ハンガク!

化野 雫

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第百四十一話

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「白瀬、緑川、ごめん。
 僕は今、板額にきちんと聞かなきゃイケない事があるんだ」

 僕は、放って置けばいつまでも続きそうな気配のある、静かなる『正妻戦争』をやんわりと遮った。

 僕自身、その正妻戦争の原因が僕であるって分かってる。だから、実はこの時、ちょっとくすぐったい様な気持ちにもなったのも、また偽らざる事実である。


「板額、すまない。
 大事な話だったのに不覚にもぼんやりしてしまった。
 悪いんだけど、もう一度、分かりやすく説明してはくれないか?」

 僕は少し冷えて来た紅茶をぐびっと一口飲んでから、板額の方を向き直ってそう聞いた。

「分かったよ、与一。
 僕も、もう少し詳しく君に説明しなければと思っていたところさ」

 すると板額はそう言って微笑んだ。

 その時の板額の微笑みは、優しく、でもその中にちょっとだけ憂いを含んた。それは、とても、そう、とても美しかったことを僕は今でも鮮明に想い出せる。


「今まで黙っててごめん、与一。
 本当は最初からこれは決まってた事なんだ。
 僕が『烏丸 板額』になった時から、
 僕は、君と同じ普通の世界で生きてゆく事は決して許されない存在になったんだ。
 それを祖母に無理を言って、
 最後に君ともう一度、一緒に過ごす時間を少しだけ許してもらっていたんだよ」

 板額はそう言って語りだした。

「ちょうど、この葵高の望月先輩の事件の解決を依頼された事もあってね。
 色々望月先輩の事を調べる為にも葵高に潜入する必要が出来たんだ。
 それは本当に偶然だったんだ。
 それが無ければ、祖母は僕が君と再会する事を許さなかったかもしれない。
 あの聡明な祖母の事だ。
 一度は『板額』として異形の世界に生きる事を決めた僕の決心が、
 もし君に再会すれば揺らぎかねない事くらい分かってただろうからね。
 僕はこの機会をくれた神様に感謝したよ。
 僕にとって君は全てなんだ。
 前にも言ったけど、今の僕があるのは君のおかげだからね。
 どうしても、君のおかげで変わる事の出来た今の僕を君に見せたかった。
 そしてあの時の感謝をもう一度伝えたかったんだ」

 先ほどまでと違って、緑川は押し黙っていた。

 しかも、何だかそれが自分の事の様に、俯いてすごく辛そうな表情をしていた。

 白瀬も今は普通の女の子の様に床にぺたりと座り込んでうつむいて動かない。

 時折、その肩が小さく震える様に見えたのは、もしかしたらもらい泣きをしていたのかもしれない。

 僕は二人の様子を見て、緑川も白瀬もすでに板額から聞いて詳しい事情を知っているんじゃないかと思った。

「そして、それで君への想いをすべて断ち切って、
 『烏丸 板額』という人間、
 いや、正確には望月先輩と同じ化け物だね……
 になってこれから独りで生きて行く覚悟を決めたかったんだ」

 そう言って板額は思わず言葉を切った。

 その時の板額の表情はすごく悲し気で辛そうだった。


 もう、僕には完全に分かっていた。

 これは板額との別れなんだ。

 しかも、たぶん、二度と会えない永遠の別れ。

 板額と言う女の子になってからは、とてもとても短い間だったけど、僕は深く深く板額を愛し始めていた。

 だから、それがどれだけ残酷な宣告か改めて分かった。

 でも、先ほど意識を失った時とは打って変わって今度の僕は不思議と冷静だった。

 涙も出なければ、感情が高ぶりで己を失う事も無かった。

 それは傍から見れば、きっと薄情に見える程だったかもしれない。

「そう……なんだ……」

 板額の話を聞いた僕は、なんだか他人事の様にそう呟いていた。

「おや、意外に冷静なんだね、君は。
 僕はてっきり、君の事だから僕にしがみついて、
 『どこへも行くな板額!』
 なんて泣き叫んでくれるかな、なんて期待してたのに」

 そんな僕の様子を見て板額が、意地悪気な笑みを浮かべながらそう言った。

「与一……意外に薄情……最低ね……」

 緑川はまるで汚いものでも見るかのような表情で僕を見て吐き捨てる様にそう呟いた。

「二人とも待って!
 こういう時、人間って意外にこうなっちゃうものなのよ。
 あまりに強い精神的衝撃を受けると思考が止まっちゃうの。
 今の平泉君にはまだ事の重大さが分かってないのかもしれないし」

 板額と緑川の様子を見て、少しおろおろしながら白瀬はそう言った。

 ただ一人、白瀬だけは僕を庇ってくれる様だ。

 ああ、やはり、白瀬はとことん僕に優しい。

 いや僕に限らず、白瀬は生きていればきっと誰にでも優しい女の子だったのだろう。

 自分自身は、筆舌に尽くしがたい逆境の中で生きて来て、最後には自ら命を絶つ所までいったのに。それでもなお、こうして優しくなれる。

 僕はこの時、白瀬を救う事が出来なかった自分を思い出し、自分自身を少し腹立たしく思った。
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