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第一章 (仮)
第八話 折檻
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体調はいくぶんよくなっていた。アルマとしゃべっていて気がまぎれたのだろう。アルマにはまた会いたいと思った。
至極形式的に祝いの言葉を述べていたシェイルのそばにエリッツがつくと、デルゴヴァ卿は目ざとく見つけてじろじろと眺めはじめる。ねばりつくような嫌な視線だった。また吐き気が戻ってくる。思わずさりげなさを装ってシェイルの背中に隠れてしまった。
「ところで、贈り物は気に入っていただけましたか」
問うデルゴヴァ卿にシェイルは「さぁ、なんでしたか」と宙を見た。
「招待状に同封したのですが、小さなものでしたので開封したときに落ちてしまいましたかな」
デルゴヴァ卿は別段気にした様子もなくやけに耳障りな笑い声をたてる。首周りにたまった脂肪が邪魔そうに震えていた。
例の封書には確かに何か硬いものが入っていた。コインかリングかといった丸い形状の何かだ。あれはなんだったのだろう。
シェイルの様子を見る限りある程度中身の予想がついていてあえて無視したいようなもののようだ。
「すまない。ちょっとこれと仕事の話をさせてもらってもいいだろうか。例のローズガーデンの算段がなかなかまとまらない。どこか部屋を貸してもらえないかな」
黙って様子を見ていたラヴォート殿下が手のひらでシェイルを指してデルゴヴァ卿に言う。飲みもしないワインのグラスを持つ手の指先のラインまでが計算されたような優雅さだ。あらためて近くで見ると輝くばかりの存在感に気後れする。
ローズガーデンといえば、国王陛下が働きのよい臣下や大きな軍功をあげた武人を見事な薔薇の庭園に招き入れてねぎらうという催しのはずだ。
エリッツにとっては遠すぎて想像も及ばない世界だが、その頃に合わせて様々な場所で薔薇祭りが開催され国中がお祭りムードに包まれるため、ローズガーデンと聞くとなんだか楽しい気分になる。
「ええ、かまいませんよ。お忙しいところ来てくださっただけでもありがたいことです。先ほどの控えの間を使ってください」
デルゴヴァ卿はにこやかにラヴォート殿下とシェイルを送り出す。エリッツも後に続こうとしたところ、突然踵を返した殿下に腕をつかまれる。耳元に顔を寄せ「来るな、クソガキ」と、確かにそう言った。
「殿下、品のない言葉を使わないでください」
耳ざとく聞きつけたシェイルがたしなめると、殿下は「お前が言うな」とささやき、舌打ちまでしたうえで、何事もなかったかのように部屋を出て行く。
シェイルはデルゴヴァ卿をちらりと見てから、飲み物を配っていた男を呼び止めた。
「うちの侍女を呼んでください。使用人たちの控えにいますから。この子のそばにいるように伝えてください」
そういうと、男に紙幣を握らせてからラヴォート殿下を追ってホールを出ていってしまった。
エリッツはまだ何が起こったのかよくわからずに固まっていた。あんなに立派で優雅な人が自分に「クソガキ」と吐き捨て立ち去った。暴言にもショックを受けたが、何より雰囲気と見た目とのギャップがすごい。つかまれた腕が今頃じんと痛んだ。
今見たものは何だったのだろう。
「きみの師匠は私がきみに何かすると思ったのかね」
デルゴヴァ卿は残されたエリッツを値踏みするように眺めまわしている。この視線をエリッツは今まで嫌というほど感じてきた。心臓が早鐘のように打ち、また吐き気がこみ上げる。
――「いい子だね」「よくできたね」
兄のためなら何でもできた。
でももう兄はそばにいない。兄に会いたい。
エリッツは無意識のうちにホールを走り出ていた。何人かに呼び止められ、制止されたような気もしたが、逃れたい一心でやみくもに走り続ける。気づいたら人気のない廊下にひとりたたずんでいた。
長い廊下に扉がどこまでも続いている。外からも大きな屋敷だとは思っていたが、これは迷ったら戻れないかもしれない。パーティの方に人手がさかれているのか使用人がいる気配もない。
そのまままっすぐに廊下を進んでみるが景色は変わらない。ふと鈴の音が聞こえて振り返ると猫がいた。首に愛らしいリボンと鈴をつけている茶色のトラ猫だ。デルゴヴァ卿の猫だろうか。それにしては素朴というか、かわいいがその辺にいるような普通の猫である。
猫はエリッツをじっと観察していたがすぐに飽きてしまったのか、鈴を鳴らしながらどこかへ消えてしまった。まさか猫に道を聞くことはできまい。
とにかく人間はいないだろうかとでたらめに歩き続けていると、細く開いた扉があるのを見つけた。
中から人の気配がしたので、エリッツはそっと隙間からのぞきこむ。品のない行為だとは思ったが、このまま歩き回っていても自力で戻れる気がしなかった。
だが、のぞいたことをすぐさま後悔してしまう。見てはならないものを見てしまった。
部屋にいたのはシェイルとラヴォート殿下だ。
殿下は右手でシェイルの細い顎をとらえ、左手で効き手を封じその唇を押し付けている。
完全に舌まで入れられていた。
エリッツは動けなくなる。もしやこれが噂の折檻というやつなのだろうか。
見てはならないと思いつつ見入ってしまう。なんというか、シェイルの表情がえらくつらそうで気になる。感情を読み取られまいとするかのようにそらした目元がほんのりと赤く色づいていた。端的にいうと色っぽかった。
この人、押しに弱すぎないか。家も明かさないエリッツのことを弟子として受け入れてしまうくらいだ。今日もエリッツの失敗によるこの事態をあっさりと引き受けてこんな目にあっている。
ようやく身を引き離したシェイルは封じられていた右手を素早く引いて「手違いがあって申し訳ありません」とさして申し訳なく思っていないような口調でそう言った。
「デルゴヴァに近づくなって伝わっているよな」
ラヴォート殿下の方はホールにいたときとは打って変わって乱暴な言葉づかいだ。心底怒っているというよりは半ば面白がっているような口調だ。態度が変わってもその圧倒的な存在感は変わらない。
シェイルはそれを無視するように明後日の方を向いている。
「この部屋で話したことは全部デルゴヴァ卿の耳に入ると思った方がよろしいですよ」
「言われなくてもわかっている。わざわざ少し扉を開けておいたのだからあの醜悪な肉塊の部下も仕事がはかどって俺に感謝してるだろうな」
のぞいていたエリッツは思わず少し身を引いて、ゆっくりと周りを見渡した。今のところは誰もいない。どこかの灯りが消えてしまったのか廊下は先ほどより暗くなっているように感じられた。
「ところでローズガーデンの件ですが、その後はどうですか」
「話したことは全部デルゴヴァ卿の耳に入ると言ったのはお前だろうが」
「では、仕事の話というのは何ですか」
シェイルの問いにラヴォート殿下は唇の端をあげただけで答えず、またシェイルの肩を強引につかんで抱き寄せる。シェイルの耳元で何かをささやくとそのまま耳朶を噛んだ。また、シェイルは耐えるような表情を見せ視線を落とす。
そういう表情をするから――そう思った刹那、エリッツはスッと肝が冷えるような気配を感じた。
背後に誰かいる。
「坊ちゃん、こちらで何をなさっているの」
鈴の音のような可憐な高音。
ゆっくりと振り返るとそこにはシンプルな青いドレスを着た女性が立っていた。パーティの参加者にしては地味だ。この国に多いとび色の瞳、後頭部に結い上げられたブルネット、右目の下には目立つ大きなほくろがあったが、それがなかったらすぐに忘れてしまいそうな地味な顔立ちだった。
「旦那様はお仕事中でしょう。邪魔しては駄目ですよ。あちらに戻りましょうね」
手を差し伸べる女性の仮面のように表情のない顔に恐怖感をおぼえ、エリッツはおもわず後ずさりする。そしてそのままバランスを崩して勢いよく部屋の中に踏み入ってしまった。
至極形式的に祝いの言葉を述べていたシェイルのそばにエリッツがつくと、デルゴヴァ卿は目ざとく見つけてじろじろと眺めはじめる。ねばりつくような嫌な視線だった。また吐き気が戻ってくる。思わずさりげなさを装ってシェイルの背中に隠れてしまった。
「ところで、贈り物は気に入っていただけましたか」
問うデルゴヴァ卿にシェイルは「さぁ、なんでしたか」と宙を見た。
「招待状に同封したのですが、小さなものでしたので開封したときに落ちてしまいましたかな」
デルゴヴァ卿は別段気にした様子もなくやけに耳障りな笑い声をたてる。首周りにたまった脂肪が邪魔そうに震えていた。
例の封書には確かに何か硬いものが入っていた。コインかリングかといった丸い形状の何かだ。あれはなんだったのだろう。
シェイルの様子を見る限りある程度中身の予想がついていてあえて無視したいようなもののようだ。
「すまない。ちょっとこれと仕事の話をさせてもらってもいいだろうか。例のローズガーデンの算段がなかなかまとまらない。どこか部屋を貸してもらえないかな」
黙って様子を見ていたラヴォート殿下が手のひらでシェイルを指してデルゴヴァ卿に言う。飲みもしないワインのグラスを持つ手の指先のラインまでが計算されたような優雅さだ。あらためて近くで見ると輝くばかりの存在感に気後れする。
ローズガーデンといえば、国王陛下が働きのよい臣下や大きな軍功をあげた武人を見事な薔薇の庭園に招き入れてねぎらうという催しのはずだ。
エリッツにとっては遠すぎて想像も及ばない世界だが、その頃に合わせて様々な場所で薔薇祭りが開催され国中がお祭りムードに包まれるため、ローズガーデンと聞くとなんだか楽しい気分になる。
「ええ、かまいませんよ。お忙しいところ来てくださっただけでもありがたいことです。先ほどの控えの間を使ってください」
デルゴヴァ卿はにこやかにラヴォート殿下とシェイルを送り出す。エリッツも後に続こうとしたところ、突然踵を返した殿下に腕をつかまれる。耳元に顔を寄せ「来るな、クソガキ」と、確かにそう言った。
「殿下、品のない言葉を使わないでください」
耳ざとく聞きつけたシェイルがたしなめると、殿下は「お前が言うな」とささやき、舌打ちまでしたうえで、何事もなかったかのように部屋を出て行く。
シェイルはデルゴヴァ卿をちらりと見てから、飲み物を配っていた男を呼び止めた。
「うちの侍女を呼んでください。使用人たちの控えにいますから。この子のそばにいるように伝えてください」
そういうと、男に紙幣を握らせてからラヴォート殿下を追ってホールを出ていってしまった。
エリッツはまだ何が起こったのかよくわからずに固まっていた。あんなに立派で優雅な人が自分に「クソガキ」と吐き捨て立ち去った。暴言にもショックを受けたが、何より雰囲気と見た目とのギャップがすごい。つかまれた腕が今頃じんと痛んだ。
今見たものは何だったのだろう。
「きみの師匠は私がきみに何かすると思ったのかね」
デルゴヴァ卿は残されたエリッツを値踏みするように眺めまわしている。この視線をエリッツは今まで嫌というほど感じてきた。心臓が早鐘のように打ち、また吐き気がこみ上げる。
――「いい子だね」「よくできたね」
兄のためなら何でもできた。
でももう兄はそばにいない。兄に会いたい。
エリッツは無意識のうちにホールを走り出ていた。何人かに呼び止められ、制止されたような気もしたが、逃れたい一心でやみくもに走り続ける。気づいたら人気のない廊下にひとりたたずんでいた。
長い廊下に扉がどこまでも続いている。外からも大きな屋敷だとは思っていたが、これは迷ったら戻れないかもしれない。パーティの方に人手がさかれているのか使用人がいる気配もない。
そのまままっすぐに廊下を進んでみるが景色は変わらない。ふと鈴の音が聞こえて振り返ると猫がいた。首に愛らしいリボンと鈴をつけている茶色のトラ猫だ。デルゴヴァ卿の猫だろうか。それにしては素朴というか、かわいいがその辺にいるような普通の猫である。
猫はエリッツをじっと観察していたがすぐに飽きてしまったのか、鈴を鳴らしながらどこかへ消えてしまった。まさか猫に道を聞くことはできまい。
とにかく人間はいないだろうかとでたらめに歩き続けていると、細く開いた扉があるのを見つけた。
中から人の気配がしたので、エリッツはそっと隙間からのぞきこむ。品のない行為だとは思ったが、このまま歩き回っていても自力で戻れる気がしなかった。
だが、のぞいたことをすぐさま後悔してしまう。見てはならないものを見てしまった。
部屋にいたのはシェイルとラヴォート殿下だ。
殿下は右手でシェイルの細い顎をとらえ、左手で効き手を封じその唇を押し付けている。
完全に舌まで入れられていた。
エリッツは動けなくなる。もしやこれが噂の折檻というやつなのだろうか。
見てはならないと思いつつ見入ってしまう。なんというか、シェイルの表情がえらくつらそうで気になる。感情を読み取られまいとするかのようにそらした目元がほんのりと赤く色づいていた。端的にいうと色っぽかった。
この人、押しに弱すぎないか。家も明かさないエリッツのことを弟子として受け入れてしまうくらいだ。今日もエリッツの失敗によるこの事態をあっさりと引き受けてこんな目にあっている。
ようやく身を引き離したシェイルは封じられていた右手を素早く引いて「手違いがあって申し訳ありません」とさして申し訳なく思っていないような口調でそう言った。
「デルゴヴァに近づくなって伝わっているよな」
ラヴォート殿下の方はホールにいたときとは打って変わって乱暴な言葉づかいだ。心底怒っているというよりは半ば面白がっているような口調だ。態度が変わってもその圧倒的な存在感は変わらない。
シェイルはそれを無視するように明後日の方を向いている。
「この部屋で話したことは全部デルゴヴァ卿の耳に入ると思った方がよろしいですよ」
「言われなくてもわかっている。わざわざ少し扉を開けておいたのだからあの醜悪な肉塊の部下も仕事がはかどって俺に感謝してるだろうな」
のぞいていたエリッツは思わず少し身を引いて、ゆっくりと周りを見渡した。今のところは誰もいない。どこかの灯りが消えてしまったのか廊下は先ほどより暗くなっているように感じられた。
「ところでローズガーデンの件ですが、その後はどうですか」
「話したことは全部デルゴヴァ卿の耳に入ると言ったのはお前だろうが」
「では、仕事の話というのは何ですか」
シェイルの問いにラヴォート殿下は唇の端をあげただけで答えず、またシェイルの肩を強引につかんで抱き寄せる。シェイルの耳元で何かをささやくとそのまま耳朶を噛んだ。また、シェイルは耐えるような表情を見せ視線を落とす。
そういう表情をするから――そう思った刹那、エリッツはスッと肝が冷えるような気配を感じた。
背後に誰かいる。
「坊ちゃん、こちらで何をなさっているの」
鈴の音のような可憐な高音。
ゆっくりと振り返るとそこにはシンプルな青いドレスを着た女性が立っていた。パーティの参加者にしては地味だ。この国に多いとび色の瞳、後頭部に結い上げられたブルネット、右目の下には目立つ大きなほくろがあったが、それがなかったらすぐに忘れてしまいそうな地味な顔立ちだった。
「旦那様はお仕事中でしょう。邪魔しては駄目ですよ。あちらに戻りましょうね」
手を差し伸べる女性の仮面のように表情のない顔に恐怖感をおぼえ、エリッツはおもわず後ずさりする。そしてそのままバランスを崩して勢いよく部屋の中に踏み入ってしまった。
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