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契約妻は優先される 1
しおりを挟む――この場所はもしかして王宮なのではないか、と錯覚するほど豪華なシャンデリア。
テーブルの上には趣向を凝らした料理、そして王都の人気菓子店が手がけたデザートがあふれるほど並んでいる。
(あの焼き菓子ももちろんあるわね……)
テーブルの上でも一際目立っているのは、先日ルドルフと出かけた菓子店の焼き菓子だ。
色とりどりで美しく、香りも良いお菓子にはとくに貴族令嬢や夫人たちが注目しているようだ。
パーティーに参加している面々も王都で一流と認められる人物ばかりで主催者の人脈を参加者に知らしめるようだ。
会場の主役はもちろん、今回の主催者ルドルフ・フィンガーと、彼の美しい妻アリアーナだ。
彼女のドレスは王都の中心部に店を構えた新進気鋭のデザイナー、ロイスが手がけたという。
彼女が歩く度に軽やかに揺れる裾は緩くドレープを描きながら床へと広がっている。
薄く重ねられた青い布は、明らかにルドルフの瞳の色を意識しているのだろう。夜空のような青色は元々華奢で可憐な印象の彼女を清楚に、そして知的に見せている。
銀色の蔦や葡萄、自然を取り入れたデザインのネックレス、その中心にはめ込まれた透明な宝石は純度の高い魔石を加工した物でその価値は王都に大きな屋敷が何軒も建つのだという。
(このドレスと宝石だけで、どれほどの価値があるのかしら……)
――アリアーナは訓練に訓練を重ねた完璧な笑みを貼り付けながら、内心は緊張でいっぱいだった。
ルドルフがエスコートしてくれなければ、かかとの高い靴を引っかけて転んでしまいそうだ。
「この日まで長かったわ……」
アリアーナは小さく呟いた。
***
――さかのぼること一か月。苦闘の日々はルドルフと王都の菓子店に出かけた次の日に始まった。
菓子店から帰ってきたアリアーナは、徹夜したにもかかわらず、なかなか寝付くことができなかった。
それでも次の日は、早く起きて朝食の席に着いた。
しかし、執事長ベルマンに告げられたのはルドルフが夜通し彼の右腕であるカルロスと討論を重ね、日が昇ると同時に本社に出掛けたという事実だった。
(昨日ほんの少しだけ距離が近づいた気がしたのに……。そもそも朝食を一緒にしようと提案したのはルドルフ様なのに、一度も実現していないわ!)
朝食を終えたアリアーナは、自室に戻るともう一度結婚契約書を読み直すことにした。
「一つ、アリアーナはルドルフとできる限り朝食をともにする」
あいかわらず細かい文字でびっしりと書き込まれている。そして、見まごうことなく一番始めにその文は書かれていた。
(これだけ細かい文章なのだもの。ルドルフ様はお忙しいから、誰かに指示して書かせたのだと思っていたけれど……)
一緒に過ごし、事業計画書を添削してもらった今、アリアーナはルドルフの文字をすっかり覚えてしまった。
だから今ならわかる。この契約書は驚くべきことにルドルフの直筆なのだ。
(寝る暇も朝食をゆっくりとる暇もないほど忙しく過ごしているのに、いったいなぜ自分で書こうなんて思ったのかしら)
生真面目なルドルフがこの契約書を書いている姿を想像して、アリアーナは口の端を緩めた。間違いない。これを書いた日もルドルフは徹夜したに違いない。
「それにしても、私にとって不利なことが何も書かれていない……」
アリアーナは今日この日までの生活を振り返った。
きっと、何もかも制約されて窮屈な日々を送るのだと覚悟していたのに、使用人は彼女に優しく、必要な物は全てどころか過分に用意され、ルドルフは仕事のことになれば意外にも面倒見が良かった。
ただ一つ、不満があるとすれば、契約書の最初に書いてある朝食をまだ一度もともにしていないことだけだ。
「……忙しいというよりも、避けられている気がするの」
アリアーナがため息をついたタイミングで扉が叩かれた。
「どうぞ」
「失礼致します」
入ってきたのは、分厚い書類の束を抱えた執事長ベルマンだった。
白い塗装の可愛らしい印象の自室の机には不釣り合いな書類。
なぜかベルマンの後ろからさらに侍女たちが書類を抱えて入ってきたのをアリアーナは、ただ呆然と見つめる。
「奥様、こちらの書類は一月後のフィンガー商会出版部門主催のパーティーの招待客一覧です」
「そ、そう……。盛大なパーティーになりそうね」
「はい。王都でも例を見ないほど盛大なものになるでしょう。そして、こちらはドレスの企画に関する書類です」
「……ドレスの? えっと、デザイナーはもう決まっているはずだけど」
「ええ。こちらが布の仕入れ先候補、こちらが縫製依頼先候補、こちらは装飾品の……。ああ、忘れてはいけません。デザインの候補です」
ベルマンが次々とそれぞれの書類について説明をしていく。
販売先、すでに興味を示している取引先一覧。その内容は多岐にわたる。
デザインについては、ルドルフに無理難題を突きつけられたデザイナーの泣き顔が浮かびそうなほど多種多様だ。
「僭越ながら、奥様が確認しやすいようにまとめさせていただきました」
「……やっぱりベルマンは有能ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
この屋敷の使用人たちが有能であることには気がついていたが、まるで以前から準備されていたのではないかと思うほど資料は丁寧にまとめられていたのだった。
アリアーナは一つずつ資料を確認しては、不明点についてベルマンに質問していく。
その質問の一つ一つにまるですでに答えを用意していたようにベルマンが返答していく。
「何でも知っているんですね」
「あらかじめ指示を受けていただけのことです」
「そうなのですか……?」
こうしてアリアーナは一ヶ月間、あまりに多忙な日々を過ごしたのだった。
***
夜遅く、ルドルフの執務室に明かりが灯る。
机の前に座ったルドルフが軽くベルを鳴らすとベルマンが訪れた。
「それで、アリアーナの様子は」
「熱心に取り組んでおられます。質問内容も初めのうちは初歩的なことが多かったですが、ご自分で調べておられるのでしょう。どんどん高度になってきています」
「そうか……本当に彼女には驚かされる」
「ところで、どこから嗅ぎつけたのかアリアーナ様の義妹の婚約者、バラード・レイドル子爵令息が必要な布を買い占めるなどして妨害してきているようです」
「アリアーナはそのことに気がついているか?」
「いいえ、気がつかれないように処理しております」
「――そうか。引き続きそのように手配してくれ。だが、バラード・レイドル子爵令息は、まだアリアーナのことを諦めていないのか」
指先で何回か机を叩き、ルドルフがいつになく好戦的な光を瞳に宿して口の端を歪めた。
「どうなさいますか」
「何があろうと彼女の事業の邪魔をさせるな。監視を続け、隙を見せたなら徹底的に潰せ」
「――かしこまりました」
ベルマンの背中を見送り、ルドルフは机に視線を落とす。
アリアーナが提出した書類に書き込まれているのは、流麗でいながら丸みを帯びていてどこか可愛らしい彼女の文字だ。その文字をそっと指先で撫でたあと、ルドルフは書類に目を通していくのだった。
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