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第三章 ゆたかな村
ゆたかな村(2)
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逆にシハルは「あの人に道をたずねることができますね」と、安心したように足を早めた。本当に大荷物なのに身が軽い。
トレッティは「ああ、うん、そうだな」と、曖昧に頷きながら先をゆくシハルを追わざるをえない。
だが峠にたどり着いてみて驚いた。
「子供……?」
八歳くらいだろうか。伸ばしっぱなしにしたようなぼさぼさの髪をした男の子が木の実で作った三つの独楽を使って遊んでいる。道の真ん中には木の棒か何かで引いたのであろう丸い線が引かれており、その中で独楽を回すというルールで遊んでいるようだ。
「ぼく、お父さんかお母さんは?」
トレッティは状況を忘れ、走り寄って声をかけた。こんな場所に一人で置いておくなんて、一体どういう親だろう。野生動物などもいるだろうし、こうやって人も通るのだから危険極まりない。
「迎えを待っている」
男の子は顔をあげずに答える。トレッティはぐっと息が詰まるような感覚に見舞われる。
「誰がここで待っているように言ったの? その人は今どこ?」
切羽詰まったように畳みかけるトレッティの言葉に男の子はようやく顔を上げた。土で汚れた顔で着ているものもずいぶんくたびれている。色あせた一枚の布に腕を通すための穴をあけたものを体に巻きつけ紐でしばっていた。どう見てもきちんとした服ではない。夜になったら冷えるだろう。
本当にこの先の村は豊かなのだろうか。
「知らん。ここにいれば迎えが来る」
トレッティは唇を噛みしめる。
(トレッティ、ここで待っていなさい。動いてはダメよ。迎えに来たとき、わからなくなってしまうでしょう)
母の声がトレッティの頭にやさしく響いた。本当にやさしい声だった。だからずっと大切に心にしまって、愚直に信じ続けることができたのだ。大人が子供を騙すのは実に簡単なことである。
「一緒に行こう」
トレッティは木の実の独楽をもてあそんでいる小さな手を握った。独楽がぽろぽろと地面に転がる。村に行ってこの子の親を怒鳴りつけてやらないことには気がすまない。
「トレッティさん」
すっかり存在を忘れていたシハルが道の脇にある石に腰かけていた。犬は足元におろしている。
「少し休憩してから行きましょう」
「何をのんきなこと言ってんだよ。この子……」
捨て子だろうといってしまいそうになりあわてて口をつぐむ。
しばし気まずい空気が流れた。
「いい。わかっている。迎えは来ない」
男の子がトレッティの指を握って引っ張った。
「そんな……」
トレッティは言葉を失った。
これまで捨てられた子を何人も見てきた。子供は大人が思っているよりもずっとよく周りを見ているものだ。この子は何を見せられてこんなあきらめきったことが言えるようになったのだろう。
計画は中止してもいい。
いや、この子のためにも続行した方がいいだろうか。今夜はあたたかく過ごせる場所を確保して、それから考えよう。
知らず足元の砂を蹴りながら思案していると、男の子が犬に話しかけていた。
「おまえ、名前はなんだ?」
「ヴァルダといいます」
犬の代わりにシハルが応える。
「お前には聞いていない」
男の子は怒ったようにシハルを軽く睨んだ。
「それは失礼いたしました」
シハルはほほ笑みながら「お返事してください」と、犬の脇をつつくが犬は相変わらず鳴きもせずに動かない。一声ワンとでもいえばかわいげがあるのに、性格まで不細工な犬である。多くの子供は動物が好きだ。こんな犬でも相手になれば気がまぎれるはずだろう。
トレッティも子供たちの遊び相手にと犬を飼っていたことがある。飼っていたといっても他所で食べ物をとってくるような飼い犬とも野生ともいえない犬だった。そしていつの間にか姿を消した。
人懐っこい犬だったが餌もくれないような人間に愛想をつかしたのだろう。自分で餌をとれる犬ならばそうなのだ。面倒を見てくれないとわかれば気ままにいなくなったりもする。だが自分の居場所や食べ物を確保できない人間の子供はどうなのか。姿を消したくとも消せない。大人を頼るしかないのだ。
「その犬、噛んだりしない?」
男の子が手を出しそうなのでトレッティは不安になる。
シハルが真顔で首をかしげたので、トレッティはあわてて男の子を犬から引きはがす。
「トレッティさんはやさしいんですね」
シハルは荷物を背負い、犬を抱きあげる。出発するつもりらしい。
「やさしいとか、そういうんじゃない」
謙遜ではなく本当にやさしいわけではない。むしろ多くの人間がトレッティのことを悪人だ、許せないと指をさして罵倒してきたはずだった。
トレッティは「行こう」と言って、地面に書かれた丸をつま先で消している男の子の手を握った。
「村へ行くのか」
男の子はなぜかシハルの方を見上げる。
「どちらでもかまいません」
男の子は迷ったようにまた地面をつま先でこする。ぼろぼろの草履がそのまま土に返ってしまいそうだ。万が一トレッティがこの子を連れ帰るような事態になったら、まずは丈夫な靴を作ってあげないといけない。
「行くに決まってるでしょ。子供をこんなところに置いていく親に文句を言ってやらないと」
シハルは少し考えるような仕草をすると、「なるほど」とうなずいた。何がなるほどなのかわからないが、シハルの言葉を聞いた男の子も「なるほど」とつぶやいた。年長者の真似をしたい歳頃なのだろう。
「では、どうぞ」
何を考えているのかシハルは背中の汚い箱を男の子に見せるように後ろを向いて膝をついた。男の子は特にためらうことなくその箱の上にのぼる。
「子供の足じゃこの道は確かにしんどいと思うけど、それ、落ちたら危なくない?」
長身のシハルの背負う大きな箱のさらに上である。落下したら最悪大怪我をしてしまうだろう。
「落ちない」
男の子の方がむきになったようにトレッティに言い返す。言い方はきついが、高いところにのぼって気分がいいのか始終笑顔である。先ほどまでほとんど表情がなかったので、トレッティも黙るしかない。
仕方なくシハルの後ろにまわって男の子の様子を見ながら進むことにした。大荷物のうえに子供までのせて運ぶなんてかなりの健脚ぶりである。さすがに犬は自分で歩かせることにしたようだが。
もともとそんなに大きな山ではない。峠道もゆるやかだが、くだりはくだりである。大荷物のシハルが転げ落ちないか、トレッティはそればかり気になって、気づいたらふもとまで着いていた。
しかしそこに来てシハルが道の真ん中で急に立ちどまる。
「ちょっと何やってんだ。危ないだろ」
文句を言っても前に進む気配がない。見あげると男の子も首をひねって前方をぼんやりと見ていた。
「どうかしたの?」
まさかまた入口に戻されているのではないだろうか。トレッティはぞっとしてシハルを押しのけるようにして前方を見た。
「なに……これ?」
そこに村らしきものは見当たらなかった。木々などにより視界が阻まれているのではない。むしろ山に囲まれた窪地のような土地はどこまでも見通しがいい。
奥の山からは一筋の川が流れこみ、ゆるやかに蛇行しながら土地の真ん中の方へ引き込まれていた。いや、それ以前に土地の大部分を占める丸く湖面のようなものは何だろうか。文字通り湖なのか、水田なのか。ゆらぐことなく空を映しているのは不思議な光景だった。
「――いってみましょう」
シハルは気を取り直したようにそう言うとそのつるりとした湖面のようなものに向かって歩きはじめる。何だか気味が悪いが、あれの正体は気になる。
トレッティもシハルを追って峠道をあとにした。
トレッティは「ああ、うん、そうだな」と、曖昧に頷きながら先をゆくシハルを追わざるをえない。
だが峠にたどり着いてみて驚いた。
「子供……?」
八歳くらいだろうか。伸ばしっぱなしにしたようなぼさぼさの髪をした男の子が木の実で作った三つの独楽を使って遊んでいる。道の真ん中には木の棒か何かで引いたのであろう丸い線が引かれており、その中で独楽を回すというルールで遊んでいるようだ。
「ぼく、お父さんかお母さんは?」
トレッティは状況を忘れ、走り寄って声をかけた。こんな場所に一人で置いておくなんて、一体どういう親だろう。野生動物などもいるだろうし、こうやって人も通るのだから危険極まりない。
「迎えを待っている」
男の子は顔をあげずに答える。トレッティはぐっと息が詰まるような感覚に見舞われる。
「誰がここで待っているように言ったの? その人は今どこ?」
切羽詰まったように畳みかけるトレッティの言葉に男の子はようやく顔を上げた。土で汚れた顔で着ているものもずいぶんくたびれている。色あせた一枚の布に腕を通すための穴をあけたものを体に巻きつけ紐でしばっていた。どう見てもきちんとした服ではない。夜になったら冷えるだろう。
本当にこの先の村は豊かなのだろうか。
「知らん。ここにいれば迎えが来る」
トレッティは唇を噛みしめる。
(トレッティ、ここで待っていなさい。動いてはダメよ。迎えに来たとき、わからなくなってしまうでしょう)
母の声がトレッティの頭にやさしく響いた。本当にやさしい声だった。だからずっと大切に心にしまって、愚直に信じ続けることができたのだ。大人が子供を騙すのは実に簡単なことである。
「一緒に行こう」
トレッティは木の実の独楽をもてあそんでいる小さな手を握った。独楽がぽろぽろと地面に転がる。村に行ってこの子の親を怒鳴りつけてやらないことには気がすまない。
「トレッティさん」
すっかり存在を忘れていたシハルが道の脇にある石に腰かけていた。犬は足元におろしている。
「少し休憩してから行きましょう」
「何をのんきなこと言ってんだよ。この子……」
捨て子だろうといってしまいそうになりあわてて口をつぐむ。
しばし気まずい空気が流れた。
「いい。わかっている。迎えは来ない」
男の子がトレッティの指を握って引っ張った。
「そんな……」
トレッティは言葉を失った。
これまで捨てられた子を何人も見てきた。子供は大人が思っているよりもずっとよく周りを見ているものだ。この子は何を見せられてこんなあきらめきったことが言えるようになったのだろう。
計画は中止してもいい。
いや、この子のためにも続行した方がいいだろうか。今夜はあたたかく過ごせる場所を確保して、それから考えよう。
知らず足元の砂を蹴りながら思案していると、男の子が犬に話しかけていた。
「おまえ、名前はなんだ?」
「ヴァルダといいます」
犬の代わりにシハルが応える。
「お前には聞いていない」
男の子は怒ったようにシハルを軽く睨んだ。
「それは失礼いたしました」
シハルはほほ笑みながら「お返事してください」と、犬の脇をつつくが犬は相変わらず鳴きもせずに動かない。一声ワンとでもいえばかわいげがあるのに、性格まで不細工な犬である。多くの子供は動物が好きだ。こんな犬でも相手になれば気がまぎれるはずだろう。
トレッティも子供たちの遊び相手にと犬を飼っていたことがある。飼っていたといっても他所で食べ物をとってくるような飼い犬とも野生ともいえない犬だった。そしていつの間にか姿を消した。
人懐っこい犬だったが餌もくれないような人間に愛想をつかしたのだろう。自分で餌をとれる犬ならばそうなのだ。面倒を見てくれないとわかれば気ままにいなくなったりもする。だが自分の居場所や食べ物を確保できない人間の子供はどうなのか。姿を消したくとも消せない。大人を頼るしかないのだ。
「その犬、噛んだりしない?」
男の子が手を出しそうなのでトレッティは不安になる。
シハルが真顔で首をかしげたので、トレッティはあわてて男の子を犬から引きはがす。
「トレッティさんはやさしいんですね」
シハルは荷物を背負い、犬を抱きあげる。出発するつもりらしい。
「やさしいとか、そういうんじゃない」
謙遜ではなく本当にやさしいわけではない。むしろ多くの人間がトレッティのことを悪人だ、許せないと指をさして罵倒してきたはずだった。
トレッティは「行こう」と言って、地面に書かれた丸をつま先で消している男の子の手を握った。
「村へ行くのか」
男の子はなぜかシハルの方を見上げる。
「どちらでもかまいません」
男の子は迷ったようにまた地面をつま先でこする。ぼろぼろの草履がそのまま土に返ってしまいそうだ。万が一トレッティがこの子を連れ帰るような事態になったら、まずは丈夫な靴を作ってあげないといけない。
「行くに決まってるでしょ。子供をこんなところに置いていく親に文句を言ってやらないと」
シハルは少し考えるような仕草をすると、「なるほど」とうなずいた。何がなるほどなのかわからないが、シハルの言葉を聞いた男の子も「なるほど」とつぶやいた。年長者の真似をしたい歳頃なのだろう。
「では、どうぞ」
何を考えているのかシハルは背中の汚い箱を男の子に見せるように後ろを向いて膝をついた。男の子は特にためらうことなくその箱の上にのぼる。
「子供の足じゃこの道は確かにしんどいと思うけど、それ、落ちたら危なくない?」
長身のシハルの背負う大きな箱のさらに上である。落下したら最悪大怪我をしてしまうだろう。
「落ちない」
男の子の方がむきになったようにトレッティに言い返す。言い方はきついが、高いところにのぼって気分がいいのか始終笑顔である。先ほどまでほとんど表情がなかったので、トレッティも黙るしかない。
仕方なくシハルの後ろにまわって男の子の様子を見ながら進むことにした。大荷物のうえに子供までのせて運ぶなんてかなりの健脚ぶりである。さすがに犬は自分で歩かせることにしたようだが。
もともとそんなに大きな山ではない。峠道もゆるやかだが、くだりはくだりである。大荷物のシハルが転げ落ちないか、トレッティはそればかり気になって、気づいたらふもとまで着いていた。
しかしそこに来てシハルが道の真ん中で急に立ちどまる。
「ちょっと何やってんだ。危ないだろ」
文句を言っても前に進む気配がない。見あげると男の子も首をひねって前方をぼんやりと見ていた。
「どうかしたの?」
まさかまた入口に戻されているのではないだろうか。トレッティはぞっとしてシハルを押しのけるようにして前方を見た。
「なに……これ?」
そこに村らしきものは見当たらなかった。木々などにより視界が阻まれているのではない。むしろ山に囲まれた窪地のような土地はどこまでも見通しがいい。
奥の山からは一筋の川が流れこみ、ゆるやかに蛇行しながら土地の真ん中の方へ引き込まれていた。いや、それ以前に土地の大部分を占める丸く湖面のようなものは何だろうか。文字通り湖なのか、水田なのか。ゆらぐことなく空を映しているのは不思議な光景だった。
「――いってみましょう」
シハルは気を取り直したようにそう言うとそのつるりとした湖面のようなものに向かって歩きはじめる。何だか気味が悪いが、あれの正体は気になる。
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