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第一章 若きヴァンパイア

新たなる死の儀式

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別荘の広々としたリビングルームは、重厚なカーテンで外界から閉ざされ、まるで時間が停止したかのように静まり返っていた。中央のシャンデリアの光は淡く、古いオイルランプがわずかに揺れる明かりを放ち、陰影を深めている。

ヴィンセントは部屋の中心に立っていた。彼は黒い三つ揃いのタキシードを身にまとい、白いシャツと漆黒の蝶ネクタイが彼の引き締まった表情を際立たせている。襟元には品の良いカフリンクスが輝き、黒光りする革靴はまるで夜空を映すように光沢を放っていた。

彼の背筋は真っ直ぐに伸び、表情には決意が滲んでいる。しかし、その深い瞳にはわずかに恐れと戸惑いが隠されていた。目の前にはリリスが立っている。彼女は長い黒いドレスを纏い、その滑らかな布地が床に流れるように広がっている。暗闇の中で赤く燃えるような彼女の瞳は、ヴィンセントを見据えて微笑んでいた。その笑みは魅惑的でありながら、どこか冷たく、不気味ささえ感じさせる。

「準備はできているのかしら、ヴィンセント?」
リリスの声は低く、耳元で囁くように響いた。

ヴィンセントは一瞬言葉を失い、絞り出すように答える。
「ああ……準備はできている。」



リリスはゆっくりと彼に近づき、冷たい指先で彼の顎を持ち上げた。その動きは驚くほど滑らかで、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。彼女の指が彼の肌に触れると、ヴィンセントは無意識に息を呑む。冷たい感触が彼の全身に走り、背筋が震えた。

「怖がらないで。ただ少しだけ……あなたを借りるだけよ。」

リリスは微笑みながら彼の首元に顔を寄せた。ヴィンセントの心臓は早鐘のように鼓動を打つが、同時に全身が硬直し、逃げることも抵抗することもできない。リリスの唇が彼の首筋に触れると、彼の体は自然と息を止めた。

そして――鋭い牙が彼の肌を突き刺した瞬間、鈍い痛みと共に熱が広がった。それは痛みを伴いながらも、どこか甘美で抗いがたい感覚だった。リビングの静寂を破る音は、彼女が彼の血を吸い上げる音だけだ。

ヴィンセントの視界は徐々にぼやけ、足元から力が抜けていくのを感じる。彼は必死にリリスの肩に手を置こうとするが、その腕は力を失い、だらりと垂れ下がってしまった。

「……リリス……」

最後に彼女の名を呟いた声は、かすれた風のように消え、ヴィンセントの瞼は静かに閉じられた。彼の体は完全に力を失い、崩れるように倒れそうになるが、リリスの腕が彼を支えていた。


「これでいいわ。」
リリスは満足そうに彼の血を吸い終えると、そっと首元から唇を離した。彼の首筋にはわずかに血が滲んでいたが、彼女の舌がそれを拭い取るように一瞬だけ触れた。



リリスの腕の中で、ヴィンセントは完全に力を失い、まるで糸が切れた人形のように静かに横たわっていた。そのタキシードはまだ完璧な形を保ち、血の一滴が襟元に染み込んだだけで、その美しさを損なうことはなかった。だが、彼の顔には血の気が失われ、青白さが浮かび上がる。その唇は薄く乾き、まるで命そのものが抜け落ちていくかのようだ。

リビングルームは深い沈黙に包まれ、リリスはヴィンセントの顔をじっと見下ろした。その表情には微かな憐憫と、同時に新たな運命を与える悦びが交差しているようだった。

「これで終わりではないわ、ヴィンセント。これからが始まりよ。」
そう囁くと、リリスは彼の顎を優しく支え、そっと自らの手首に鋭い爪を滑らせた。一筋の深紅の血がその白い肌から流れ落ちる。

彼女はその血をヴィンセントの唇に近づけた。初めは彼の唇に触れるだけだったが、リリスが静かに促すようにすると、彼の無意識の中で反射的に口が動き、わずかにその血を受け入れた。彼の喉がひくりと動くたびに、失われた生命が再び呼び戻されるような気配が広がった。



リリスは満足げに微笑むと、床に広げられていた漆黒のマントに目を移した。それは闇そのものを編み込んだかのような質感を持ち、光を一切反射せず吸い込むように沈んでいた。
「これで夜の王となる準備が整うわ。」

リリスはマントを手に取り、ヴィンセントの肩にそっと掛けた。その瞬間、布地が彼の体を包み込むように吸い付く。それは単なる衣装ではなく、彼の新たな本質を象徴する存在であり、吸血鬼としての力を与える儀式の一部だった。

彼のタキシードの上に重ねられたマントは、驚くほど自然に馴染み、その流れるようなラインが彼の体をさらに際立たせる。リリスは慎重にマントの襟を整え、その動作はまるで芸術品を仕上げる職人のようだった。

「これがあなたの新たな姿よ。どんな闇にも映える、完璧なあなた。」
リリスの指先が彼の肩に触れると、まるで彼女の力がマントを通じて注ぎ込まれるかのように、ヴィンセントの体に微かな震えが走った。



リリスはヴィンセントを再び抱き上げる。彼女の動きは驚くほど滑らかで、まるで彼が羽のように軽い存在であるかのようだった。細身の彼女が大人の男性を運ぶ異様な光景は、超自然的な力の象徴そのものだった。

地下への階段は冷たく、石の壁には儀式用の燭台が置かれ、青白い炎が揺れている。その光はリリスの影を長く引き伸ばし、彼女が抱えるヴィンセントを闇の中に溶け込ませるようだった。

地下の礼拝堂に用意された棺は、漆黒の木材で作られ、内装には深紅のビロードが敷き詰められていた。リリスは慎重にヴィンセントを棺の中に横たえた。その手つきはまるで眠る子供をベッドに寝かせる母親のように優しく、それでいて何か儀式的な厳かさがあった。

ヴィンセントの肩に掛けられたマントは棺の中で広がり、彼の体を完全に包み込んでいた。それは彼を守ると同時に、吸血鬼としての新たな力を象徴しているように見えた。

「ここであなたは目覚める。新たな夜の住人として。」
リリスは棺の蓋をそっと閉じた。その瞬間、ヴィンセントの姿は完全に闇に飲み込まれ、彼の運命を握る鍵は、リリスの手の中にあった。

礼拝堂に響くのは、微かな燭台の炎の音だけだった。その静寂の中で、ヴィンセントは新たな命を待ちながら眠りについた。
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