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契約と甘い朝食 1
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アリアーナの横には、すでに完璧に支度を整えたルドルフが優雅に席に座っている。
結婚してから約二ヶ月。契約書の一番始めに書かれた文面にもかかわらず、二人で朝食をとることは一度たりともなかった。
「あの、ルドルフ様」
「……眠れたか?」
「……ルドルフ様こそ、いつ眠っているのですか?」
結局ルドルフは、あのあとフィンガー商会の本社へ行き、朝まで戻ってこなかった。
朝食を一緒にとるために無理に時間を捻出したのは明らかだろう。
「仮眠した」
「体を壊しますよ?」
ふっ、と唇から空気が漏れる音がした。
(違う、ルドルフ様の笑い声……)
その笑顔は現実的ではないと思えるほど麗しい。
ルドルフは美形で、背が高くスタイルがよい。
だが、無表情であるが故に近づきがたい印象だった。
(この笑顔は……反則だわ!)
もしも夜会でルドルフがこんなふうに笑ったなら、きっと何人もの淑女が興奮のあまり倒れてしまうに違いない。
「心配してくれるのか? うれしいな……」
(そ、その台詞も反則ですっ!!)
動悸が激しくなってしまったアリアーナの上気した顔に気がついていないのだろうか。
美味しそうなスープにサラダ。卵にお肉。今日の朝食もバランスが良く健康に配慮されている。
「ほら」
「……んう!?」
半熟に焼き上げられたオムレツをスプーンにすくい、ルドルフがアリアーナの口に押し込んだ。
「君は華奢すぎるから、ちゃんと食べているか心配になるんだ」
「……あの、自分で食べられますけど」
「そうか、それならさっさと食べると良い。さもなくば、全部俺が……」
「わー!? 食べます!!」
慌てて食べようとしてむせてしまったアリアーナにそっと水が差し出された。
「さて、あとはベルマンに任せて出掛けるとするか」
「……ルドルフ様、まってください。せめてお見送りを!」
「全部食べ終わってないんだ。食べるのに忙しいだろう? 見送りは不要だ」
もう一度、オムレツが口に押し込まれる。
「むぐぐ……」
「可愛いな」
「……!?」
もう一度反則級の笑顔を見せて、ルドルフはアリアーナの口元についてしまったトマトソースを指先で拭った。
食堂にはアリアーナと、何も見ていないという態度をとることにしたらしく笑顔のまま一点を見つめているベルマンだけが残されたのだった。
***
――図書室は静寂に包まれている。
新しいドレスは、コルセットで締め上げられて息苦しい時代遅れのドレスと違って軽やかだ。行儀悪いと理解していながらも、アリアーナは図書室の吹き抜けのらせん階段にチョコンと座った。
(それにしても、ルドルフ様の初恋相手が私だなんて驚いたわ……)
アリアーナは小さくため息をつく。恐らくルドルフがアリアーナと結婚してくれたのは、あのときの恩を返し、初恋相手を助けたかったからなのだ。
(だから、期間を設けるために契約結婚だと宣言したのよね)
そうでなければ、初夜にあんな宣言をすることはないだろう。
「それに、貴族との繋がりが強固になった今、ルドルフ様にとって私は何の役にも立たないし……」
(それより私と一緒にいたら、レイドル様がまた何かしてくるかもしれない……)
この十年で、平民は富を持ち、魔道具を手にしたことで、魔法の力で優位に立っていた貴族との差は曖昧になりつつある。しかしいまだ身分の差は確かにあって、貴族から目をつけられれば社交界から閉め出されてしまうどころか、時に命の危険すらあるのだ。
(でも契約結婚のつもりなら、今朝は何であんな態度)
今まで時々笑顔を見せても基本的には無表情で、アリアーナからわざと距離を取っているような態度だったルドルフ。
けれど、今朝の態度はまるで……。
(新婚夫婦! 物語に登場する新婚夫婦みたいだった!)
顔を真っ赤にしてしまうアリアーナ。拭われた頬は、今日もジンジンと熱を持っている。
だが、今思えば距離を保ちつつも時々ルドルフの態度は不可思議だった。
(そう、あの菓子店に行ったときのように……!)
気持ちを落ち着けようと開いたのは、悲しいときや苦しいとき、いつも読んでいたすり切れるほど読んだ愛読書だ。
その本に描かれているのは、幼いころに両親を亡くした主人公が初恋の貴族令嬢のために成り上がり、苦境に陥っていた彼女を救い出す物語だ。
(……この話のヒロインに私の境遇が似ていたから、思わず自分を重ねて見ていたけど)
ルドルフの話を聞いたあと、この本を読み返してみればあまりに思い当たることが多すぎる。
(この物語の中で壊れたのはペンダントだけれど、この場面なんかそのままじゃないの……!)
まさか多忙なルドルフが書くはずもないだろう。誰が書いたのか、それはルドルフとアリアーナの境遇をよく知っている人物に違いない。
そしてこの図書館にこの本だけが置いてなかったのも、ルドルフがあえて置かなかったに違いない。
「アリアーナ様。昼食の用意ができております」
そのとき、柔和な声で食事の準備ができたと声が掛けられる。
「……ベルマン。ルドルフ様が幼いころにお屋敷で働いていたって事実なの?」
「旦那様からお聞きになったのですか……?」
「ええ……」
ルドルフは、幼いころ彼の屋敷で働いていたベルマンを呼び戻したのだと言っていた。
(ルドルフ様のことを幼いころから知っていたというのなら、全部わかっていたということよね?)
「どうなさいましたか。奥様」
「……ルドルフ様の初恋とこの結婚の理由について全部知っていたんですよね」
「……ええ、存じ上げておりました」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「旦那様に口止めされておりましたので」
もちろん、ベルマンはルドルフに逆らうことはできないだろう。
だからそれについての追求はやめて、アリアーナは別の質問を投げかけることにした。
「この本ですけど」
「こちらの本だけは置かないように旦那様より言い含められておりましたので、奥様がこの本を荷物から取り出されて本棚にしまったときにはとても驚きました」
「書いたのは誰ですか……」
「ほっほっ。名もなき作家でございますよ」
「十中八九、黒……」
「何のことですかな?」
いつも真面目なベルマンだが、片目を瞑ってウインクしてみせたところを見れば案外お茶目なのかもしれない。
(間違いない気がする。この本の作者は……)
けれど、これ以上詮索をするともっと恥ずかしい思いをするのは自分ではないかとアリアーナは思った。
だから曖昧に笑い、そろそろ食事にするという理由をつけて立ち上がる。
(そうね……。ルドルフ様も隠したがっていたみたいだもの)
一時の平和な時間は過ぎていく。それは嵐の前の静けさなのだった。
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