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第四章 あなたと友達になれない

前兆

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「ここのお店、どこも植物が多くて素敵ですね。さっき……」

 小春が話しかけると、戸塚は弾かれたように顔を上げた。後ろから話しかけたから驚いたのだろう。

 けれど小春は、すぐに手洗いに行くまでに通った道のことを共有したくなったのだ。

 しかし、顔を強ばらせているように見える戸塚を見て小春は続きを話すのをやめる。すこし馴れ馴れしかったかもしれない。

「もう帰ってきたの?」
「手だけ洗って来ました。パンを触った手がお手拭きで拭ってもベタベタしたのが取れなかったんです」
「そうだったんだ」

 小春は席に座り、コーヒーカップを持つ。そっと顔を近づけると、ナッツやキャラメルのような香ばしい匂いがした。そのまま一口飲んで、小春はほっと息をつく。

「コーヒー、美味しいですね」
「……ええ」

 明音はコーヒーカップを持った頷いた。歯切れの悪い反応に、小春はどうしたのだろうと彼女を見つめる。

 すると、明音はゆっくりとカップを持ち上げて口に運んだ。

「……っ」

 明音の喉がコクリと動く。

 そして強ばっていた表情を解き、薔薇のように赤い唇がゆるりと笑みを描いた。

「……美味しいね」

 小春はほっとして、明音から視線を外してコーヒーを見る。

 ところで、呼び出された理由は何だったのだろうか。今、聞くべきか小春は迷った。

 けれど二度も同じ質問を繰り返すのも、しつこい気がして黙っておく。そのうち、明音から話すだろう。心の準備が必要な話題なのかもしれない。

 再び明音を見ると、彼女は心の底からコーヒーを楽しんでいるようだった。体はすこし揺れ、目がぱっちりと開いてコーヒーばかりを見つめている。

 あれ、と小春は思った。落ち着きがないように見えるのだ。

「……大丈夫ですか?」
「えっ……大丈夫だけど。ああ、そうだ。話したいことがあったんだ。これを飲んだ後でもいい? できればあまり人がいないところがいいの。私が知っている喫茶店があって、そこなら人がほとんどいないからゆっくり話せると思うの」

 一度も喋ったことのない人と、落ち着ける場所まで言って話すこととは何だろう。

 もしくは喋ったことがない人だからこそ、言えるようなことなのかもしれない。カフェで話しただけでも、明音には悩みが多そうだ。他の女性みたいに、柊のことであれこれ聞かれるのかと思ったが、そうでもなさそうだ。

 二人はコーヒーを飲み干すと、カフェを出た。

「喫茶店ってどこですか」
「電車に乗って二つ目の駅から歩いたところ」
「……電車」
「どうしたの、古川さん」

 小春は電車に乗って移動することを想定していなかった。正直に電車には乗れないと話すべきだろうか。しかし、二つ目の駅なのだから長時間乗るわけでもない。

 すこし我慢するだけだ、と小春は言い聞かせる。案外、乗ってみたら平気になっているかもしれないから。

「何でもないです。行きましょうか」

 駅の中に入ると、小春は電車の動く音に耳を塞ぎたくなった。

 思わず立ち止まりそうになると、明音は小春がどこに行けばいいのか迷っているように見えたのだろう。「こっち」と小春の腕をつかんでずんずんと前へ進んでいく。ちょうど停車した電車に乗り込み、ほどなくして電車が動き始めた。

 小春のひたいに汗が浮き出る。心臓は疲れて動かなくなってしまわないか心配になるほど、鼓動が速かった。

 ――何だろう、これ。

 ガタン、ガタン、と電車が揺れる。その音を聞くだけで小春は体がちゃんとあるのか気になって、腕で自分の体を抱きしめる。そうしないと肉体がちぎれてしまうようで、ゾワゾワするのだ。揺れる時に浮遊感があるからだろうか。

 今まではこれほど、気持ち悪いと感じなかった。

 全身に鳥肌が立っている。

 体だけが何かに怯え、警告をしているかのようだった。帰りたい。帰って、顔を洗ってパジャマに着替えて布団の中に入ってしまいたかった。悪夢を見ているようで、気が遠くなる。

「降りようか。あれ、気分が悪いの?」
「あ……ちょっとだけ」
「喫茶店に行ったらすこし休めるから、もうちょっとだけ歩ける?」
「……はい」

 ようやく電車から離れ、小春は安堵する。

 けれど一度悪くなった気分がすぐに戻ることはない。

 小春は明音に腕を掴まれ、足を動かす。この方がはぐれなくてすむので助かっていた。……けれど明音は時々、手の力が強くなる。小春がたまに、よたよたと歩いてしまうせいだろうか。明音の体がぐらつくこともあった。

 駅を出て、明音はずんずんと突き進む。

 小春は都会の人って歩くのが速いなぁとぼんやり考えていた。

 それにしても、いつまで歩くのだろう。

 小春が顔を上げると、周囲には誰もいなかった。進めば進むほど、東京とは思えないほど寂れた景色になっていく。

「この先に、喫茶店があるんですか?」
「うん。ちょっと寂れたところだけど……」

 本当に?

 その言葉を小春は飲み込む。

 狭い道路を歩きながら、周囲の建物に目を向ける。豆腐店と書かれた小さな建物はかなり錆びて廃れており、クリーニングの看板がある建物はシャッターが閉まっている。コインランドリーも何年前の建物だろうかというほど、古く寂れている。木造の民家が並んでいる場所もあるが、人の声はしない。家の壁は植物に食べられてしまったかのような様をしていた。解体を待つような雰囲気だ。

 それでもさらに奥を見れば、ビルのような建物が見える。あの辺りは栄えているのだろうか。

 そう信じて進むが、目立っていたビルはこれもまた死んでいそうな雰囲気を漂わせていた。何年前に建てられたものだろう。外観だけを見ても、色あせているのが分かる。小春の実家にあるおじいちゃんのポロシャツみたいな、元は白色のものが黄ばんでくしゃくしゃになったような見た目だ。

 ここに人はいない。

 声も足音も、小春と明音の分しかない。

 小春は掴まれた腕を見る。

 明音の手は服の袖がめくれて、細い手首から先が見えていた。皮膚には幾つも線ができている。塞がりかけた傷を何度も痛めつけたような跡が残っていた。

「戸塚さん、実は私も聞きたいことがあって……」
「お店についてから話そうよ」
「でも、まだ先になりそうだから。それにたいしたことでもないんです」
「分かった、何」

 本心では、このまま逃げてしまいたかった。

 しかし、困ったことに電車を出てから小春は気分が悪くなって下ばかり見て歩いていたのだ。

 どういう道順で歩いてきたのか覚えていない。十分近くは歩いたはずだ。その間、右に行ったり左に行ったりしていた。

「私のホワスタ、どうやって知ったんですか」

 最初は疑うつもりで聞きに行ったわけではなかった。この程度のことなら、ネット上で質問できることだ。それでも、顔を見て話した方がいいと思った。小春は文字だけの会話が不得意だ。自分の言葉を相手がどう捉えているのか不安になる。

 しかし、こんなことなら会わない方がよかったのかもしれない。せめて誰かと一緒に明音と会うべきだった。

「どういうこと?」
「私のアカウントの名前は、戸塚さんと違って本名じゃないんです。なのにホワスタを始めてからすこしして、戸塚さんは私の投稿に反応していましたよね」

 小春は自分のホワスタのアカウントを柊にしか教えていない。

 景色やご飯などの好きな写真を撮ってネット上で並べたいだけだったから、顔写真は載せていなかった。そんな状態でどうやって知ったのだろう。

「どうやって見つけたんですか」
「ああ……」

 明音は歩くのをとめてくれない。彼女はデニムパンツとスニーカーだが、小春はフレアスカートに厚底のサンダルだった。同じ性別なのに歩幅はかなり違う。小春は息が上がっており、休みたくて仕方がない。

 しかし、腕を強く掴まれていて足をとめられなかった。

 そんなことをしたら、どうなってしまうのか。

「たまたま、見つけたんだよ。大学の近くにあるカフェに入ったら、古川さんも近くに座っていたことがあったの。パンケーキだったかな? デザートの写真を撮って、投稿しているのが見えて……それでちょっと思いついたの。検索したら、古川さんのアカウントを見つけられるのかなって」

 小春は話を聞きながら明音に掴まれていない左手を動かす。右肩にかけた鞄にそっと手を入れた。

 このまま話をしよう。厚底のサンダルで音を立てて、悟られないように隠そう。

 まだそうと決まったわけではないが、それでも小春は身の危険を感じていた。なのに大事になってしまうことに対しての抵抗もあり、迷ってしまう。

「そうしたら偶然見つけて、いいねボタンを押したの。古川さん、撮ってすぐに投稿していたから……今はもうしてないよね?」
「は、はい、してないです」

 ――スマホ、どこだろう。

 小春は何だか泣きたくなった。

 しかし、まったく涙が出ないから不思議だ。

 鞄の中を探る音が出ないように慎重に動かす。

 そしてまだ次の会話が来ていないことに気づく。会話を繋いだつもりだったが、一言だけでは足りなかった。

「あの、戸塚さん……」

 話しながら、小春は隣の空き家に目が行く。

 空き家は道に面した部分がガラス張りで、太陽の光が反射して二人の姿を映し出していた。

 そこには顔を前に向けながらも、視線を空き家の方に向けて歩く明音がいる。

 彼女の目は小春を監視するように、見ていた。

 それはいつからだろう。

 ガラス越しに二人の視線が交わった。
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