釣りはじめました

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アジゴ編1

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 街を彩っていた桜は色を変え、紫陽花は自分を着飾る雨を待っていた。
 僕らの住むこの世界の時間は音も無く、気が付けば過ぎているものだ。そこに何かを残すには、何かを描かなければならない。それは例えば、思い出だったりする。これも、時間が経てば曖昧になり、記憶違いも出てくる。それでも、描いたものは、ふとした事で再生されたり、色が褪せても心にはしっかりと刻まれている。
 人は思い出が無ければ、生きていけない。そんな生き物だ。
 『時間が巻き戻ったらいいのに。』と、誰かが言う。そう、それはまさに、今の僕の心の声だった。これもまた、思い出として、僕の時間に刻まれるのだろう。
 ……こんな思い出は、正直、要らなかった。
 「瀬高!この前の標識の寸法、ちゃんと確認したとか!?お客さんからボルト穴の寸法がズレてて、合わない。って、クレームが来とるぞ!」
 休日明けのフレッシュな気分の月曜日。……だったのは昼休みが終わるまでだった。
 島田社長は、顔を茹蛸のように真っ赤にして、怒鳴っている。
 ここ、『島田鉄工所』は、道路標識柱などの製作を主におこなう会社だ。
 「すいません。すいません。」
 僕は何度も頭を下げ、何度も何度も謝罪を繰り返す。他に返す言葉がみつからない。
「謝るだけなら、猿でも出来る!」など、かなりキツい事を言われた。
 肩と首が……完全崩壊した。崩れ落ちた身体を引きずりながら、歩いていると「ヒロ。だいぶ、絞られてたな~。」とヨシさんが苦笑いを浮かべて肩を叩いてくれた。
 ヨシさんが入社して、もうすぐ三ヶ月が過ぎようとしている。
 ヨシさんが入社した当初のことを思い出す。島田社長の友人で、コネ入社だろう。腕も島田社長の言うように立つかも怪しいもんだ。と、周りの先輩方の意見は厳しいものがあった。
 しかし、一週間も経たないうちに、その評価は一転した。
 単純な話。溶接屋さんなのだから、その溶接ビードを見ただけでも、腕が立つか立たないかは一目瞭然だからだ。その溶接ビードは美しかった。ため息が出るほどに……。
 その他にも組立も出来た。この会社でやる事の、ほぼ全てを一人でこなせるのだ。
 早かった。あっという間に、ヨシさんは認められた。いや、尊敬の眼差しで見られるようになった。それと同時に、社内に新しい風が吹いたのを感じた。社内に満ちていた、慢心した空気は、突然吹いた春一番に吹き飛ばされたのだ。要は、年齢かなり高めの先輩方は、みんな、負けず嫌いなのだ。職人さんなのだから、当然のことなのかもしれないが……瞳の奥に炎が宿ったようだった。
 一方、僕は。刺激を受けて、やる気は出たのであるが、それとは反比例し、得体の知れない不安?不満?恐怖心?何とも言えない感情が日に日に募っていくようだった。
 そして、今回のミスであ……る。
 完全に会社の中心になったヨシさん。最初、みんな、『古木』『古木さん』と呼んでいたが、ヨシさん本人が、島田社長が呼ぶように、『ヨシ』と呼んで下さい。というのもあり、いつの間にか、『ヨシ』『ヨシさん』と呼ぶようになり、そう呼ぶ事を躊躇していた僕にも、半強制的にそう呼ぶようにと言われた。
 僕の事も、最初は瀬高さんだったが、入社当日に、敬語や『さん』付けはやめて下さいと言ったせいか、いつの間にか、ヒロになっていた。それは、嬉しかった。
 向かい合って、ヨシさんと少しだけ話す。
「はい。……自分のせいですから、当たり前なんですが、流石にへこみますよ。」
「そりゃ、そうだ。ミスは誰にだってある。落ち込むのも分かる。けど、後はそれをプラスに出来るかだぞ。確認作業は重要な事だ。今回の事で、分かっただろ?」
「はい……」
「それが再確認出来たなら、今回のミスもプラスに出来るさ。何時までも考え過ぎて、違う事でミスを重ねるなよ。」とまた、肩を叩いてくれた。
 はい。と言うように、頷いて答えたが、そんなに簡単に割り切れるものでもなく……。気が付けば、週末、金曜日を迎えていた。
 何時もの様に先輩方に挨拶を終わらせ、事務所に挨拶をしに行った。
 そこには、ヨシさんも居た。二人は何か楽しげに話しをしていた。
「お疲れ様でした。」僕は挨拶をして、足早に事務所を後にしようとした。
すると、「お疲れ様。瀬高。お前、まだ月曜日のミスば引きずっとるとか?」と、態度でバレバレだったのだろうか?島田社長に呼び止められた。
「はい。」と力無く、答える。
「お前、引きずり過ぎばい。別に、クビになるとかじゃなかっだけん。ミスは、誰にでもあると。ミスして仕事ば覚えたりするとだけん、それば胸に刻んで、それば糧にせなん。何時までもクヨクヨしとったって、なんも始まらんとばい?」
「ヒロ。お前、ちょっと真面目過ぎるね。前にも言ったけど。ミスを真剣に捉えない奴も問題あるけど、考え過ぎて自滅するのも問題だ。切り替えは必要だぞ。」
 二人は、さっきまで楽しそうな雰囲気とは別の、真面目なトーンで話し掛けてくれた。
「はい。頭では分かっているんですけど……」
そう。これまでも、ミスなら何度もした。些細なミスから重大なミス、色々。そのたびに、落ち込んで。それでも、切り替えられたのだけれど、なぜか今回は、それが上手くいかない。自分の不甲斐なさが悔し。
 僕の表情を見て悟ったのか、二人は、しばらく考えるような仕草の後、「ヒロ。飲みに行ったりとか、遊びに行ったりして、ストレス発散はしてるか??」と、ヨシさんが聞いてきた。
「いえ。最近は、そういうのないですね。友達も、彼女とか居るから忙しいみたいで……。」
 再び二人は顔を合わせて、「ヒロ。急な話しだけれど、俺達と明日、釣りに行かないか?ストレス発散になるかもしれないぞ?」
「それは、いい案ばい。どぎゃんね?」
さっきまで神妙な面持ちだった二人が、また、にこやかになっていた。
「釣りですか?」と首を傾げる。
「そう。釣り。今回は、簡単なアジゴ釣り。夜釣りだから、昼間より暑くないしね。気分転換にもなるぞ?」
「アジゴ?」
「アジの子供たい。コアジとも言うけど、こっちじゃ、アジゴたい。唐揚げや南蛮漬けにすると、美味しかとよ。」
 そう言い、島田社長は瞳を一瞬閉じて、幸せそうな笑みを浮かべる。頭の中で、既に食したのだろう。ゆっくり瞳を開けて、少し遠くに視線をやり、夢の世界へ旅立っているみたいだった。
 そんな島田社長をよそに、ヨシさんは話を進める。
「ヒロ、釣りの経験は?」
「いえ。無いです。」
 夢旅行から帰って来た島田社長も言う。
「無いなら、よか経験になるかもしれんけん。どぎゃんね?道具類は俺達が貸すけん?」
「どぎゃんね?」
 初めて聞く、ヨシさんの熊本弁。それだけ、興奮しているのか?釣りって、そんなに楽しいものなのか?少し興味が湧いた。
「なら。お供させて頂きます。」そう答えると、二人は、これ以上無いだろうと言うくらいの笑顔へ変わった。
「よし!明日は夜十時過ぎが満潮やけん、昼の四時には、こっちば出るばい。」
「そうだね。場所も確保しないといけないしね。道具屋にも寄らないといけないから、早いかもしれないけど、それぐらいが妥当かな?」二人は、うんうんと頷いている。
「え?どこまで行くんですか?」
 今更ながらに聞いてみた。
「天草たい。近くの防波堤では、アジゴは釣れんけんね。」
「ここからだと、片道二時間は掛かるからね。道具屋で餌とかも買わないといけないから。交通量とかもあるし、三時間位はみといた方がいいね。」
 二人には、当たり前なのだろう。片道、二、三時間というなら、高速道路を使えば九州内、ある程度の所まで行ける時間である。
 僕が躊躇したのが伝わったのだろう。
「まあまあ、行ったら分かるから。」
「そぎゃんたい。行ったら分かるけん。車は会社のバンば使うけん、瀬高は四時前には会社に来なんぞ。」
 僕の同行が確定した瞬間だった。
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