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第三章 ずっとあなたと友達でいたい

甘すぎて、毒(2)

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 返事も待たず、柊はごっこ遊びを始めた。好き、好き、と小春が聞いたこともないくらいうっとりするような甘い声で優しく伝えてくる。何の答えも出せないでいると、彼の唇が小春の耳に触れた。

「小春」

 今度はとても切ない声音だった。柊は引き結んだ小春の唇を指先で触れる。

 しかし、小春にはとてもできなかった。偽りだとしても恐ろしいことだ。

「言いたくない……?」

 そうだ。言いたくない。小春は緩みそうになる唇に力を込めた。

 このまま耐えてしまえば、諦めてくれるだろうか。

 けれど柊は寂しそうに息をもらす。

 表情を確認したわけでもないのに、小春は胸がツキリと痛んだ。これ以上流されるわけにはいないのに、額にキスをされる。

 その唇は震えているようだった。

 途端、小春の喉はヒクリと鳴る。

「…………す、き」

 衝動的に唇からこぼれ出た。最初から耐えられるはずがなかったのだ。好きな人に頼まれれば、それがどんなことでもやってしまう。

「これでいい?」

 伝えた言葉をかき消すように、小春は早口で話す。

「もっと聞きたい」
「……そんなこと言われても」
「お願い、小春」
「うぅ」

 恋人ごっこなどと子どもの遊びみたいな名称をつけておいて、柊には余裕がなさそうだった。これはすぐに解放してくれないだろう。……いや、日付が変われば強制的に解放されるだろうか。そう考えると、小春はすこしだけ気が楽になる。

「……好き」
「誰が?」
「…………柊くんが」

 どんな顔で言えばいいのか分からなかった。片言になるように意識しているはずなのに、逆効果になっていないだろうか。小春はひとつひとつの音を噛みしめてしまっているような気がした。

 その証拠に小春は泣いてしまいそうだった。

 好きなんて、言うつもりもなかったし考えたこともなかった。今、この瞬間が奇跡みたいだった。たとえそれが、ごっこ遊びだったとしても。

「俺も、小春が好きだよ」

 本当にそう言われているかのようだった。

 嘘でも嬉しい。どれほど胸が痛んでも泣きたくても、小春は幸せだった。いつか地獄のような辛い結末が訪れようと、仕方がないくらいに。

「柊くん、好き。好き……」
「小春……」

 唇が触れる。柊の手ではなく、彼の唇が当たっていた。これでもう終わりだろうか。そっと柊から離れようとする小春だったが、どういうわけか柊の腕はがっしりと小春を捉えたままだった。

「柊く……んっ」

 またも唇が触れる。小春は喘ぐように小さく声をこぼす。先ほどよりも強くキスされて、反射的に背を逸らした。けれども柊は追いかけてキスを続ける。

「好きだ」
「んっむぅ……んんっ」

 柊はやめるつもりなどなかった。小春の体をころりと転がし、向かい合う体勢にする。そうして抱きしめて唇を合わせた。

「柊くん……」
「小春」

 名前を呼ばれるたびに、小春の中でほの暗い喜びが広がっていく。逃げてしまいたいのに、もっと聞いていたい。

 初めて柊としたキスより、胸が痛むようなキスだった。それなのに唇が離れそうになると寂しくてたまらない。

 柊と小春は何度もキスをした。互いの名前を呼び「好き」と言いながら、抱きしめあう。小春は途中から、気持ちを込めて好きだと言っていた。けれど柊はきっと気づかない。それでいいのだ。好きな人からフラれ、見合いをするという柊に、これ以上重たい荷物を背負わせたくなかった。気づいてしまったら、柊は恋人ごっこをした自分を責めるだろう。けれど小春は柊のためならいくら傷ついてもよかった。それくらい好きになってしまったのだ。

 好きなところなんて、いくらあげてもきりがない。笑った顔。すねた顔。焦って言葉が出なくても待っていてくれること。興味のないことでも、話を聞いてくれること。隣を歩く時、歩幅を合わせてくれること。店に入る時、小春よりも先にドアを開けてくれること。小さなことを、たくさん気にかけてくれた。慣れない職場で心細くなった時に電話をかけてくれたこともあった。今日も酔った小春に水を渡す時、ペットボトルのキャップを緩めてから渡してくれた。たったそれだけで、小春は嬉しかった。ときめいてしまう。

 一番好きなところは甘く透き通った声で名前を呼んでくれることだった。柊以外の友達とは疎遠で、もう都会では彼以外、名前を呼んでくれる人がいない。柊に名前を呼ばれるたび、小春は本当に春が来たような心地になる。後何回、呼んでもらえるのだろう。

「柊くん」

 小春は後何回、彼の名前を呼ぶことが許されるのだろう。

「柊くん」
「ん」

 唇が触れて、小春は目を瞑る。唇の隙間をぬって、柊の舌が遠慮がちに差し込まれた。拒めるはずもなく受け入れたが、勢いはない。弱々しくそれは動き、そっと歯を撫でる。彼らしくないたどたどしい動きだ。小春を抱きしめる腕から緊張しているのが伝わってきた。嫌がられるかもしれないと思っているのかもしれない。小春も好きではない人にそんなことをされたら嫌だし、反射的に拒むだろう。

 しかし、すこしもそういう感情がわかないのだから仕方ない。

 ――恋人ごっこ、だから。

 自身に言い聞かせ、小春は抵抗しない。けれど自分から動くこともしなかった。いくら演技だとしても、キスまで積極的になったらおかしいと思われそうだった。それに自分から何かしたところで小春は失敗するだろう。

「柊、くん……」

 ピタリと抱きしめてくる体にゴツリとした感触があった。小春の太股に当たるものは存在感を増している。

「ん……っん、柊……くん……好き……」
「小春……」

 柊は気づいていないのか、小春の唇をついばむ。

 小春は指摘しようか迷った。勘違いかもしれない。素面の柊が小春相手に反応するなどおかしな話だ。有り得ない。何かの勘違いだろう。けれど足が落ち着かなくて、小春はもぞもぞと体を揺らした。

「はぁ……悪い……小春」
「……柊くん?」

 唇を離し、柊は息をつく。

「できれば足は……あまり動かないで」
「え?」
「擦れるから」
「ええと……」

 なお分からない小春に、柊はもう何も言えない。曖昧な間ができ、小春はようやく理解が追いついた。

「柊くん、もしかして」

 その続きを言いかけて止める。柊から向けられる視線から逃れるように耳に唇を寄せた。

「……た、たって……たり?」

 部屋は他に人がいるわけでもないのに、小春は囁く。誰も聞いていなくとも、この話題はあまり大きな声で言えなかった。

 その問いに柊は呻く。苦悶のようなものが混じっており、怒っているようにも受け取れた。

「ご、ごめん! 違うよね。変なこと聞いちゃった。忘れて――んっ」

 小春の上唇が吸われていた。次いで、下の唇がついばまれる。

「そうだよ、小春」

 掠れた声が届く。肯定された小春は、何を言えばいいのか分からなかった。ただただ顔が熱くなり、太股に触れる塊に意識が向く。

「そうなるんだよ」
「……男の人は大変だね」
「他人事だな」
「でも、私は男じゃないし」
「そうじゃなくて」

 柊は言葉を探るように、小春の首筋に頭を寄せる。困った、と彼は呟いた。

「小春は襲われるって思わないのか?」
「お、思わない……」
「何で」
「何でって……友達だし、私はそんなに……あの……うん、そういう対象じゃないでしょう」

 小春は魅力がないと言うのをやめる。これを言ったら、柊はそんなことはないと言って小春を慰めようとしてくれるかもしれない。小春なりにうまく避けたつもりだった。

「でも今は恋人だ」

 違う。

 それは今晩限りの話だ。そしてそもそも今小春たちがしているのは『恋人ごっこ』だった。

「大丈夫、小春が嫌だって思うならしないから」

 そのくせ、同意を求めてくる。

 この先をするかどうか、小春の返事にかかっていた。

 けれど柊は小春が頷いてくれるまで、彼なりに努力するのだろう。

「小春」

 柊は体を起こすと、小春の上に覆い被さった。そして小春の下腹辺りに腰を落とす。

 ずっしりとした熱に、息を呑む。当てられただけなのに、お腹が熱かった。

 今の小春は経験がないはずなのに、腹の底が疼いてたまらなかった。
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