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第三章 ずっとあなたと友達でいたい

迷探偵

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 車に乗って、小春は一旦住んでいるアパートに帰って泊まるのに必要な物をトートバッグに詰め込んだ。頭の裏側ではこんなことをしていいのか、薄らとであるが疑問に思っていた。けれど時間が戻ってしまうという非常事態を前にすると、人は普段通りに振る舞えなくなってしまうのかもしれない。たったの数分で荷物をまとめ、再び柊の車に入った。

 柊の家は以前、酔った柊を送り届けるために入った時と様子は変わらなかった。違いがあるとすれば、今酔っているのは柊ではなく小春である。どうにも頭がふわふわと軽やかで、表情まで勝手に動いてしまう。そろそろ酔いがさめてもいい頃なのに、くらくらしていた。そんな様子の小春を、柊は心配そうに見ている。

「スリッパを使ってくれ」
「う、うん」

 小さなスリッパラックには二人分のスリッパが掛けられている。それを柊は二人分、床に置いてくれた。

 目の前に置かれたスリッパを履いてみると、足下がしっかりとフィットする。動いてもあまりパタパタと音がしない。

 柊は小春がどこかで躓いて転ぶかもしれないと考えているのか、ソファに座らせるまでずっと近くを歩いていた。

「気分、悪くなってない? 水を持ってくるよ」
「別にそこまでしなくてもいいのに」
「いいから」

 柊に何かさせると思うと、小春は落ち着かなくなる。立ち上がりたくなるが、ソファが心地良くて動く気になれなかった。

「小春がこんなに酔うなんて珍しいよな」
「……そうかも」

 冷蔵庫から水が入ったペットボトルを取ってきた柊は、蓋を開けてから小春に手渡す。

 小春は水をゆっくりと飲む。喉が冷えて気持ちよかった。

「それで、本当にトランプとかする?」
「よく考えたらこの家にトランプはなかった」
「柊くんも水を飲んだ方がいいんじゃない」
「トランプは例で出しただけだ。映画でも観るか」
「うーん……」

 どうしようかと考えながら、小春の瞼が重たくなる。まだ寝たくないので、どうにか目を覚ましたい。

「眠いなら、風呂でも入るか」
「柊くんと?」
「なっ――」

 尋常ではない声に、小春は顔を上げる。何かまずいことを言っただろうか。うとうとしていたため、適当に相槌を打った覚えはあった。柊とトランプをする話だったか、それとも映画を観る話だったか。

「……ごめん、何の話だっけ」
「もういい。小春、無理せずシャワーを浴びたらさっさと寝ろ。いや、寝てくれ。今から準備する」

 柊は小春の返事も待たずに、そそくさと浴室に向かってしまう。だがすぐに顔だけを出し、小春にじっとしているよう指示をした。言われなくても小春はどこかにふらふらするつもりはない。部屋の中をあれこれ探るような真似は……言われてみると気になりはするものの、モデルルームのようにスッキリとした場所では探りがいもないだろう。実は小春に見られたくないような、エロ本なんかがあったりするのだろうか。見つけても気まずくなるだけなので、探しはしない。うっかり見つけてしまっても、中身は見ないだろう。デジタルではなくアナログ派か、と小春は頷くだけだ。

「脱衣所にバスタオルとかパジャマとか、後ドライヤーも置いてある。好きに使っていいから……」

 話している最中、柊のスマホに電話がかかる。彼は「すこし話してくるから、小春はシャワーを浴びて」と言って、家を出てしまった。仕事に関係する話なのだろう。小春は今日休む予定ではなかったが、柊もそのはずだ。今までの十七日を振り返るに、今日突然休むことを決めたのだろう。電話がかかってきてもおかしくない。

 やはり、彼の仕事は忙しいのだろう。小春は持って来たトートバッグからパジャマと化粧水や乳液が入ったポーチを出す。顔を上げて、時計を確認すると二十一時になろうとしていた。柊といられるのは残り三時間だろうか。それとももっと短いかもしれない。今までどんなタイミングで時間が巻き戻ったのだろう。あやふやで、小春がどれほど思い出そうとしても記憶を掴めない。記憶がふっと通り過ぎてしまような感覚はあるので、まったく分からないわけではないのだがはっきりしなかった。

 小春はシャワーだけ済ませて、持って来たパジャマに着替えようと思った。だが、柊が用意したらしいパジャマに目が留まる。

「これは……」

 別にわざわざ用意されたものを使う必要はない。使ってもいいと言われたパジャマを広げたが、どう見ても女性用のサイズではない。グレーの生地で、たぶん柊が使っているパジャマだろう。それを使ってもいい。

 ――別に、なかったことになるんだし。

 なら、好きな人のパジャマを着てもいいのでは?

 それに柊もいいと言ったのだ。小春は自分に言い聞かせ、パジャマは持って来なかったことにする。用意してもらったパジャマに着替え、脱衣所を出て周囲を見渡す。まだ柊は電話中らしい。さっさと自分のパジャマをトートバッグに戻し、なかったことにした。悪いことをしているわけでもないのに、小春は顔が熱くなる。

 脱衣所で髪を乾かし、リビングに戻れば柊はキッチンにいた。その手にはコーヒーフィルターがある。どうやら電話は終わったらしい。

「寝る前なのにコーヒーを飲んで大丈夫? 眠れなくなったりしないの?」
「小春は眠れなくなるんだ?」
「ちょっとだけ……あ、でも私も飲みたい」
「眠れなくなるなら飲まない方がいいだろ」
「そうだけど、ちょっとくらいなら大丈夫だと思う」

 むしろ眠れなくなった方がよかった。まだコーヒーメーカーにセットする前なので、二人分に増やしてもらうよう小春は頼む。柊は渋々ではあったが、多めにコーヒーを用意してくれた。

 小春はリビングにあるソファに座ってコーヒーカップを両手に持つ。よく喫茶店に行って、コーヒーを注文する小春だったが違いはそれほど分からない。ただ、家で飲むものより柊がいれたコーヒーは美味しかった。香りもまるでアロマのようだ。ほっとするほどいい匂いが漂っている。一口飲んでみると酸味はほとんどなく、苦味とコクのあるメリハリのついた味だった。眠気覚ましにはピッタリで、ゴクゴク飲んでしまいそうになるほど美味しい。ついでにチョコでも食べたくなるくらいだ。

「小春は普段、何時に寝る?」
「日付が変わる前には寝てるかな」
「じゃあ、適当に寝たくなったらベッドを使ってくれ」
「柊くんは?」
「その辺で寝る」

 寝られそうな場所と言えば、ソファだろうか。他にあったかどうか部屋を見渡し、小春はベッドに目を留めた。よくよく考えてみると、あのベッドは一人で寝るには広すぎる。実際、柊と一度は寝られたのだ。金持ちであれば、大は小を兼ねると言って、広いベッドを買うものなのだろうか。小春はよく分からない。

 いや最初の十七日、柊が言った発言を小春は思い返す。誰とも経験がないのに、コンドームを用意したものの今まで何の機会にも恵まれなかった。つまり、あの一人で使うには広すぎるベッドも機会が訪れた時のために用意していたものなのではないか。

「柊くん」
「……何だよ」
「実は好きな人とかいた? 最近、その……フラれたとか」
「は……? どうしてそう思うんだよ」

 呆れたような声を出しながらも、柊の手は震えていた。持っているコーヒーカップがすこしだけ揺れている。それをテーブルに置き、息をつく。

 その様子に、もしかすると当たっているのではないかと小春は思った。

「部屋の状態を見たら……そうなのかなって」

 シャワーを浴び、コーヒーを飲んだおかげか、小春は頭が回るようになる。頬が赤いままなのは、きっと柊のパジャマを着ているせいだった。

「一体どんな状態だよ」
「玄関に入ったらスリッパは二人分あって……でもこれ、たぶん女性用だよね。全然ぶかぶかじゃないから。それに食器がきっちり二人分あるの。食器棚の中を全部見たわけじゃないけど、コーヒーカップもお皿も器も全部二枚だったよね。他にもベッドは一人で寝る広さじゃないし、誰かと暮らすことを想定していたのかなって」

 パッと思いついたことを小春はいっきに話す。使われていない新品のコンドームがあることは言わなくてもいいだろう。けれど言い終えてから、小春は後悔した。これが当たっていたら、聞きたくないことを聞くことになる。

 柊は大きな溜め息をついた。

「……そういうのって、分かるのか」
「適当に言っただけだよ。……最近読んだ本にそういうのが書かれてたから」
「まあ、そうだな。フラれたんだ、最近」
「あ……」

「馬鹿だろ。会うと好かれているって気になって、絶対付き合うって決めてそのために色々用意した。冷静になってみると気持ち悪いよな。当然、告白してもだめだった。そういうのもあって、見合いをするって決めたんだ」
「柊くんは馬鹿でもないし、気持ち悪くもないよ。その人が来るようなことがあった時のために用意してたんだよね。でも、うん……お見合いの相手、素敵な人になるといいね」
「そうだなぁ……」

 まったく気づかなかった。

 小春は自分で言い出したくせにショックを受けていた。胸にぽっかり穴が空いて、内心とても驚いている。柊に好きな人がいた。考えてみれば、そうかもしれない。仕事が忙しいのだとばかり思っていたが、最近小春を誘わなくなったのは好きな女性と会っていたからなのだろう。今使っているカップも、本来はその人と使う予定だったのかもしれない。そんなに好きな人がいたのか。小春はそのおこぼれを友達として得ているのかと思うと虚しくなった。

「私、そろそろ寝るね。眠たくなってきたから」

 目が潤みそうになり、立ち上がる。洗面台に行き、歯磨きをしたら柊のベッドに入った。

 今日は浮かれるほど楽しい一日だった。だからこそ、柊の家になど行くべきではなかったのだと小春は反省した。欲張ったから、こんなに痛い目に遭うのだ。知りたくもないことを知ってしまった。

 手首にあるブレスレットに触れる。眠ればこのブレスレットはなくなってしまうのだと思うと、小春は苦しくてたまらないのに眠りたくなかった。ベッドに入ると布団を頭まで被り、そっとチェーンを撫でる。

 これもいつか、小春の元を離れてしまう。
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