亡国の草笛

うらたきよひこ

文字の大きさ
上 下
104 / 236
第三章 黒い狼

第百四話 黒い狼(3)

しおりを挟む
「殿下、今日は身が入りませんね。わからないところでもあるのですか」
 ラヴォートの教育係のブライスが不審そうに顔をのぞきこんでくる。
 ラヴォートに勉強のためにあてがわれている部屋で、高官たちの執務室のある一角である。長じてからはこの部屋がラヴォートの執務室となると聞かされている。王子といえども遊び暮らしているわけにはいかないようだ。
「少し熱っぽいようですね。休みましょうか」
「いや、平気だ」
 ブライスは小柄で妙に華奢な男だが、王立学校きっての秀才として有名だったらしい。もう五十を超えておりラヴォートは当時のことは知らない。だが長く王の子らの教育係を務めていることからその能力の高さは折り紙つきのようだ。
 朝から気を抜くとなぜかあの捕虜のことを考えてしまう。ラウルドは報告を寄こすと言っていたが、まだなのか。あの大怪我で本当に無事なのだろうか。それに帝国の師団をひとつ壊滅に追い込んだと聞いたが本当なのか。左腕を厳重に封じられていたところを見るとおそらく術士の才があるのだろう。
 そして鎖に締め上げられてほの赤く染まる肌が脳裏にちらつく。
 ラヴォートは頭を振った。
「殿下?」
「大丈夫だ。だが少しだけ休憩させてもらう」
 ラヴォートが席を立とうとしたとき、ちょうどドアがノックされる。
「ラヴォート殿下、軍部のシャンディッシュ隊長が報告があるとのことですが」
 取次の使用人の声を聞き終わる前にラヴォートは椅子を蹴って立ち上がっていた。
「そうか! 入れ」
 ブライスが隣で怪訝な顔をしている。軍の隊長が王子に何の用事かと思うのも無理はない。ラヴォートもラウルド自ら報告に来るとは思わなかった。従者が報告書を持ってくるのだろうと考えていたが、こちらから質問ができればより具体的なことを知れる。
「今は勉強の時間ですよ」
 ブライスは苦い顔をする。
「いや、昨日の騒ぎを知っているか。剣の稽古を中断されたものだから何があったのか報告を入れるように指示をしていたのだ。勉強は後で必ずやる」
 多少表現に歪曲と誇張があるが、ブライスは興味をひかれたような表情になる。
「そういえばえらく騒がしかったですね。帝国の捕虜を連れ帰ったとか。何をそんなに騒いでいたんでしょう」
 勉学に厳しい男だが学問好き特有の好奇心の強さがたびたび見られる。巻き込んでしまえば文句も言われまい。
「失礼します」
 ラウルドが戸口で大きな体を小さくして頭を下げたままラヴォートの返事を待っている。
「かまわぬ。顔をあげろ。昨日の話を聞かせてくれ」
 昨日は戦地から戻った直後でかなりくたびれた格好をしていたが、今日は清潔な印象の制服姿である。帰還の報告や事務仕事などもいろいろとあったためだろう。
「はい。概要はこちらの報告書に――」
 妙に分厚い書類に怪訝な顔をすると、ラウルドは一瞬だけかすかにほほ笑んだ。使用人がラウルドから書類を受けとりラヴォートの元に持ってくる。わずかに昨日菓子が包まれていた油紙と同質のものがはみ出していて、書類は不自然なふくらみを持っていた。
「――後で目を通す」
 大胆な真似をする。ブライスに見つかったらラヴォートもラウルドもただでは済まない。しかし心が浮き立ってしまうのも事実だ。今日は何の菓子を持ってきたのか。
「実はご報告に来たものの昨日と状況はさほど変わっておりません。捕虜は牢に移しましたがそれだけです。昨日の騒ぎは兵の一人があの捕虜が帝国軍の師団を壊滅に追い込んだという話をしてしまい、それが噂になって一目その捕虜を見ようとした人々が集まり、それが子供だったものだから人が人を呼び――という経緯ですね」
「え! 子供が帝国軍の師団を壊滅させた?」
 ブライスが隣で大仰に身をのけぞらせる。体が細いので背が折れそうだ。こういう輩が多いから昨日の騒ぎとなったのだろう。秀才と名高いわりに俗っぽい。だがそこに親しみをおぼえるためラヴォートは勉学の時間が憂鬱でもブライスには好感を抱いていた。
「怪我の手当は済んでいるんだろうな。食事は? きちんとした寝床があるのか。話はするのか」
 矢継ぎ早に問うラヴォートにラウルドは苦笑する。
「ラヴォート殿下までそれですか。随分とあの捕虜に肩入れしますね」
「どういう意味だ」
「いえ、失礼しました。先ほどルーヴィック様にも呼ばれたものですから」
 ラヴォートは顔をしかめる。ルーヴィックと一緒にしてほしくはない。あの捕虜を犬か猫のように考え所有したいとのたまっていたが、ラヴォートは違う。この国の王子としての捕虜の扱いに疑問を感じただけだ。
「俺が先に呼んだのだが」
 昨日の時点で報告をもらう約束をしていたのにこの様子だとルーヴィックに呼ばれてラヴォートよりも先に報告に行ったようだ。
 状況はわかる。あの奇人本人がふと思いついた瞬間に兵舎まで駆け出してラウルドの腕をひっぱっていったとしても別に驚かない。強引なのだ。ラウルド本人がここまで来たのはおそらくその「ついで」だろう。
「申し訳ありません」
 ラウルドが苦笑しながら頭を下げるのでラヴォートはさらに気分が悪くなった。へそを曲げた子供を扱う反応だ。
「ひとつずつ、お答えします。怪我の手当は終わっています。ただどういうわけか薬が効きません。少し熱を出しているようですが体は丈夫なようで容体は悪くありません。実は昨日も薬で眠らせて運ぼうとしたのですが効かなかったのであのように縛っていたのです。戦場であんな光景を見せられてはとてもそのまま歩かせる気になれませんでした」
 何か嫌な記憶がよぎったのかラウルドは大きく顔をゆがめる。戦場で何を見たのか気にはなるが聞かない方がよさそうだ。
「ごくごく稀にそういう体質の人間がいると書物に書かれていました。毒や薬の影響を受けにくい。毒殺されるリスクは少ないですが大病をしたときに薬が効かない。一長一短といえます。それから酒にも酔わないみたいですね。あれは薬のようなものですから。酒を飲んでも楽しくなれないのはかわいそうですが」
 ブライスが隣で解説をしてくれる。そんな人間がいるのかとラヴォートは感心したが子供じみた感じになるので顔には出さない。
「さすが殿下の先生ですね」
 ラウルドの方は納得した様子で何度も頷いている。ブライスもそれに気を良くしたように「いやいやとんでもない」などと言ってにこにこしている。本当に秀才と名高かったのだろうか。反応がいちいち俗っぽい。
「それから食事の件ですね。きちんと用意しているのですが手をつけません。話もしません」
「ラインデルの人間だから食事が口に合わないのではないか。レジスの言葉で話しかけたのではないか。ラインデルの言葉でもだめか?」
 ラウルドはまた苦笑する。
「殿下、ひとつずつです」
 ラヴォートはむっと口を引きむすんだ。自分でもよくわからないが気になって仕方ない。
「与えたのは他の囚人と同じでごく一般的なパンとスープです。殿下の食事とは違いますよ。口に合うもなにもありません」
 ラウルドは口元を隠してうつむいた。笑っている。先ほどから子ども扱いがひどい。
「そんなことはわかっている。ラインデルの囚人とは違うかもしれないだろう」
「ええ、もちろん。殿下のおっしゃる通りです」
 お追従のようなことを言われても腹が立つ。
「何も話しませんが、反応を見る限りレジスの言葉は理解しているようですね。本日、あの少年を捕虜とするように指示したカウラニー様が戦地から戻られます。何か意図があるご様子でしたから、またご報告ができるかと思います」
 ラウルドが報告を終えようとしたので、ラヴォートはあわてて「待て」と呼びかける。ラウルドは首をかしげた。
「ルーヴィックは何か言っていたか」
「ルーヴィック殿下ですか? そうですね、あの少年の取り調べが終わったら研究に協力してもらえるよう手配できないかと言っていました。ルーヴィック殿下は術士の能力について研究されていますが、戦時とあって協力できる術士がおりませんでしょう。その点、捕虜であればいいのではないか、と。しかもあの捕虜の少年、かなりの腕前ですから。危険がないと判断されれば実現するかもしれませんね」
 ラヴォートはまたむっと口を引き結んだ。なぜルーヴィックは急にまともなことを言っているのだろうか。黒い狼を手懐けてどうにかするという話は大人にはしないのか。そういう時だけ理路整然と大人を説得するのはどういうことなんだ。
「ラヴォート殿下?」
 急に不機嫌に黙りこくったラヴォートにラウルドとブライスは不思議そうに顔を見合わせた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

婚約者に裏切られた女騎士は皇帝の側妃になれと命じられた

ミカン♬
恋愛
小国クライン国に帝国から<妖精姫>と名高いマリエッタ王女を側妃として差し出すよう命令が来た。 マリエッタ王女の侍女兼護衛のミーティアは嘆く王女の監視を命ぜられるが、ある日王女は失踪してしまった。 義兄と婚約者に裏切られたと知ったミーティアに「マリエッタとして帝国に嫁ぐように」と国王に命じられた。母を人質にされて仕方なく受け入れたミーティアを帝国のベルクール第二皇子が迎えに来た。 二人の出会いが帝国の運命を変えていく。 ふわっとした世界観です。サクッと終わります。他サイトにも投稿。完結後にリカルドとベルクールの閑話を入れました、宜しくお願いします。 2024/01/19 閑話リカルド少し加筆しました。

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

虐げられた令嬢、ペネロペの場合

キムラましゅろう
ファンタジー
ペネロペは世に言う虐げられた令嬢だ。 幼い頃に母を亡くし、突然やってきた継母とその後生まれた異母妹にこき使われる毎日。 父は無関心。洋服は使用人と同じくお仕着せしか持っていない。 まぁ元々婚約者はいないから異母妹に横取りされる事はないけれど。 可哀想なペネロペ。でもきっといつか、彼女にもここから救い出してくれる運命の王子様が……なんて現れるわけないし、現れなくてもいいとペネロペは思っていた。何故なら彼女はちっとも困っていなかったから。 1話完結のショートショートです。 虐げられた令嬢達も裏でちゃっかり仕返しをしていて欲しい…… という願望から生まれたお話です。 ゆるゆる設定なのでゆるゆるとお読みいただければ幸いです。 R15は念のため。

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

処理中です...