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第一章 (仮)
第六十九話 仇討ち
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「陛下、急ぎご許可いただきたいことが」
ラヴォート殿下が天幕の前でひざまずく。すでに多くの兵が陛下の天幕の内外につめかけ銃弾が王に当たらぬよう盾をかまえている。
「よい。よきにはからえ」
さらに口を開きかけた殿下をさえぎるように陛下の声が響く。天幕の中からにもかかわらず陛下の低い声は際立つ。すべてを圧倒する威厳を放っているがようは丸投げだ。なにも聞かずに「事情はどうでもいいからなんとかしておけ」ということだろう。にもかかわらずラヴォート殿下は当然のような顔をして立ちあがる。陛下はいつもこんな感じということか。
「たった三人で度胸がありますね」
シェイルは銃口を向けられているのにいつも通りの口調だ。アイザックは静かにこちらをにらんでいるだけで相変わらず何を考えているのか読めない。
「なんのことですかな。私はお前の腕をとっているだけで、他には特に何もしてはおらん」
「あ、なるほど。そうきましたか」
いつ撃たれるかわからない状況でよくそんなのんきな会話ができるものだとエリッツはハラハラした。当然、シェイルの左腕をしっかりととらえているグランディアス総督とて流れ弾をくらってもおかしくない。
するとラヴォート殿下がシェイルの耳元で何ごとかをささやいた。仮面からでている口元がわずかに笑みの形をつくる。
「なぜ、国王陛下の御前であのような暴挙にでたのか、たずねては差し上げないのですかな」
グランディアス総督は白々しい口調で会話を続けようとする。
「ずいぶんと冷遇されてきたようですな。いや、もう五十年以上も昔の、彼の父親の話ですよ。ほんの少しの間違いで優秀な家臣を山深い地に左遷とは」
「詳しいじゃないか」
つまりアイザックは完全に帝国に通じていた。が、今となってはどうでもよいことか。
ラヴォート殿下がシェイルの腕をつかんでいるグランディアス総督の腕をさらにつかむ。
「幼いころから父の跡を継ぐために血のにじむような努力を続けた若者が、突然山奥に送られ尊敬していた父の恨み言ばかりを聞きつづけるとはいかほどのことだろうな。しかも山奥の生活しか知らない弟は愚鈍な間ぬけ」
「そこは同意する」
ラヴォート殿下がグランディアス総督の腕をつかんでいる手にぐっと力をこめる。お返しとばかりにグランディアス総督はシェイルの腕をつかんでいる手に力をこめる。
「ちょっとやめてくださいよ」
「なぜ俺にいう」
男三人で腕を取り合ってごちゃごちゃとやっているのを客たちは各々テーブルの陰や植えこみに隠れながらそっとうかがっている。
「ジーダルという――」
銃口をシェイルにむけたまま黙って様子をうかがっていたアイザック・デルゴヴァが唐突に口を開いた。
「武術をご存じですか」
銃をかまえている以外、普段のアイザックの様子と同じである。静かで冷静な口調がかえって不気味だ。
「昔の裕福な家の子供はみんな一度は習ったものだな」
音もなく歩み出てきたのは庭師のおじいさん――オズバル・カウラニーだった。すましたような顔でアルヴィンも後ろにくっついてくる。エリッツはアルヴィンにいろいろと問いただしたい感情をこらえてただ見守った。
「まだ帝国との軋轢もなく平和だったころのことだ。ジーダルは護身術としての性質が強い。攻撃するのではなく身を守る武術だった。やがて世の中が不穏になるにつれ、積極性に欠けるとして見向きもされなくなったがな」
オズバルの解説にアイザックは満足げにうなずいた。
「しかしジーダルほど効率のいい武術はない。攻撃してくる相手の力を利用し自身の労力は最小限で相手を倒せる。力の方向を見極めることが重要だ。そしてその見極める力は武術以外にも応用が利く」
「なるほど、彼が自身の手をほとんどわずらわすことなくコルトニエス一帯を手中におさめた秘密はそれか。彼がもしレジス中枢にあれば我ら帝国の苦悩も今以上だったことだろうな」
グランディアス総督は追従するように深くうなずく。
「あれは誰ですか」
二人のわざとらしい会話をさして聞いていないようでシェイルはそっとエリッツに問う。
「誰のことですか」
「アイザック氏の隣にいる少年です。ブロンドの」
リークのことだとエリッツはすぐに気づいたが、緊張感のあるシェイルの声にたじろいですぐに言葉がでない。
「いつからアイザック氏のそばに?」
矢継ぎ早に聞かれ、エリッツは一度深呼吸をする。
「うちに来る前からです。コルトニエスから来ました」
シェイルは「コルトニエスから」と自身で確認するようにつぶやき、エリッツの肩をぐいと引き寄せる。そして「何があっても取り乱してはいけません。わたしのそばから離れないように」とささやいた。
「離れません」
エリッツはここぞとばかりにシェイルにしがみつく。久しぶりに師の体温を感じてやはり兄の家から出るべきだと強く思い、腕に力をこめた。しかしその師からは「あ、やっぱりちょっとはなしてください」と、押しやられてしまう。
「何をこそこそやっている」
グランディアス総督がシェイルの腕を引くと、今度はラヴォート殿下がグランディアス総督の腕を強く引っ張る。さっきからこの応酬ばっかりだ
「そっちこそ、時間稼ぎはやめてさっさとことをすすめたらどうだ。こいつを撃ち殺して首を持っていくんだろう」
「縁起でもないこといわないでください」
「そんなものはいらん。ロイの王族でないと意味がない」
かちりと硬い音が響いた。アイザックが銃の撃鉄を起こしたのだ。
「いえ、その首は価値がありますよ。総督がいらぬとおっしゃるならわたしがいただきましょう。これまでこの手を汚さずとも少し言葉をそえるだけで周りが思い通りに動いたものですが、その首は手を汚す価値がある。これをレジスでの最後の仕事と決めました」
そこまで言われてもアイザック氏の老紳士然とした印象は変わらなかった。これまでこんな調子で悪事をはたらいてきたのだろう。自らの手は汚さず、上品な口調で、周りを操りすべてを思い通りにしてきたのだ。だから時間はかかったのだろうが証拠も残さず、味方になるものもいた。エリッツとてまだこの老紳士がすべての黒幕だったとは信じることができない。柔和な笑顔を浮かべダウレに興じていたあの紳士と厳しい表情で銃口を向けるアイザックの印象は緩やかに連なっていた。
シェイルの体がわずかにこわばり、素早くエリッツをかばう。アイザック・デルゴヴァから放たれているのは本気で殺す意思を持った者の殺気だ。撃たれる。
突然、体がすごい力で押しのけられた。見ると目をらんらんと輝かせたアルヴィンがシェイルの前に立ちふさがっている。今のは例の術だろうか。満身創痍のエリッツはちょっと押されたくらいでも全身が痛むのだ。文句を言おうとしたその時、すっと魂が抜けたようにアルヴィンの目から輝きが消えた。そして呆けたように口をあける。
一瞬遅れて、すさまじい悲鳴が周りから巻き起こった。
おそるおそるアルヴィンの視線の先を見ると、目に入ったのは赤だった。勢いよく吹きあがる血液の赤だ。やがて重い音とともにアイザック・デルゴヴァの体が地面に沈みこむ。
「フェリク・リンゼイだ。父と母の仇、アイザック・デルゴヴァを討ちとった!」
そう口上を述べ高々と短剣をかかげるリークをエリッツもアルヴィンと同じように口をあけたまま見ていた。不思議とリークはほとんど返り血をあびていない。
「あの短剣……」
手にしているのはあの「一度しか抜かない」と言っていた短剣だ。エリッツはいまだ状況についていけない。
「ずいぶんとまた物持ちがいいですね」
シェイルがあきれたようにため息をつく。
「リークを知ってるんですか」
エリッツは驚いて師を見あげる。
「――いいえ、知りません」
シェイルの言っていることがよくわからない。エリッツがその意味を問いかけようと口をひらいたその時。
「仇討ち、天晴!」
突然、天幕にいる陛下の大声が聞こえた。
「仇討ちは法にふれる。とらえさせろ」
ラヴォート殿下は陛下の声を無視して、カルザム長官に短く指示を出す。
「捨ておけ。『ここではない』ぞ」
陛下はなおも声をはりあげる。
「法をおかした者を捨ておけば国が乱れる。行け」
ラヴォート殿下はカルザム長官に顔を寄せると「ただし形だけだ。人数をさくな」と小声で言いそえる。カルザム長官は小さくうなずくと、兵に指示を出すべく駆けだした。
陛下とラヴォート殿下の会話もちくはぐだ。しかし陛下の様子はどことなく先ほどのルーヴィック殿下の我が道を行く姿勢を彷彿とさせる。やはり親子なのだろう。裏ではおそろしく口が悪いラヴォート殿下がまともな人間に見えてくる。
建物から数名の兵士が出てきてリークを指さしてはあちこちに散ってゆく姿が見えた。出口を固めるのだ。
「リーク!」
リークがつかまってしまう。友達とは呼べない関係かもしれないが、エリッツの胸には昨夜の悲痛なリークの表情が何度もよみがえってきた。
両親の仇だったのだ。アイザック自らでなくとも、リークの両親は間接的に殺されたに違いない。何があったのかもはやエリッツには知る由もないが、長い間気も狂わんばかりに思いつめていたことは昨日の様子から容易に想像がついた。
倒れたアイザックを静かに見下ろしているリークのもとに駆けだそうとしたが、その腕をシェイルにつかまれる。
「落ちついて。それはあなたの仕事じゃありません」
この事態をシェイルは予測していたのか。
「でもリークが――」
やはりエリッツは彼を放ってはおけない。
「大丈夫です。あの『家』にはゼインがいます」
「どういう意味ですか」
なぜ留守番をしているゼインが関係しているのだろうか。さっきから師の言っていることがわからない。自分はやはり頭が悪いのだろうか。泣きそうになるのをぐっとこらえて、ふたたびリークの様子をうかがおうと見たとき、その剣先は地面をはうように逃げ出すオグデリスに向けられていた。無駄のない素早さでその背に斬りかかる。思わず目をそらしたエリッツの耳に甲高い金属音が響いた。
クリフである。あの速い斬撃をフォーク一本で受けていた。ずいぶんと丈夫なフォークだ。
「こんな愚鈍な間抜けに関わっているより早くお逃げになった方がよろしいですよ」
こんな状況なのに相変わらずひょうひょうとしている。オグデリスはその隙にテーブルの下へと虫のようにはっていった。リークもさしてこだわることはなく短剣をおさめるとその身をひるがえす。直後、数人の兵がリークの背を追っていったが、リークの素早さは身をもって知っている。つかまることはないのではないだろうか。
呼び出されたとおぼしき役人たちが残されたアイザックの遺体をあらためはじめていた。客たちはおびえたように声をひそめている。
「さっきからその声、もしかしてエリッツ?」
アルヴィンがいぶかしげにエリッツをヴェールごしに見ている。
「そうだけど。おれはアルヴィンに言いたいことがいろいろあるし、正直何が何だかわからない」
たまりにたまった鬱憤をアルヴィンに全部ぶつけそうになる。
「何が何だかってこっちのセリフだよ。なんで女装してるの。いや、それどころじゃないよ。まさかリークに取られるなんて。あれは僕の仕事だったのに。仇討ちなんて初耳だよ。友達だと思ってたのに、なんてやつだ」
さすがのアルヴィンもこの事態を読み切れなかったようでうんざりしたような声をあげた。
「ふん、えらいことになったな。計画が台無しだ」
グランディアス総督の方も当てが外れたとばかりに血だまりに倒れるアイザック・デルゴヴァをつまらなそうに見やる。
「おい、この後はどうする。大幅に予定が変わったぞ」
無責任な口調で後ろの二人を振り向くがその二人も困ったように顔を見合わせる。
「もしよろしければ、このままご一緒しますか」
シェイルがようやくグランディアス総督の腕をふり払う。
「お前、どこへ行く気だ」
総督は憮然と鼻を鳴らす。
「どこって、前線ですよ。先ほど国王陛下の軍を預かりました。それともここで食事の続きを?」
シェイルは口元に笑みを浮かべている。対してグランディアス総督は大きく舌打ちをした。
「お前にかかわるとろくなことにならない。おい、メシを食って帰るぞ」
『総督!』
背後の二人が同時に悲鳴のような声をあげる。
「うるさい、わかっている。だが」
グランディアス総督はもったいぶったようにゆっくりと人差し指を立てる。
「手遅れだぞ」
薄笑いを浮かべた総督をつめかけた兵たちが取り囲んだ。
ラヴォート殿下が天幕の前でひざまずく。すでに多くの兵が陛下の天幕の内外につめかけ銃弾が王に当たらぬよう盾をかまえている。
「よい。よきにはからえ」
さらに口を開きかけた殿下をさえぎるように陛下の声が響く。天幕の中からにもかかわらず陛下の低い声は際立つ。すべてを圧倒する威厳を放っているがようは丸投げだ。なにも聞かずに「事情はどうでもいいからなんとかしておけ」ということだろう。にもかかわらずラヴォート殿下は当然のような顔をして立ちあがる。陛下はいつもこんな感じということか。
「たった三人で度胸がありますね」
シェイルは銃口を向けられているのにいつも通りの口調だ。アイザックは静かにこちらをにらんでいるだけで相変わらず何を考えているのか読めない。
「なんのことですかな。私はお前の腕をとっているだけで、他には特に何もしてはおらん」
「あ、なるほど。そうきましたか」
いつ撃たれるかわからない状況でよくそんなのんきな会話ができるものだとエリッツはハラハラした。当然、シェイルの左腕をしっかりととらえているグランディアス総督とて流れ弾をくらってもおかしくない。
するとラヴォート殿下がシェイルの耳元で何ごとかをささやいた。仮面からでている口元がわずかに笑みの形をつくる。
「なぜ、国王陛下の御前であのような暴挙にでたのか、たずねては差し上げないのですかな」
グランディアス総督は白々しい口調で会話を続けようとする。
「ずいぶんと冷遇されてきたようですな。いや、もう五十年以上も昔の、彼の父親の話ですよ。ほんの少しの間違いで優秀な家臣を山深い地に左遷とは」
「詳しいじゃないか」
つまりアイザックは完全に帝国に通じていた。が、今となってはどうでもよいことか。
ラヴォート殿下がシェイルの腕をつかんでいるグランディアス総督の腕をさらにつかむ。
「幼いころから父の跡を継ぐために血のにじむような努力を続けた若者が、突然山奥に送られ尊敬していた父の恨み言ばかりを聞きつづけるとはいかほどのことだろうな。しかも山奥の生活しか知らない弟は愚鈍な間ぬけ」
「そこは同意する」
ラヴォート殿下がグランディアス総督の腕をつかんでいる手にぐっと力をこめる。お返しとばかりにグランディアス総督はシェイルの腕をつかんでいる手に力をこめる。
「ちょっとやめてくださいよ」
「なぜ俺にいう」
男三人で腕を取り合ってごちゃごちゃとやっているのを客たちは各々テーブルの陰や植えこみに隠れながらそっとうかがっている。
「ジーダルという――」
銃口をシェイルにむけたまま黙って様子をうかがっていたアイザック・デルゴヴァが唐突に口を開いた。
「武術をご存じですか」
銃をかまえている以外、普段のアイザックの様子と同じである。静かで冷静な口調がかえって不気味だ。
「昔の裕福な家の子供はみんな一度は習ったものだな」
音もなく歩み出てきたのは庭師のおじいさん――オズバル・カウラニーだった。すましたような顔でアルヴィンも後ろにくっついてくる。エリッツはアルヴィンにいろいろと問いただしたい感情をこらえてただ見守った。
「まだ帝国との軋轢もなく平和だったころのことだ。ジーダルは護身術としての性質が強い。攻撃するのではなく身を守る武術だった。やがて世の中が不穏になるにつれ、積極性に欠けるとして見向きもされなくなったがな」
オズバルの解説にアイザックは満足げにうなずいた。
「しかしジーダルほど効率のいい武術はない。攻撃してくる相手の力を利用し自身の労力は最小限で相手を倒せる。力の方向を見極めることが重要だ。そしてその見極める力は武術以外にも応用が利く」
「なるほど、彼が自身の手をほとんどわずらわすことなくコルトニエス一帯を手中におさめた秘密はそれか。彼がもしレジス中枢にあれば我ら帝国の苦悩も今以上だったことだろうな」
グランディアス総督は追従するように深くうなずく。
「あれは誰ですか」
二人のわざとらしい会話をさして聞いていないようでシェイルはそっとエリッツに問う。
「誰のことですか」
「アイザック氏の隣にいる少年です。ブロンドの」
リークのことだとエリッツはすぐに気づいたが、緊張感のあるシェイルの声にたじろいですぐに言葉がでない。
「いつからアイザック氏のそばに?」
矢継ぎ早に聞かれ、エリッツは一度深呼吸をする。
「うちに来る前からです。コルトニエスから来ました」
シェイルは「コルトニエスから」と自身で確認するようにつぶやき、エリッツの肩をぐいと引き寄せる。そして「何があっても取り乱してはいけません。わたしのそばから離れないように」とささやいた。
「離れません」
エリッツはここぞとばかりにシェイルにしがみつく。久しぶりに師の体温を感じてやはり兄の家から出るべきだと強く思い、腕に力をこめた。しかしその師からは「あ、やっぱりちょっとはなしてください」と、押しやられてしまう。
「何をこそこそやっている」
グランディアス総督がシェイルの腕を引くと、今度はラヴォート殿下がグランディアス総督の腕を強く引っ張る。さっきからこの応酬ばっかりだ
「そっちこそ、時間稼ぎはやめてさっさとことをすすめたらどうだ。こいつを撃ち殺して首を持っていくんだろう」
「縁起でもないこといわないでください」
「そんなものはいらん。ロイの王族でないと意味がない」
かちりと硬い音が響いた。アイザックが銃の撃鉄を起こしたのだ。
「いえ、その首は価値がありますよ。総督がいらぬとおっしゃるならわたしがいただきましょう。これまでこの手を汚さずとも少し言葉をそえるだけで周りが思い通りに動いたものですが、その首は手を汚す価値がある。これをレジスでの最後の仕事と決めました」
そこまで言われてもアイザック氏の老紳士然とした印象は変わらなかった。これまでこんな調子で悪事をはたらいてきたのだろう。自らの手は汚さず、上品な口調で、周りを操りすべてを思い通りにしてきたのだ。だから時間はかかったのだろうが証拠も残さず、味方になるものもいた。エリッツとてまだこの老紳士がすべての黒幕だったとは信じることができない。柔和な笑顔を浮かべダウレに興じていたあの紳士と厳しい表情で銃口を向けるアイザックの印象は緩やかに連なっていた。
シェイルの体がわずかにこわばり、素早くエリッツをかばう。アイザック・デルゴヴァから放たれているのは本気で殺す意思を持った者の殺気だ。撃たれる。
突然、体がすごい力で押しのけられた。見ると目をらんらんと輝かせたアルヴィンがシェイルの前に立ちふさがっている。今のは例の術だろうか。満身創痍のエリッツはちょっと押されたくらいでも全身が痛むのだ。文句を言おうとしたその時、すっと魂が抜けたようにアルヴィンの目から輝きが消えた。そして呆けたように口をあける。
一瞬遅れて、すさまじい悲鳴が周りから巻き起こった。
おそるおそるアルヴィンの視線の先を見ると、目に入ったのは赤だった。勢いよく吹きあがる血液の赤だ。やがて重い音とともにアイザック・デルゴヴァの体が地面に沈みこむ。
「フェリク・リンゼイだ。父と母の仇、アイザック・デルゴヴァを討ちとった!」
そう口上を述べ高々と短剣をかかげるリークをエリッツもアルヴィンと同じように口をあけたまま見ていた。不思議とリークはほとんど返り血をあびていない。
「あの短剣……」
手にしているのはあの「一度しか抜かない」と言っていた短剣だ。エリッツはいまだ状況についていけない。
「ずいぶんとまた物持ちがいいですね」
シェイルがあきれたようにため息をつく。
「リークを知ってるんですか」
エリッツは驚いて師を見あげる。
「――いいえ、知りません」
シェイルの言っていることがよくわからない。エリッツがその意味を問いかけようと口をひらいたその時。
「仇討ち、天晴!」
突然、天幕にいる陛下の大声が聞こえた。
「仇討ちは法にふれる。とらえさせろ」
ラヴォート殿下は陛下の声を無視して、カルザム長官に短く指示を出す。
「捨ておけ。『ここではない』ぞ」
陛下はなおも声をはりあげる。
「法をおかした者を捨ておけば国が乱れる。行け」
ラヴォート殿下はカルザム長官に顔を寄せると「ただし形だけだ。人数をさくな」と小声で言いそえる。カルザム長官は小さくうなずくと、兵に指示を出すべく駆けだした。
陛下とラヴォート殿下の会話もちくはぐだ。しかし陛下の様子はどことなく先ほどのルーヴィック殿下の我が道を行く姿勢を彷彿とさせる。やはり親子なのだろう。裏ではおそろしく口が悪いラヴォート殿下がまともな人間に見えてくる。
建物から数名の兵士が出てきてリークを指さしてはあちこちに散ってゆく姿が見えた。出口を固めるのだ。
「リーク!」
リークがつかまってしまう。友達とは呼べない関係かもしれないが、エリッツの胸には昨夜の悲痛なリークの表情が何度もよみがえってきた。
両親の仇だったのだ。アイザック自らでなくとも、リークの両親は間接的に殺されたに違いない。何があったのかもはやエリッツには知る由もないが、長い間気も狂わんばかりに思いつめていたことは昨日の様子から容易に想像がついた。
倒れたアイザックを静かに見下ろしているリークのもとに駆けだそうとしたが、その腕をシェイルにつかまれる。
「落ちついて。それはあなたの仕事じゃありません」
この事態をシェイルは予測していたのか。
「でもリークが――」
やはりエリッツは彼を放ってはおけない。
「大丈夫です。あの『家』にはゼインがいます」
「どういう意味ですか」
なぜ留守番をしているゼインが関係しているのだろうか。さっきから師の言っていることがわからない。自分はやはり頭が悪いのだろうか。泣きそうになるのをぐっとこらえて、ふたたびリークの様子をうかがおうと見たとき、その剣先は地面をはうように逃げ出すオグデリスに向けられていた。無駄のない素早さでその背に斬りかかる。思わず目をそらしたエリッツの耳に甲高い金属音が響いた。
クリフである。あの速い斬撃をフォーク一本で受けていた。ずいぶんと丈夫なフォークだ。
「こんな愚鈍な間抜けに関わっているより早くお逃げになった方がよろしいですよ」
こんな状況なのに相変わらずひょうひょうとしている。オグデリスはその隙にテーブルの下へと虫のようにはっていった。リークもさしてこだわることはなく短剣をおさめるとその身をひるがえす。直後、数人の兵がリークの背を追っていったが、リークの素早さは身をもって知っている。つかまることはないのではないだろうか。
呼び出されたとおぼしき役人たちが残されたアイザックの遺体をあらためはじめていた。客たちはおびえたように声をひそめている。
「さっきからその声、もしかしてエリッツ?」
アルヴィンがいぶかしげにエリッツをヴェールごしに見ている。
「そうだけど。おれはアルヴィンに言いたいことがいろいろあるし、正直何が何だかわからない」
たまりにたまった鬱憤をアルヴィンに全部ぶつけそうになる。
「何が何だかってこっちのセリフだよ。なんで女装してるの。いや、それどころじゃないよ。まさかリークに取られるなんて。あれは僕の仕事だったのに。仇討ちなんて初耳だよ。友達だと思ってたのに、なんてやつだ」
さすがのアルヴィンもこの事態を読み切れなかったようでうんざりしたような声をあげた。
「ふん、えらいことになったな。計画が台無しだ」
グランディアス総督の方も当てが外れたとばかりに血だまりに倒れるアイザック・デルゴヴァをつまらなそうに見やる。
「おい、この後はどうする。大幅に予定が変わったぞ」
無責任な口調で後ろの二人を振り向くがその二人も困ったように顔を見合わせる。
「もしよろしければ、このままご一緒しますか」
シェイルがようやくグランディアス総督の腕をふり払う。
「お前、どこへ行く気だ」
総督は憮然と鼻を鳴らす。
「どこって、前線ですよ。先ほど国王陛下の軍を預かりました。それともここで食事の続きを?」
シェイルは口元に笑みを浮かべている。対してグランディアス総督は大きく舌打ちをした。
「お前にかかわるとろくなことにならない。おい、メシを食って帰るぞ」
『総督!』
背後の二人が同時に悲鳴のような声をあげる。
「うるさい、わかっている。だが」
グランディアス総督はもったいぶったようにゆっくりと人差し指を立てる。
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