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焼き菓子と夫の裏側 2
しおりを挟む(あ、残りの焼き菓子と籠……持って行ってしまった)
アリアーナは、馬車の中で呆然と先ほどの出来事を考える。
秘書と向かい合っていたときの笑顔は、先ほどの笑顔と比べてしまえば事務的なものだったように思えてくる。
(……そんなはずないのに)
ルドルフの姿が見えなくなるまで見送り、今度こそ馬車に乗り込もうとしたアリアーナ。
そのとき、フィンガー家の馬車に横付けするように豪華な馬車が一台止まった。
「おや、パーティー以来ですね」
「……宰相閣下。あのときは本当にありがとうございました」
慌てて最上級の礼をしたアリアーナ。
「どうか気になさらず。いつも動じることがないルドルフ君があんなにも必死の形相で頭を下げてきたんだ。協力するしかないでしょう」
「……ルドルフ様が、頭を?」
「もちろん、彼との取引が重要ということもあるが、それ以上に仕事人間で他人に興味を持たない彼があんなにも必死に守ろうとする君に興味を持ってしまったんだ。困ったことがあれば相談に乗ってあげよう」
「……恐れ入ります」
そこから屋敷まで、どうやって戻ってきたのかアリアーナは覚えていない。先ほどのルドルフの笑顔と『会いたかったのは俺だけか』という言葉と、バラードからかばってくれた時の頼もしい姿、そして宰相閣下の言葉が頭の中でグルグルと渦巻いて気がつけば部屋のベッドに行儀悪く倒れ込んでいた。
(ルドルフ様が、私のために頭を下げた……?)
あのときだってそんな素振り、少しだって見せなかった。
けれど、考えれば考えるほどここまでの出来事に違和感が湧き上がってくる。
(思えば、全てが上手くいきすぎていた……。ルドルフ様が私の事業に興味を持ったと紹介してくれた人たちは、みんなとても協力的だったし……)
何かを成功させる度に褒めてくれたから、アリアーナは少しでもルドルフの役に立てていると思っていた。
(もし、それが全部、ルドルフ様が助けてくれていたおかげだったとしたら……)
もちろん、一人で成し遂げたなんて思っていない。
それでも、アリアーナは少しでもルドルフの役に立ちたいとここまで必死に努力を重ねてきたのだ。
「徐々にでも認められている、と思っていたのは私だけだったのね……」
お飾りの妻が事業を失敗させて足を引っ張らないように、ルドルフは手を回していたのだろうか。それはあくまでアリアーナの想像だ。それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
「愛されていなくても、少しでも役に立てればと思っていたのに……」
どうしてこんなに傷ついているのだろう。ルドルフのおかげでアリアーナの事業は軌道に乗り、契約結婚が終わってからも一人で生きていく基盤を作ることができているというのに。
だから本来であればお飾りの妻にすらこんなに手を差し伸べてくれるルドルフに感謝こそすれ、こんなに動揺して悲しむことではないはずだ。
(……私、ルドルフ様のお役に立ちたかったんだわ)
ただ役に立ちたいなんて、その理由はあまりにも明白だ。
そう、アリアーナはルドルフに心惹かれている。
「……ルドルフ様のことが、好き?」
顔を覆った手のひらを涙が濡らしていく。
アリアーナは食事をとることもせず、眠れない夜を過ごしたのだった。
***
そして朝日が昇るころ、遠慮がちにアリアーナの私室の扉のドアがノックされた。
「どうぞ……」
アリアーナが力なく答えると、ためらったような少しの間のあと、扉が開かれた。
侍女のメリアが心配して訪れたのだと思って振り返ったアリアーナは、予想外の人物が立っていたことに驚き目を見張った。
「ルドルフ様……?」
ルドルフは大股歩きで近づくとベッドに座るアリアーナの前にためらうことなく膝をついた。
「具合が悪いと聞いた」
「えっ……?」
確かにこの屋敷に来てからアリアーナが食事をしないなんてことはなかった。しかも帰るなり部屋に閉じこもり、誰も部屋に入れなかった。
アリアーナの様子を見た使用人たちが、心配してルドルフに伝えたのだろう。
「ごめんなさい。具合が悪いわけではないの」
「だが、酷い顔色だ。眠れなかったのか?」
聞くべきか聞かざるべきか悩んでいたアリアーナだが、ルドルフは急かすでもなくただまっすぐに視線を向けてくる。
アリアーナは渇いた喉を潤わせるようにゴクリと喉を鳴らし、そして口を開いた。
「ルドルフ様、私の事業が成功するように全てに手を回していましたよね」
「……それは」
眉を寄せてしまったルドルフの表情を見て、アリアーナは予想が事実なのだと確信した。
「どうしてですか? そんなに私が信用できなかったのですか……?」
「……アリアーナ。すまない、今日は社運をかけた会議があるんだ。戻ったらゆっくり話を」
アリアーナの双眸から流れた涙が絨毯を湿らせていく。
涙を見たルドルフがアリアーナに呆然とした表情を向けている。
(わかっているの。これは八つ当たりだって……。でも、役にさえ立てなかったら、ルドルフ様にとって本当に私はただのお飾りの妻でしかない)
感情の整理ができないまま、この場に留まることがつらくてアリアーナはルドルフの横をすり抜けた。
そしてそのまま階段を駆け下りて、玄関から外に飛び出す。
庭園はいつの間にか、色とりどりの花であふれかえっていた。
これはアリアーナが指示して植えたものだ。
閑散としていた広間も、食堂も、いつの間にかアリアーナの好みの調度品であふれ、今では屋敷中が柔らかく温かな雰囲気に包まれているようだ。
けれどその事実に気が付かないまま、アリアーナは屋敷の正門を飛び出した。
「ようやく一人で屋敷から出てきたか」
「え……?」
グイッと乱暴に手首を掴まれて路地に連れ込まれる。
壁に手を置いてアリアーナを見下ろすのは、義妹フィアの婚約者、バラード・レイドル子爵令息だ。
「……泣いているのか? あの男、ようやく本性を出したな。利用されていることに気がついたのか? かわいそうに」
「ルドルフ様は」
(私のことを利用したりしない……)
その言葉を口にしようとして、いろいろな感情と恐怖がごちゃ混ぜになって声を出すことができずに下を向く。
「あの男の妨害で、事業は失敗続きだ」
「……妨害?」
「そう、さあついてこい」
「……っ、行かないわ! そもそもあなたはフィアの」
「フィアとは婚約を解消した。君がいなくなり、落ちぶれ果てたあの家に用はない」
アリアーナはバラードの目を見つめた。整っている彼の表情は何かにとりつかれたかのように醜悪に歪んでいる。
「ようやく気が付いた。あの家は、君がいたから成り立っていたんだ。君さえ手に入れば……」
唇が近づいてくる。強い力で手首を掴まれて、壁に押さえつけられたアリアーナは、思わずその名を叫んでいた。
「ルドルフ様……。ルドルフ様!!」
そのとき、ドカッという鈍い音とともにバラードが急に倒れ込んだ。
「アリアーナ!!」
抱き寄せられ、その爽やかで安心できる香りに心から安堵して膝が崩れかけた直後、アリアーナはルドルフに強く抱きしめられていた。
「貴様……。平民の分際で……貴族に手を出したな」
「――それがどうした。人の妻に手を出すクズが」
「必ず貴様を追い落とす。覚えているがいい」
捨て台詞を吐いて去って行くバラード。
(また、迷惑をかけてしまった……)
震えるアリアーナに、ルドルフがたったひと言「肝が冷えた」告げて、抱きしめている腕の力を強めた。
「っ、ごめんなさい」
「君が謝ることなど一つもない」
「でも、迷惑を……。えっ、あの!?」
気がつけば、抱き上げられていた。そのまま、早足でルドルフは歩き出す。
「――――君が俺にくれるものなら、どんなに高かろうと全て買う」
「えっ?」
「俺が君にできることは、きっとそれしかないから」
そんなことない、と返事をしようとした瞬間に優しく笑いかけられたせいで、アリアーナの頬に流れる涙が今度こそ止まらなくなってしまう。
「さあ、帰ろう」
子どものように抱きつくと優しく抱きしめ返された。
(安心できる香りがする……)
抱き上げられたままルドルフの部屋に行き、ベッドにそっと下ろされる。
(ルドルフ様の部屋、初めて入ったけど……)
その部屋は机と椅子とシンプルな棚、そしてやはり飾り気のないベッドしかない。
王都でも有数の富を持つルドルフ・フィンガーの部屋とはとても思えなかった。
「……あの」
「寝ていない上にあんな目に遭ったんだ。顔色が真っ青だぞ、すぐに休め」
「……」
今さらながら恐ろしさに震えるアリアーナに、そっとブランケットを掛けたルドルフ。彼はベッドの前に椅子を引いてきて座った。
「……少しだけそばにいてください」
「……ああ、君が望むのならよろこんで」
武骨な指先がそっとアリアーナの柔らかい髪を撫で、頬に触れて涙を拭った。
その温かさに安心したアリアーナが、そっとルドルフの手に自分の手を添える。
(温かい……)
優しくほほ笑みかけたルドルフにふにゃりと笑いかけると、喉仏がわかりやすく上下した。
眠りに落ちる寸前の微睡みの中で、アリアーナの口から出た言葉。それはきっと無意識に違いない。
「どうしていつも助けてくれるんですか」
「俺にとって、それが当たり前のことだからだ。なぜなら、君は俺の……」
だからきっと、これは幸せな夢に違いない。そう思いながら、アリアーナは眠りへと落ちていった。
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