルがいる。上空にはまだ水竜もいる。さっきは渓谷の辺りに体がつながっていたが、今は少しだけ小ぶりになり、尾までしっかりと見えている。あれをどう操っているのだろう。
「あの水竜というのを引っこめれば問題ないだろうに」
総長はまた文句を言っている。エリッツが首をかしげていると、アルヴィンが小声で補足してくれる。
「地中の術というのはもとから対抗しにくいんだよ。動きを見づらいうえに、術素が重いからそもそも扱える術士自体も少ない。水竜を使わなければ隠れる必要はなかったのかも」
シェイルがちらりとこちらを見たので、アルヴィンが緊張する。
「エリッツもすぐ飛び出したりしてしまうので、隠れていて欲しかったんですけどね」
それはまさにそうだったので何も言えない。アルヴィンに止められなかったらたぶん飛び出して、あの砂塵の中にいたことだろう。
舞いあがった砂が落ちつき、何が起こっているのか少しずつ見えてくる。
穴だ。
グリディランたちがいたところに大きな穴があいている。水竜を掘り出した術と同じ理屈だろうか。おそらく命まで奪うつもりはなかったらしく、深さはそこまでないようだ。しかし水竜の吐いた水で池のようになり、装備が重いのか数人の兵たちがおぼれかけていた。
「王子様、ご指示を!」
何度もびしょ濡れにされて、やけくそのように総長が叫ぶ。
「母を……王妃を早く……」
アッシュグレン王子はどうやらすっかり腰が抜けてしまったようで地面にはった姿のまま、震える指で、できたばかりの池を指している。
「アッシュグレン王子のご命令だ。グリディランとその仲間たちをしばりあげろ。ついでに王妃様もだ」
総長がまたでたらめを言っている。総長も王妃の動きの違和感に気づいていたのだろう。エリッツが気づくくらいなら、みんな気づくということか。総長の声に疑問をさしはさむ者もなく全員が水から引きあげられ、とらえられた。王妃は縄こそかけられはしなかったものの、二人の兵にがっちりと囲まれている。「無礼者!」と大声で抗議している様子はいかにもアッシュグレン王子の母親らしい。この後のことはエリッツたちが首を突っ込むべきことではないだろう。
「さて事務仕事を片付けたら帰りますよ」
シェイルがエリッツとアルヴィンに顔を向けた。ちょっと様子がおかしい。顔色があまりよくないようだ。
「おい、おい、そのおもちゃを放すなよ」
総長がため息まじりで、しかし少しあわてた様子でシェイルに歩みよる。
「気を失うまでおもちゃで遊ぶとか五歳児かよ」
総長がシェイルの左手をとると、シェイルはそのまま総長の方へ倒れこんだ。
「重い。お前も重いが、おもちゃが重い」
総長がよくわからないことを言いながら歯を食いしばっている。
「よくこんなもん掘りおこしたうえにここまで持ってきたな」
軽々とシェイルを抱きとめているように見えるが、エリッツはとりあえず「大丈夫ですか」と総長に駆けよった。アルヴィンが後ろから「きみじゃ無理だ」と、ついてくる。
「手伝うよ」とアルヴィンが総長に声をかけたが「いや、ごめん。ちょっと無理だった」と、総長が脱力したように笑った。
直後、すさまじい勢いで雨が降り出す。空は快晴であるが、文字通り滝のような大雨だ。なすすべもなくその場の全員がずぶ濡れになる。視界がさえぎられるほどの豪雨の中、みんな呆然と立ち尽くしていた。
この雨はもしかして水竜だったものだろうか。
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