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第一章 夜鳴き箱

夜鳴き箱(7)

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 ウイルドは大慌てで立ち上がろうともがくが荷物が多すぎる。まるでひっくり返った亀のように暴れているうちに何かの破片が背後からウイルドを打ちすえた。
「痛い」
 そして熱い。尋常ではない熱だ。ちらりと振り返ると店全体が火柱のように燃え盛り、様々な残骸が飛んでくる。ただ火をつけただけではあのように燃えるわけがない。やはり店の中ではただならぬことが起こっているらしい。しばし唖然と見ていたが、いよいよ身の危険を感じるまでになり、またもがく。このままでは焼け死んでしまう。
 ふと転んだ衝撃で散らばってしまった母の帳面が目に入る。これを持たずに薬の手配に出向くなど考えられない。庭に無数に埋まる薬箱、そして屍人たち……。視界がじわじわとにじんでゆく。
 このままここで死んでしまってもいいのかもしれない。生き残ってしまっても、多くの人を殺めて来たチンピラどもの片棒を担いできたウイルドを許してくれる人はいないだろう。
 もはやもがくことすらやめてしまったウイルドの隣に誰かが立つ気配がする。首を伸ばすとそれはヴァルダであった。
 蹴られる。もしくは荷を盗まれる。
 ウイルドはうつぶせのまま母の帳面をかき集めて抱きかかえた。他の荷は金になるし持って行けばいい。
「これは食べ物ですか」
 ところがヴァルダだと思った人物はウイルドが持ち出した芋が入った薬かごや、比較的安価な薬種を詰めた麻袋の方に関心を寄せている。
「お腹がすきました……」
「シハルさんっ」
 なぜだろう。昨日会ったばかりで、ついさっき悪霊にとり憑かれた人なのにすでに懐かしい。死ぬ前にこの人に何か食べさせてあげなければならないという気がしてきた。保身ばかりで何もしないウイルドを見返りなど期待せず助けようとしてくれた。
 少なくとも母だったら何らかの形で礼をするだろう。
 旅先で出会った人は親切な人が多かった。それはひとえに母がきちんと礼を尽くして接してきたからだ。行商という仕事は同じ村や町を何度もめぐって売り歩く。次に訪れたときにまた薬を買ってくれるかどうかは前回訪問したときの印象と薬の質しだいだ。ウイルドが覚えている限り、母はどの村や町でも歓迎されていたし、頼られていた。幼いウイルドにちょっとしたお菓子やおもちゃをくれる人もいたし、年々成長してゆくウイルドを我が子のように寿いでくれる人もいた。
 ウイルドはまた涙ぐみそうになる。
 本当に母からずっと遠ざかってしまっていたのだ。
「これはどうやって食べるんですか」
 シハルはかごの中の芋に目をつけてじっと見ている。
「その芋は水でもどして粥のようにします。空腹のせいだとは思いますが、シハルさんは少し顔色が悪いです。チュウサエの実、黒砂糖、生姜、スパイスを加えて滋養強壮と保温、この麻袋にミテルキの花とツンプという薬種がありますから、それも加えて体の流れを整えます。もとはお茶や料理にも使うものが原材料ですから薬種といっても心配ありません。甘くてスパイスの効いた粥になります」
 シハルはしばらくじっとウイルドを見ていたが、やがて「それはおいしそうです」とほころぶようにほほ笑んだ。ウイルドははっと目を見張る。なぜこの人を男性だと思い込んだのだろうか。
「あの、じゃあ、ちょっとこれを持ってくれませんか」
「はい、持ちます」
 シハルは嬉々として薬かごと麻袋を持つ。背中には薬箱とヴァルダの太刀、その他の荷物を担いだままだが、動きは軽やかだ。ヴァルダの怪力はやはりシハルのもともとの能力だったのかもしれない。
「――それから、ちょっと起こしてくれませんか」
 背後でさらに火が強まっている気配がする。夜間で街道から少しそれているので、おそらく誰も気づかないだろう。店主たちがどうなったのか、深く考えたくはないがあの炎で無事なわけがない。
 店がなくなってしまうのか。

「生きている人も屍人もさしてかわりはありません。生きている人と同様、あの庭にいた方々が各々何を思ってあのような状態になっていたのか、推測することはできても真実はわかりません」
 薄く朝日の気配をはらんだ闇の中、シハルはまだしっかりと匙を持ったままである。
 ずっと食べている。
 できあがった芋の粥を静かに食べはじめたときはしつこく空腹だと主張する割にあまりがっつかないのだなと少しばかり残念な気すらしたが、その静かなペースのままずっと食べ続けている。鍋が空になりそうだったので慌てて芋を水につけて次の準備をしたが間に合わなかった。ウイルドは余った粥をもらうつもりだったのでまだ一口も食べていない。
「あれが何だったのか推測でいいので教えてください」
「あれは……」
 シハルがチラッと鍋を見る。椀が空になっているようだ。芋なら大量にある。
「今、おかわりをつくりますね」
 ウイルドは手を動かしながら耳を傾ける。焚き火の音を聞くのも調理をするのも久しぶりだ。母を手伝ってときには一人で火を起こしたり食事を作ったりしていたので体がちゃんと手順を覚えている。
「お店の方々は薬屋に転職したようですが、副業として追い剥ぎ業も続けていたようですね」
 やはりシハルから見てもあいつらは追い剥ぎなのだ。
「おそらくですが、はじめは薬の行商人を襲ったことから始まったんでしょう。その荷の薬を売ったら思いのほか儲かってしまった。味を占めた追い剥ぎの方々は街道を行く薬の行商人を狙うようになったのではありませんか。しかも行商人は自分の棺を担いでやってくる」
 ウイルドの手が止まる。自分の棺を背負って……? 庭一面に埋まった大量の行商用の薬箱の中に襲われた行商人たちが入っていたのか。
 ふとウイルドは自分が背負ってきた薬箱を見た。
「――それはそういう使われ方はされてないんじゃないですか。遺体を入れれば木が体液で腐るでしょう。何ともないですよ」
 ウイルドの視線の意味を察したのかシハルは匙を持ったままウイルドの横の薬箱を指す。
 これは偶然なのか、それともわかっていてやったのか。先ほどは混乱で何も考えられなかったが、ヴァルダが投げよこした薬箱は埋められて日が浅いようでほとんど傷んでいない。だがやはりあの店主たちに殺された行商人の持ち物には違いないだろう。あまり持っていたくはない。
「あの……母はどうなったんでしょう」
 母の帳面を見つけたときからそのことを何度も考えている。ヴァルダの言を信じるならば、庭の屍人の中にはウイルドのことを助けようとしていた者がいたという。
 鍋に食材を入れかきて混ぜながら、ウイルドは考えが嫌な方向へ行くのを止められない。
「薬箱はありましたか?」
「え?」
「あなたのお母さんの薬箱は庭にあったんですか?」
 そういえば――。
 ウイルドははっとして庭の光景を思い出す。母の薬箱があればすぐにわかったはずだ。
「――なかった、と思います」
 シハルはゆっくりと首をかしげる。ウイルドが即答できることが不思議なのだろう。
「母の薬箱の上部には手すりがついていたんです。もっとずっと幼いころ、母は僕を薬箱の上にのせて運んでくれました。落ちないように棒が二本、手すり代わりに取り付けてあって――ずっとそのままにしてあったんです」
 シハルがゆっくりとうなずく。
 あの日の記憶かもしくは夢なのか曖昧だが母の背が遠ざかっていくイメージがふっと浮かんだ。薬箱に取り付けた棒が歩調に合わせてさっさっと上下する。華奢な体は薬箱に隠れてしまったほとんど見えないが、着ていた服の裾の感じや、時々薬箱を揺すりあげる様子が間違いなく母であった。
「それであれば、あそこにいたのかどうかわかりませんね」
 確かにそうだ。母の薬箱があそこにあればあの庭の屍人の中にいた可能性はぐっと高まる。しかし逆に薬箱がなかったからといって母も無事だという証拠にはならない。
 しばしウイルドもシハルも黙ったままであった。粥の炊けるよい香りが漂っている。
「……母を探しに行こうかと思います」
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