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4 銭
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そんな軍師の噂を意識し始めてから何日か後のことだ。早朝、野営地の近くにある小川に水を求めて近づくと、楊然が立っていた。見知らぬ男と何か話している。近くの村人だろうか。彼と比べるまでもなく、ずいぶんと背が高い。
「よう、早いなあ」
高鵬は、近づきながらそう声を掛けた。
「伍長さん」
楊然はいつものように朗らかな声を出したが、一緒にいる男の方は、伍長と聞いたせいなのだろうか、少し脅えるような目つきになった。
「この近くの者かい」
その態度を無視して尋ねた。
「へい」
やはり男の雰囲気は硬い。
「伍長といっても、お役人じゃない。野良仕事していたところを引っ張ってこられただけだ」
高鵬は、先回りして言いわけした。
「はあ」
先回りになっていなかったようだ。どうしてそんなことを自分に話すのだろう、という顔になっている。
ふと気になって別のことを言った。
「羨ましいな。この辺の村の者は、戦に駆り出されなかったわけだ」
「はあ」
話題を変えてみたが変化はない。
どうしたわけか嫌われたようだ、と思い、水を汲んで、その場を離れた。
すると、楊然が後から追ってくる。
「待ってくださいよ、伍長さん」
「どうした」
「見逃してくださいな」
先ほどの様子とは違い、楊然はずいぶん慌てている。
「何をだ」
少し間があった。
「そんなあ、勘弁してくださいよ」
「だから、何を勘弁するのだ」
「そういうことですかい」
卑屈な目が、にわかに険を帯びた。
「……」
高鵬には、楊然が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「どこかへ引っ立てるでも、有無を言わさず斬るでもない。かといって見逃してくれるでもねえってことは、ほかにありゃあしませんやね。伍長さんも、同じ人間てことだあ」
楊然は下卑た笑いで、息のかかるほどに近寄ると、何かを高鵬の手に握らせた。
銭だった。
その銭の感触を確かめた瞬間、高鵬は事情を理解するよりもまず、しまった、と感じた。感じはしたが、どうして良いのか分からない。彼がただじっとしていると、楊然の方が反応した。
「何でい、足りねえって言うのかい。伍長さん、ずいぶんじゃねえか」
目も歯も剥いて、挑んできた。
「いや、そんなことはない」
反射的に高鵬はそう答えた。そもそも銭を要求したわけではない、という意味に違いなかったが、誰が聞いたとしてもそういう風には聞こえない。
「なら、いいんですよ」
楊然は、さっと身を引くと、いつもの笑顔に戻っていた。
しまったという気持ちが重なった。すぐに手の中のものを突き返せば、まだ間に合うのではないか、と考える間もなく、楊然は姿を消していた。
その日は眠りに就くまで、手の中に銭の感触が消えなかった。楊然の恐ろしい表情と笑顔も、脳裏を交互に支配しては彼を苦しめた。
翌朝、楊然の態度は以前とまったく変わらなかった。
楊然は、一体どんな後ろ暗いことがあって自分に銭を寄越したのだろうか、と前日来考えていることをまた考えてみた。
もしかすると、禁制の物でも扱っているのだろうか。塩や一部の薬草などは、個人で勝手に商ってはいけないことになっている。それらを裏で取り引きして、荒稼ぎをしている者もあると、高鵬は噂で聞いたことがあった。
しかし、楊然が大量に品物を所持しているようには思えない。そんな物は、少しだけ売ったり買ったりしても、大した儲けにはならないだろう。ましてや戦の最中に、危険を冒してまで、少量を商いするために足を運ぶ者などあるだろうか。かなり無理がある。
そこまで考えて、彼は思い当たった。戦場で、かさ張らないで金になると言えば情報だ。それなら危ない思いをしてでも取り引きしようという者がいるはずだ。
が、最下層の歩卒ごときの情報が、果たして売り物になるのだろうか。もしかしたら楊然の個性が関係あるのかも知れん。あのよく回る舌で、自分自身を売り込んだのだとしたら、案外敵方も、使える、と考えるのではないだろうか。それに、間諜は一人や二人ではないだろう。大勢いる中の一人が、あの小男である、ということなら納得できるような気がしてきた。伍長である高鵬から得る情報だけではなく、いろいろな場所に顔を出し、さまざまな人間に取り入って、情報をかき集めていることもありそうな話だ。
「よう、早いなあ」
高鵬は、近づきながらそう声を掛けた。
「伍長さん」
楊然はいつものように朗らかな声を出したが、一緒にいる男の方は、伍長と聞いたせいなのだろうか、少し脅えるような目つきになった。
「この近くの者かい」
その態度を無視して尋ねた。
「へい」
やはり男の雰囲気は硬い。
「伍長といっても、お役人じゃない。野良仕事していたところを引っ張ってこられただけだ」
高鵬は、先回りして言いわけした。
「はあ」
先回りになっていなかったようだ。どうしてそんなことを自分に話すのだろう、という顔になっている。
ふと気になって別のことを言った。
「羨ましいな。この辺の村の者は、戦に駆り出されなかったわけだ」
「はあ」
話題を変えてみたが変化はない。
どうしたわけか嫌われたようだ、と思い、水を汲んで、その場を離れた。
すると、楊然が後から追ってくる。
「待ってくださいよ、伍長さん」
「どうした」
「見逃してくださいな」
先ほどの様子とは違い、楊然はずいぶん慌てている。
「何をだ」
少し間があった。
「そんなあ、勘弁してくださいよ」
「だから、何を勘弁するのだ」
「そういうことですかい」
卑屈な目が、にわかに険を帯びた。
「……」
高鵬には、楊然が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
「どこかへ引っ立てるでも、有無を言わさず斬るでもない。かといって見逃してくれるでもねえってことは、ほかにありゃあしませんやね。伍長さんも、同じ人間てことだあ」
楊然は下卑た笑いで、息のかかるほどに近寄ると、何かを高鵬の手に握らせた。
銭だった。
その銭の感触を確かめた瞬間、高鵬は事情を理解するよりもまず、しまった、と感じた。感じはしたが、どうして良いのか分からない。彼がただじっとしていると、楊然の方が反応した。
「何でい、足りねえって言うのかい。伍長さん、ずいぶんじゃねえか」
目も歯も剥いて、挑んできた。
「いや、そんなことはない」
反射的に高鵬はそう答えた。そもそも銭を要求したわけではない、という意味に違いなかったが、誰が聞いたとしてもそういう風には聞こえない。
「なら、いいんですよ」
楊然は、さっと身を引くと、いつもの笑顔に戻っていた。
しまったという気持ちが重なった。すぐに手の中のものを突き返せば、まだ間に合うのではないか、と考える間もなく、楊然は姿を消していた。
その日は眠りに就くまで、手の中に銭の感触が消えなかった。楊然の恐ろしい表情と笑顔も、脳裏を交互に支配しては彼を苦しめた。
翌朝、楊然の態度は以前とまったく変わらなかった。
楊然は、一体どんな後ろ暗いことがあって自分に銭を寄越したのだろうか、と前日来考えていることをまた考えてみた。
もしかすると、禁制の物でも扱っているのだろうか。塩や一部の薬草などは、個人で勝手に商ってはいけないことになっている。それらを裏で取り引きして、荒稼ぎをしている者もあると、高鵬は噂で聞いたことがあった。
しかし、楊然が大量に品物を所持しているようには思えない。そんな物は、少しだけ売ったり買ったりしても、大した儲けにはならないだろう。ましてや戦の最中に、危険を冒してまで、少量を商いするために足を運ぶ者などあるだろうか。かなり無理がある。
そこまで考えて、彼は思い当たった。戦場で、かさ張らないで金になると言えば情報だ。それなら危ない思いをしてでも取り引きしようという者がいるはずだ。
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