ハンガク!

化野 雫

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第百四十話

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 板額だけじゃなく、その前に座る緑川までも平然として紅茶のカップを口に運んだ。

 たぶん、緑川はわざとそう見える様にしているのだ。彼女はやっぱり僕が板額と二人きりになるのを期待してた事を腹立たしく思っているのだろう。緑川との付き合いは長いし、今はもっと深い関係になっている僕には分かってしまう。

 しかし、それは緑川だって分かってた事だし、逆の立場の時だってある。それを怒るなんて少し理不尽な気もしたが僕はあえて黙っていた。だって、そんな事をすればめらめらと燃える緑川の嫉妬心にガソリンをぶちまける様な事になる事ぐらい僕だって分かる。

 ただ白瀬だけがそんな僕と、板額、緑川を見比べて、この場をどうつくろったら良いのか考えあぐねておろおろしてる様だった。白瀬と言う女の子は、こういう時にでもすべての人の心の内を感じ取って気配りの出来る女の子なのだ。さすが僕の初恋の相手だって思って、僕は僕自身までもが少しばかり誇らしくなった。

「さて、与一。
 僕はどうしても君に話しておかなきゃイケない事があるんだ」

 そして、程なくして板額が紅茶のカップをテーブルに置いてこう切り出した。



「与一、ちゃんと聞いてるのかい?」

 遠くから板額の声がぼんやりと聞こえた様な気がした。

 なんだか長い眠りから、今しがたやっと覚めた様な感じがした。

「ホント、あなた、大丈夫?」

 続いて緑川の声がした。その声は呆れた様な響きがあった。

 徐々に鮮明になりつつある視界に、心配げに僕の顔を覗き込む白瀬の顔が真っ先に写った。


 そうだ……思い出した。

 僕はあの後、板額が言った言葉を聞いて座ったまま意識を吹っ飛ばしていたのだ。


「与一、僕はね、君と再会できて本当に嬉しかった。
 その上、親友を越えて恋人にまでなれてね。
 本当にありがとう。
 でも、楽しい時はここまで……。
 これから僕は『烏丸板額』として独り立ちしなきゃいけない。 
 さよならの時が来たんだよ、与一」

 その言葉の本当の意味は、まだ僕には分からなかった。

 でも、最後の『さよならの時』という言葉を聞いた途端、僕の心はパニックを起こしたんだ。

 今でも僕はなぜその意味を正しく理解する前に意識を失う程のパニックを起こしたのか分からない。

 でも僕は、その言葉から二度と板額に会えなくなると悟ったんだ。

 きっと、その途端、そのあまりに悲しい現実が僕の精神が壊れてしまわない様に、僕自身の心の安全装置が強制休止を掛けたんだろう、と今では思っている。


「平泉君、大丈夫?
 私の声聞こえてる?」

 心配げに僕を見下ろす白瀬が声を掛けた。それはとてもやさしい声だった。

「そりゃ、あんたが驚くのも分かるけど、
 大の男が気を失うなんてね。
 呆れるの半分、そして何だか無性に腹が立つ」

 一方、そう言った緑川の声はやはり妙に殺伐としていた。

 いや、今思えば、それはわざと緑川がそうしていたのかもしれない。あれはあれで、かなりのショックを受けたであろう僕に対する緑川なりの気遣いだったのだろう。

「だって、平泉君の烏丸さんへの想いって、
 私から見ても凄かったら、こうなっても仕方ない思う……」

 一方、白瀬は相変わらず僕のやや上辺りに浮かんで僕を心配げに見ながらそう言った。

「それが分かってるから余計に腹が立つのよね。
 この中じゃ、私が一番、立場的に弱いから……」

 白瀬の言葉に緑川はそう答えた。

 最後の言葉を口にした時の緑川はなんだか少し悲しげにも見えた。

「そうかなぁ……
 平泉君って、中学の時から巴の事かなり好きだったよ」

 その言葉に白瀬は無邪気にそう答えた。

 そうなのだ。

 白瀬は見かけ上は板額や緑川に合わせて中学生の時よりやや大人っぽくしている。

 それは、本人が意識しているかどうかは分からないけど、きっと同世代の女の子として少しばかり大人っぽい板額や緑川に対する対抗心なのだろう。しかし、その実、白瀬の時間はあの中学生の時で停まってるのだ。ある意味、板額や緑川より精神的にはまだ子供っぽいところもがある。

「あんたに言われたくなわよ。
 なんせ与一の初恋の相手だもの」

「そう言われても、私にはそういう自覚はないし……」

 白瀬は戸惑い顔でそう言った。

 そりゃそうだ。僕の初恋の相手は確かに白瀬だけど、それを白瀬に告る前に白瀬は逝ってしまったのだから。


 ……とここまで考えが回ったところで僕は大事な事に気がついた。

 そうなのだ。

 今はそんなことより、はっきりさせなきゃいけない大事な事が僕にはある。
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