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第五章 厄災の娘
第四十九話 厄災の娘(12)完
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ぐるるとオキがうなる。人の姿の時はかたくなに犬のようなふるまいを拒んでいたオキが、歯をむき出してうなっている。怒っているというより怯えているように見えた。レイヒは思わずその背中をなでる。
「――おい、放せよ」
信じられないことに、その状態でシハルは剣を握ったまま放さない。それどころか男の支えを振り払おうとすらしていた。
「腕を食われるぞ」
シハルの力ない抵抗を男はそっと押さえつける。オキほどではないけれど、精悍な顔つきがわりと好みかもしれない。
「ヴァルダ、やっと正体を現しましたね」
ヴァルダ? レイヒはさらに混乱した。横を見ると子供は膝をついた状態でその光景をぼんやりと見ている。その腕の中にヴァルダはいなかった。足元には犬の置物のようなものが落ちている。
「俺の正体がわかるのか?」
「わかりません。でも、でも――私を騙して禁呪を使わせたんですね」
シハルの体から力が抜け、ぐったりと男の胸に倒れ込んだ。すかさず男は剣をつかむ。
「騙してねぇよ。てめぇんとこの神様に殺されたから、しばらくの間いれものが必要だった。どこに嘘がある?」
そういえば鳥の化け物はと、辺りを見ると、なぜか真っぷたつになって打ち捨てられていた。断面が月あかりにてらてらと輝いてしばらくお肉が食べられそうにない。いやいや、いつの間に斬られたんだ?
「おい、犬。心臓返してやれ。いや、先に山を下りてからだ。ガキ、その土人形持ってこいよ」
男は勝手に仕切ると、気を失ってしまったらしいシハルを軽々と抱えて、山をおり始める。子供はやはり無表情のまま足元の置物と徳利を持って歩き出す。何となく不貞腐れているような動きだ。
「え? え?」
そしてまたもやレイヒは置き去りである。
「レイヒ、他の雛が来る前に行こう」
オキもハルミを支えながら歩き出す。
「待って。やだ。行かないよ。だって山を下りてから心臓を返すんでしょう。あいつ、死んじゃったからもう返さなくてもいいんじゃないの?」
レイヒは斬り捨てられている鳥の化け物を指す。
「あれも雛だ。それに約束は約束だろう」
レイヒは泣きそうになりながら、ぐったりしているハルミに詰め寄る。
「ハルミ、ねぇ、返さなくてもいいでしょ?」
ハルミは苦しそうな顔のままゆっくりと首を振った。
「こうなってしまったら、もう契約を白紙に戻してお引き取り願うしかありません。雛を殺し過ぎましたから、契約を継続する場合はさらにひどい条件を飲まされる可能性が高いです」
契約継続を主張し続けていたハルミまでそんなことを言う。レイヒは助けを求めて辺りを見渡した。
「これ、もらったらいいんじゃないの」
先に山を下りて行ったはずの子供が土くれのようなものを差し出して立っている。シハルが持っていた何かの化け物の心臓だ。
「怪物を生み出すつもりですか」
ハルミは苦悶の表情を浮かべ息も絶え絶えだ。いよいよ危ないかもしれない。
「鵺と犬が合体したらおもしろいと思ったんだけど。なんだ、できないのか」
子供は興味を失ったように踵をかえす。
「できます」
こいつは煽りの天才かと、レイヒは子供の背中を見つめた。――ということは、オキはまた別の心臓でレイヒのそばにいてくれるということでいいのだろうか。ばあちゃんの弟子であるハルミにばあちゃんと同じような呪術を使えるとしても不思議ではない。わずかに光明がさす。
「悪いけどそれは断らせてもらう」
オキは当たり前のようにそういった。
「どうして!」
レイヒは思わず叫んだ。
「どうしてって……」
オキは困惑したようにレイヒを見た。犬の姿だったら耳を平にして上目遣いでレイヒを見ていたことだろう。その姿がありありと思い浮かべられ、涙がでそうになる。
「俺は頭がいいから、人間がどういう考え方をするのか知っているつもりだし、犬にはわからないことをわかっているのも知ってる。でも人間の方も自分にわからないことを犬が知っていることを知らなきゃならない」
オキはレイヒの頭をそっとなでた。
「人間は鼻も耳もあまりよくない。世界は自分の感知できるところまでだと思っている節がある。でも本当はそうじゃない」
「天国とか地獄とか、死んだ後の世界とかそういうこと?」
オキは首をかたむける。
「なんか違う。人間の言葉にはそういうものがない。近い言葉なら『約束』かな。犬にとっては当たり前なんだけど。とにかく俺は山に心臓を返して、今度こそきちんと死ななきゃならない。それは約束なんだ」
レイヒは「やだ!」と叫んでオキにしがみつく。一度、人間の姿になって戻ってきたのにもう一度死ななきゃならないことに納得がいかない。
「レイヒ、カムリヒさんの書いたものをきちんと読むんだ。祭壇のある部屋に全部残っている。カムリヒさんは犬が何を知っているかも知ったうえで俺を利用した。約束と約束の間をすり抜けるように新しい約束を作った。すごく頭のいい人間だよ。きっとハルミさんにもできるんだろうが、さらにその間を抜けるような約束を作ることになる。たくさんの約束をすり抜けて俺は糸が絡まったみたいになっちまう。それはめぐりめぐってレイヒたち人間にも影響するんだ」
「何言ってのか全然わからないよ」
レイヒの声はすでに涙を帯びていた。
「レイヒは頭が悪いけど悪いことを認めている分、他の人間より断然頭がいい。たくさんの人間は自分がわかっていないことすらわかっていないから。カムリヒさんが知っていたことを全部理解するんだ。絶対にまた会える」
何を言っても無理そうだと思うともうレイヒには泣くことしかできない。
「レイヒ様…………」
自分の方が大変なことになっているのに、ハルミはレイヒの手を取っていたわるように握ってくれる。
その後のことはよくわからなかった。何しろ気づいたら山がなくなっていたのだから。
「山は空を飛んで行ったよ」
子供がこともな気に言うが、山が空を飛ぶ光景がまったく想像できない。
山を下り、祠のそばを通り過ぎたら後ろにいたハルミから「今、振り返ってはいけません」と、声をかけられた。全身から気力が抜け落ちていたレイヒは、人形のようにただそれに従った。
「もういいですよ」とハルミから声がかかったので、振り返ると山はなく、何もない平原が浩々と月あかりに照らされていた。祠の横でオキに支えられていたはずのハルミが膝をついている。どういうわけか刺さっていた羽根は消えていて、肩口からは血が流れ落ちていた。
「肉はもう朽ちていますね。墓を作り直しましょう」
茶色いものがいくつか散らばっている。オキの骨だ。
レイヒは跪いてそれを見る。不思議ともう涙は出なかった。
「ハルミ、オキのお墓作ったら一緒に逃げようよ。ばあちゃんの遺したもの、シハルみたいに箱に入れて担いでいこう。町の人が起き出したらガチ切れだよ、これは」
「――それもそうですね。身の危険を感じます。夜が明ける前に逃げましょう」
「だけど、手当しないとだね」
山が消えたことに関係があるのか知らないが、ハルミの怪我は先ほどよりマシになっているように見える。とはいえ血が出ているので手当は必要だろう。
「助けてあげようか?」
子供が声をかけてくる。
「ありがとう。でもやめとくよ」
レイヒは子供の頭をなでた。
「じゃあ、これをあげる」
子供は徳利をレイヒに差しだす。あの屋敷が消えてもこれは消えなかったのか。呪術を知らないレイヒにも何となく変な気がした。レイヒは困惑してハルミを見る。
「もらっておきましょう」
ハルミはほほえんで小さく頷いた。
「大丈夫?」
シハルが神様から何かしてもらうと面倒ごとが起こるみたいなことを言っていたので不安になる。
「あの山は人間が呼んだもの。あの屋敷も人間が呼んだ山が作ったもの、屋敷にあったこれも人間の因果でここにあるもの」
子供はわけのわからないことを言ってレイヒに徳利を押しつける。
「わっ、わっ! どういうこと?」
受け取った徳利は液体が満たされていた。ふっと酒の香がたちのぼる。
「お酒?」
レイヒは手のひらに少しだけ徳利を傾けてそれを舐めてみる。間違いなくお酒だ。しかもかなり上等なものではないだろうか。お酒の味はわからないが、それでもおいしいと思う。
しかも驚いたことに徳利からは減った分のお酒が底の方からわきあがってくる。
「おもしろいでしょう。シハルに見つかったら取られちゃうよ。さっさと逃げたらいい」
そういえばシハルとヴァルダはどうなったのだろう。大怪我を負っていたようだったが。
「じゃあね」
相変わらず何を考えているのかわからない表情で子供が手を振る。
「レイヒ様、今夜は忙しくなります。ぼんやりしないでください。人のことなど気にしている場合ではありません」
すでにハルミは声をひそめている。夜逃げする気満々だ。
「そうだね。急ごう。」
レイヒもあわせて声をひそめた。
「――おい、放せよ」
信じられないことに、その状態でシハルは剣を握ったまま放さない。それどころか男の支えを振り払おうとすらしていた。
「腕を食われるぞ」
シハルの力ない抵抗を男はそっと押さえつける。オキほどではないけれど、精悍な顔つきがわりと好みかもしれない。
「ヴァルダ、やっと正体を現しましたね」
ヴァルダ? レイヒはさらに混乱した。横を見ると子供は膝をついた状態でその光景をぼんやりと見ている。その腕の中にヴァルダはいなかった。足元には犬の置物のようなものが落ちている。
「俺の正体がわかるのか?」
「わかりません。でも、でも――私を騙して禁呪を使わせたんですね」
シハルの体から力が抜け、ぐったりと男の胸に倒れ込んだ。すかさず男は剣をつかむ。
「騙してねぇよ。てめぇんとこの神様に殺されたから、しばらくの間いれものが必要だった。どこに嘘がある?」
そういえば鳥の化け物はと、辺りを見ると、なぜか真っぷたつになって打ち捨てられていた。断面が月あかりにてらてらと輝いてしばらくお肉が食べられそうにない。いやいや、いつの間に斬られたんだ?
「おい、犬。心臓返してやれ。いや、先に山を下りてからだ。ガキ、その土人形持ってこいよ」
男は勝手に仕切ると、気を失ってしまったらしいシハルを軽々と抱えて、山をおり始める。子供はやはり無表情のまま足元の置物と徳利を持って歩き出す。何となく不貞腐れているような動きだ。
「え? え?」
そしてまたもやレイヒは置き去りである。
「レイヒ、他の雛が来る前に行こう」
オキもハルミを支えながら歩き出す。
「待って。やだ。行かないよ。だって山を下りてから心臓を返すんでしょう。あいつ、死んじゃったからもう返さなくてもいいんじゃないの?」
レイヒは斬り捨てられている鳥の化け物を指す。
「あれも雛だ。それに約束は約束だろう」
レイヒは泣きそうになりながら、ぐったりしているハルミに詰め寄る。
「ハルミ、ねぇ、返さなくてもいいでしょ?」
ハルミは苦しそうな顔のままゆっくりと首を振った。
「こうなってしまったら、もう契約を白紙に戻してお引き取り願うしかありません。雛を殺し過ぎましたから、契約を継続する場合はさらにひどい条件を飲まされる可能性が高いです」
契約継続を主張し続けていたハルミまでそんなことを言う。レイヒは助けを求めて辺りを見渡した。
「これ、もらったらいいんじゃないの」
先に山を下りて行ったはずの子供が土くれのようなものを差し出して立っている。シハルが持っていた何かの化け物の心臓だ。
「怪物を生み出すつもりですか」
ハルミは苦悶の表情を浮かべ息も絶え絶えだ。いよいよ危ないかもしれない。
「鵺と犬が合体したらおもしろいと思ったんだけど。なんだ、できないのか」
子供は興味を失ったように踵をかえす。
「できます」
こいつは煽りの天才かと、レイヒは子供の背中を見つめた。――ということは、オキはまた別の心臓でレイヒのそばにいてくれるということでいいのだろうか。ばあちゃんの弟子であるハルミにばあちゃんと同じような呪術を使えるとしても不思議ではない。わずかに光明がさす。
「悪いけどそれは断らせてもらう」
オキは当たり前のようにそういった。
「どうして!」
レイヒは思わず叫んだ。
「どうしてって……」
オキは困惑したようにレイヒを見た。犬の姿だったら耳を平にして上目遣いでレイヒを見ていたことだろう。その姿がありありと思い浮かべられ、涙がでそうになる。
「俺は頭がいいから、人間がどういう考え方をするのか知っているつもりだし、犬にはわからないことをわかっているのも知ってる。でも人間の方も自分にわからないことを犬が知っていることを知らなきゃならない」
オキはレイヒの頭をそっとなでた。
「人間は鼻も耳もあまりよくない。世界は自分の感知できるところまでだと思っている節がある。でも本当はそうじゃない」
「天国とか地獄とか、死んだ後の世界とかそういうこと?」
オキは首をかたむける。
「なんか違う。人間の言葉にはそういうものがない。近い言葉なら『約束』かな。犬にとっては当たり前なんだけど。とにかく俺は山に心臓を返して、今度こそきちんと死ななきゃならない。それは約束なんだ」
レイヒは「やだ!」と叫んでオキにしがみつく。一度、人間の姿になって戻ってきたのにもう一度死ななきゃならないことに納得がいかない。
「レイヒ、カムリヒさんの書いたものをきちんと読むんだ。祭壇のある部屋に全部残っている。カムリヒさんは犬が何を知っているかも知ったうえで俺を利用した。約束と約束の間をすり抜けるように新しい約束を作った。すごく頭のいい人間だよ。きっとハルミさんにもできるんだろうが、さらにその間を抜けるような約束を作ることになる。たくさんの約束をすり抜けて俺は糸が絡まったみたいになっちまう。それはめぐりめぐってレイヒたち人間にも影響するんだ」
「何言ってのか全然わからないよ」
レイヒの声はすでに涙を帯びていた。
「レイヒは頭が悪いけど悪いことを認めている分、他の人間より断然頭がいい。たくさんの人間は自分がわかっていないことすらわかっていないから。カムリヒさんが知っていたことを全部理解するんだ。絶対にまた会える」
何を言っても無理そうだと思うともうレイヒには泣くことしかできない。
「レイヒ様…………」
自分の方が大変なことになっているのに、ハルミはレイヒの手を取っていたわるように握ってくれる。
その後のことはよくわからなかった。何しろ気づいたら山がなくなっていたのだから。
「山は空を飛んで行ったよ」
子供がこともな気に言うが、山が空を飛ぶ光景がまったく想像できない。
山を下り、祠のそばを通り過ぎたら後ろにいたハルミから「今、振り返ってはいけません」と、声をかけられた。全身から気力が抜け落ちていたレイヒは、人形のようにただそれに従った。
「もういいですよ」とハルミから声がかかったので、振り返ると山はなく、何もない平原が浩々と月あかりに照らされていた。祠の横でオキに支えられていたはずのハルミが膝をついている。どういうわけか刺さっていた羽根は消えていて、肩口からは血が流れ落ちていた。
「肉はもう朽ちていますね。墓を作り直しましょう」
茶色いものがいくつか散らばっている。オキの骨だ。
レイヒは跪いてそれを見る。不思議ともう涙は出なかった。
「ハルミ、オキのお墓作ったら一緒に逃げようよ。ばあちゃんの遺したもの、シハルみたいに箱に入れて担いでいこう。町の人が起き出したらガチ切れだよ、これは」
「――それもそうですね。身の危険を感じます。夜が明ける前に逃げましょう」
「だけど、手当しないとだね」
山が消えたことに関係があるのか知らないが、ハルミの怪我は先ほどよりマシになっているように見える。とはいえ血が出ているので手当は必要だろう。
「助けてあげようか?」
子供が声をかけてくる。
「ありがとう。でもやめとくよ」
レイヒは子供の頭をなでた。
「じゃあ、これをあげる」
子供は徳利をレイヒに差しだす。あの屋敷が消えてもこれは消えなかったのか。呪術を知らないレイヒにも何となく変な気がした。レイヒは困惑してハルミを見る。
「もらっておきましょう」
ハルミはほほえんで小さく頷いた。
「大丈夫?」
シハルが神様から何かしてもらうと面倒ごとが起こるみたいなことを言っていたので不安になる。
「あの山は人間が呼んだもの。あの屋敷も人間が呼んだ山が作ったもの、屋敷にあったこれも人間の因果でここにあるもの」
子供はわけのわからないことを言ってレイヒに徳利を押しつける。
「わっ、わっ! どういうこと?」
受け取った徳利は液体が満たされていた。ふっと酒の香がたちのぼる。
「お酒?」
レイヒは手のひらに少しだけ徳利を傾けてそれを舐めてみる。間違いなくお酒だ。しかもかなり上等なものではないだろうか。お酒の味はわからないが、それでもおいしいと思う。
しかも驚いたことに徳利からは減った分のお酒が底の方からわきあがってくる。
「おもしろいでしょう。シハルに見つかったら取られちゃうよ。さっさと逃げたらいい」
そういえばシハルとヴァルダはどうなったのだろう。大怪我を負っていたようだったが。
「じゃあね」
相変わらず何を考えているのかわからない表情で子供が手を振る。
「レイヒ様、今夜は忙しくなります。ぼんやりしないでください。人のことなど気にしている場合ではありません」
すでにハルミは声をひそめている。夜逃げする気満々だ。
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