亡国の草笛

うらたきよひこ

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第一章 (仮)

第六十七話 毒杯

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 もう逃げられないと観念し、エリッツはおとなしくダフィットのもとへ歩みよる。乱暴に腕を引かれて、ナプキンで顔をぬぐわれた。ヴェールをあげて顔を確認するような真似をされてなかったのは不幸中の幸いだが、適当に拭われて顔全体が鼻血で薄汚れたような気がする。貴人に対してはとても対応が丁寧なのにひどい差別だ。
「血が止まるまでここで休むように――と、仰せだ」
 そのままナプキンをエリッツの手に押しつけ「まったく……」と、ぼやきながら天幕から顔を出し人を呼んでいる。
 すぐ隣に北の王がいる。エリッツは緊張のあまり隣を見ることができない。やがて別の給仕の女性が入ってきて、てきぱきとエリッツの出したスープをさげる。よく見ると、テーブルにもこぼしていたし、こちら側からみると全部逆に出されている。なんだかとても汚い。
 すぐに新しいスープが出される。そして先ほどエリッツをここに連れてきた取り次ぎの男性が北の王の隣に椅子を運び込んできた。何だろうとながめているとダフィットに「早く座れ」とうながされる。何だかわけがわからないが、ナプキンで鼻を押さえながら椅子に腰かける。ただ北の王に先日のお詫びとお礼をと思っただけなのに、この状況になってみるといかに浅はかな考えだったか気づく。しかしなぜ横に座らされているのだろうか。
「食事中に失礼する」
 ラヴォート殿下が天幕の覆いを指先で優雅によけて中に入ってくる。公の場では相変わらず繊細で美しいふるまいである。だがエリッツを見るとすぐさまいつも通りの仏頂面になる。エリッツだとわからないはずなのになぜなのか。不安になって顔のヴェールを確認するがきちんと顔は隠れている。
「そこの娘、どうしてそこにいる」
「給仕の際につまずいて怪我をしたので北の王がこのまま仕事をさせるのは気の毒だからと」
 ダフィットが説明するとラヴォート殿下は盛大に鼻で笑った。
「バカか」
 トンと、テーブルを指先でたたく音が先ほどよりも大きく響く。ダフィットがまた耳を寄せてすぐ「直接言ってくださいよ」と泣きそうな声をあげた。
「殿下、北の王がいってるんですよ。お間違いないよう」
 ダフィットはラヴォート殿下に向き合う。
「うるさい。黙れ――と、仰せです」
 ラヴォート殿下はもはやすべてをあきらめたように小さく笑う。それから「遊んでいる時間はない。あとでおぼえていろよ」とつぶやくのが聞こえた。
「まったくバカばっかりで煩わしい。そこの娘に用がある」
「この娘にですか」
 ダフィットはいぶかしげな表情で殿下とエリッツを見比べる。
「そうだ。もうひとりのバカがそこの娘を夜伽によこせと騒いでいる」
「はあ、夜伽に」
 ダフィットはまた気の抜けた声を出す。まだ昼間だ。
「バカんとこの付き人が娘を引き渡してもらうまで戻れないとそこで泣いていてものすごく邪魔だ」
 ラヴォート殿下はもはや感情のこもらぬ声で淡々と述べる。もしや先ほどのルーヴィック様が呼んでいるということだろうか。放っておけばよいと思っていたが意外と本気らしい。
「些末なことに時間をかけている暇はない。娘を渡せば静かになるはずだ。来い」
 殿下がエリッツに手を伸ばすので思わず身を引いた。まだローズガーデンの式典ははじまったばかりだ。ここで抜けたくはない。
 また北の王がテーブルを鳴らす。ダフィットは恐々といった面持ちで主のもとに歩みよる。その表情がみるみる白く、やがて青くなる。そして絶句した表情のままラヴォート殿下に向き直った。
「この娘は後ほど自分の伽をさせるためにここに置いている。そちらには渡せない――と、仰せです」
 ラヴォート殿下は疲れをにじませた乾いた笑い声をあげる。
「さっきと話が違うじゃないか」
 もはやダフィットはテーブルが鳴る前に主の言をうかがいに行く。その顔色が今度は赤くなる。
「いや、あの、転んだときに下着が見えたんで、その、急にそういう気分になったと……って、妙に色気のない男物の下着みたいじゃなかったですか」
 ダフィットは律義に首をかたむける。男物の下着みたいではなく男物の下着だ。
「貴様はそいつのいうことをいちいち真にうけるんじゃない。八割方屁理屈だ。俺の言うなりになるのが癪で言ってるんだ」
 ラヴォート殿下はぶつぶつ言いながら懐から紙を取り出すと何事かを確認する。
「娘、セレッサ・ボードウィン小隊長だな。よく考えろ。お前にとっても悪い話じゃないはずだ。王族の手がつけば生活は保障される。とんでもない変人に見えたかもしれないがあれでいて実績ある研究者だ。粗暴なところもない。慣れればいいだけだ。こっちへ来い」
 説得の対象を変更したようだ。男だと伝えれば話が早いがつまみ出されるに決まっているし、かといってこのままではルーヴィック殿下のところへ連れていかれてしまう。どちらに転んでも退場だ。
 エリッツが答えに窮して黙っていると、先ほど椅子を運んでくれた男が「失礼します」と天幕に入ってきた。
「殿下、給仕の者たちが外で困っています。それから帝国の方々が毒杯はまだかと」
 ラヴォート殿下は「どいつもこいつも」と深くため息をつくと目を閉じる。
「毒杯を準備しろ。給仕の者はこの『余興』が終わるまでさがっているように。ルーヴィックの付き人は客の邪魔にならないところで泣かせておけ。セレッサ・ボードウィン小隊長はカルザム長官の指示に従え、以上」
 一気に複数の指示をだし自身もあわただしく天幕を出ていく。その直前、少しだけふり返り北の王を見た。何かを案ずるような色がその藍色の瞳を陰らせる。北の王に毒杯をあおらせるという話が出たときの殿下の拒絶ぶりを思い出した。本当はそんな「余興」は全力でとりやめたいはずだ。
「セレッサ・ボードウィン小隊長? こちらへ」
 カルザム長官は先ほどから殿下のそばで雑務をこなしていたあの男だ。ぼんやりとしていたエリッツの様子をうかがうようにこちらを見ている。
「血はとまりましたか」
 エリッツはナプキンで一度鼻をぬぐう。どうやらもう大丈夫のようだ。カルザム長官を見てひとつうなずくと椅子をおりる。いよいよ仕事だ。
「いいですか。附子は危険物です。給仕担当にまかせられない理由は理解しているかと思いますが、帝国の連中に対しても油断なきよう」
 天幕を出てすぐカルザム長官は炊事場とは逆の方向へ歩きはじめる。
「連中が何をするかわかりません。北の王を傷つけようとする可能性もゼロではない。これを」
 長官はエリッツに短刀を渡す。
「有事のために警備兵を近くに立たせるが、すぐに動ける位置にいるのは小隊長だ。頼みましたよ。北の王に何かあればラヴォート殿下に申し訳が立たない」
 給仕の延長くらいに思っていたが、それ以上に重要なポジションらしい。やや緊張しながらエリッツは短刀をすぐ抜けるように腰のベルトに固定し上衣で隠す。
 活気のあった炊事場とは逆に静かなものだった。のどかに日のさした明るい一室だ。手前には銀色の給仕用の台車があり、満々と水をたたえた大きな玻璃の器がのっている。その中には一匹の尾の長い魚がゆったりと泳いでいた。隣には美しい細工がほどこされた厚手のゴブレットが日の光に複雑なかがやきを見せていた。これが毒杯だろう。中はすでに液体で満たされている。
「また予定が変わった。附子の準備はどうなっている」
 カルザム長官か声をかけると小さな老婆が腰を曲げ伸ばししながら立ち上がる。長官の顔を認めるとゆっくりとうなずいた。まつ毛が長くかわいらしい印象の老婆だ。異国の言葉で何ごとかを話しはじめたので、その声でエリッツはすぐに北の王の部屋で薬湯を作ってくれた医師だと気がついた。
「すまないが、ロイの言葉はわからない」
「ああ、そうだったね。そこにちょうどギリギリの量を処方しました。くれぐれもフィル・ロイット様をお守りくださいよ。何かあったらすぐに呼んで」
 かなり流ちょうなレジスの言葉である。しゃべれるのだ。そういえば、北の王もラヴォート殿下の言葉をそのまま理解していた。あの方も話せるのではないだろうか。ぴしゃりと音がして台車のうえの魚がはねた。
「本当はおそばにいたいのですが」
 老婆は不安げに長官を見上げる。
「危険なのでそれはご遠慮願いたい」
 初めから承知していたようで老婆は小さくうなずいただけだった。
 カルザム長官は玻璃の器と毒杯がのった台車を押しながらエリッツに手順を指示する。
「いいですか、まず毒杯とこの器を帝国のグランディアス総督に引き渡す。グランディアス総督がこの杯の毒が本物かどうか魚をつかってためします。総督が納得したら毒杯を受けとってそのまま北の王にわたし、すべてが終わるまで北の王の横にひかえていてください。目を離してはいけませんよ」
 エリッツは理解したということを伝えるため深くうなずいた。
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