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プロローグ
しおりを挟む「大丈夫ですから」
いつだって、その背中が、私を守ってくれていた。
今だって、絶体絶命のピンチの中、その背中が私を守ってくれた。
でも、大丈夫なはずがないよ……。
私の代わりに呪いを受けてしまった守護騎士レナルド様を取り囲む薄緑色の光は、洞窟の奥底で、骸骨を兵隊みたいに扱う死霊術師と対峙した時のそれに似ている。
だってこれは、ただの呪いじゃない。
人間が到底抵抗することなんて、不可能な種類の、絶対的な呪いだ。
「――――大丈夫ですから」
守護騎士レナルド様はもう一度、そう言った。しかも、ほほ笑んで。
いくら、聖女を守るのが守護騎士に与えられた使命だと言っても、これはやりすぎだと思う。
いつの間にか、私は泣いていた。
だって、レナルド様だけなのだもの。
そう、レナルド様だけなのだ。
異世界に呼び出された上に、魔人が現れない平和な期間を担当するだけの、中継ぎ聖女だってぞんざいに扱われていた私を、正面から守ってくれた人は。
「思ったよりも、抵抗が激しかったな。そもそも、聖女にかけるための呪いに、ただの騎士がここまで抵抗するとは予想外だ。やはり聖女の…………な、だけあるな」
レナルド様が、「早く、封印の箱を稼働してください」と、剣を支えにして立ち上がる。
その体を、薄気味悪い淡い緑色の光が包み込んでいく。
無理をすればするほど、抵抗するための魔力は消費され、呪いにその体が蝕まれる。
それでも、目の前の災厄をそのままにしていることもできない。
「――――シスト!」
その瞬間、私の左肩、少し上の空間でクルクル回っていた箱が、ガチャンと音を立てる。
私が、聖女である理由。
中継ぎ聖女には必要がないと、いつも冷笑を浴びせられていた封印の箱。
神聖なはずの封印の箱を、プレゼントみたいに見せていた赤いリボンがほどけて、ヤギみたいなツノと鳥みたいな手を持つ魔人の腕に絡みつく。
「――――100年なんて、魔人にとっては、ほんのひと時だ。それでも、力の回復には、少し足りない。まあ、聖女を手にかけることはできなかったが、半分は目的が達成できたようだ。良しとするか」
そのまま、魔人は、赤いリボンを引きちぎって姿を消す。
クルクルと私の斜め上で回る箱は、何事もなかったかのように、再びリボン付きのプレゼントの箱みたいな姿を取り戻した。
ドシャりと、重いものが地面に崩れ落ちる音がする。
その音とともに、金属がガチャリと音を立てる。
「……ご無事ですか。聖女様」
「レナルド様……。はい、無事ですよ」
泣きながら私は、守護騎士レナルド様に縋り付いた。
私には、味方が少ない。
幸せだった毎日は、急に終わりを告げて、知り合いの誰もいない世界に呼び出された時の絶望が、いつの間にか、耐えられる程度の寂しさになったのは、レナルド様がいてくれたからだ。
「――――すぐに、王都に戻って、魔術師と剣聖に連絡を」
「その前にすることがあります」
「聖女様……。時間がないから」
私は、覚悟を決める。
レナルド様にとっては、不本意に違いないけれど、この力を使うのは、たぶん私の人生で今しかないように思えた。
聖女の初めてには、大きな意味がある。
初めての魔法。
初めての戦い。
初めての祈り。
すべてが、2回目以降のそれと違い、神聖な意味を持つのだ。
「――――え?」
全身をすでに取り返しがつかないくらい呪いで蝕まれて、焦点が合わなかったレナルド様のラベンダー色の瞳が、大きく見開かれる。その瞳には、黒髪に黒い瞳。この世界の人たちに比べると、シンプルな造形の私の顔が映り込む。
「ごめんなさい」
聖女の口づけは、たった一人にしか与えられない。
中継ぎの聖女といっても、聖女の最初の口づけだけは、王族も欲しがった。
それを守ってくれていたのも、レナルド様だから……。
初めての口づけって、甘いのだと思っていた。
でも、少し塩辛い。それは、私がべちゃべちゃになるくらい、泣いてしまっているからだろう。
申し訳ないくらい、ひどいことになっているだろう私の顔とは対照的に、足元に浮かんだ桃色の光を帯びた魔法陣は、かわいらしくて神聖な雰囲気だ。
中心に描かれているのは、聖女を表す暁に光る一番星。
上には太陽、下には月が描かれて、周囲を取り囲む円は、世界を表す。
聖女として受けた教育で、習った通りの魔法陣。
聖女の固有魔法陣は、聖女の初めてだけ、その姿を現す。
断末魔の悲鳴のように、気味の悪い地の底から聞こえるような音を立てながら、レナルド様にまとわりつく呪いが解けて力を失っていく。
でも、魔力消費は予想を大きく超えていて、恐ろしい勢いで、魔力が体から流れ出していく。
「やめてくれ! このままでは、リサまで」
唇が離れた瞬間、久しぶりに呼ばれた、懐かしいその名前。
聖女のことを名前で呼ぶのは、この国では禁忌とされているから。
そのせいで、レナルド様が私の名前を呼ぶ機会なんてなかったのに、ちゃんと覚えていてくれてうれしい。
『そ、理沙。このままじゃ、二人とも助からない。それは僕も困るんだけど』
プレゼントボックス、ではなく封印の箱が私に話しかける。
『聖女がこの世界からいなくなるのだとしても、理沙は守護騎士を助けたい?』
――――助けたいに、決まってる。
そもそも、私は聖女なんかじゃない。
つい数年前まで、ただの女の子だった。
そう、私は聖女なんかじゃない。ただの理沙だ。
私は、決意を込めて、どこか緊張感のない声音の、封印の箱、シストを見つめる。
『……いいよ? それなら助けてあげる。その代わり、このあと、すご~く大変だと思うけど、がんばってくれるよね?』
ぴょこんと、プレゼントの箱の三角形にとがったリボンが、白いフワフワの耳に変わる。後ろ側からしっぽが現れて、箱はあっという間に、空に浮かぶ小さな二足歩行の猫に変わった。
もう一度、現れた魔法陣は、今度は桃色の光を強めて、私たちを包み込む。
そのまま、私はぼんやりと、自分の目の前に表示されたステータスの『聖女』という文字が、桃色の光の中で、猫の爪にがりがりと削られて消されていくのを見た。
私が意識を保っていられたのは、残念ながらそこまでだった。
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