見つめていたい

稲葉真乎人

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03.離婚報告

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「ただいま」の声と共に、ガラス戸を開けてバッグを玄関の板場に置くと、留守番をしていた祖父母が現れ、笑顔で迎えてくれた。
秀一は、ひと言だけ「ただいま」と言うと、玄関間に、笑みを浮かべながら並んで立つ祖父との会話もそこそこに、祖母の文美に言った。
「お祖母ちゃん、墓参りに行きたいんだけど、花を貰える?」
祖母は一瞬、訝るような表情をした後、直ぐに笑顔に戻る。
「ああ、いいよ、直ぐに摘んで来てあげよう」
「お祖父ちゃん、お母さんは自動車を置いて行っているかなぁ?」
「ああ、待て……、ほら、鍵だ」
祖父の良作は、階段の下の電話台の抽斗から、鍵を取り出すと秀一に手渡した。
「裏の車庫?」
「いや、隣の吉岡さんの駐車場を借りとる、裏から行けば分かる」
「分かった、ありがとう」
「墓に参ったら、直ぐに戻るんか?」
「うん」
文美が仏前用に、畑の隅に咲かせている花を摘み、小さな花束を二つ作って持ってくると、新聞で包んで、スーパーのロゴの見えるナイロン袋に入れて手渡す。
良作は、線香と蝋燭の入った小箱を、秀一に手渡しながら声をかける。
「マッチも入れといたぞ」
「ありがとう、じゃ、直ぐに戻るから」
母親の軽自動車を借りて、子供の頃から通い慣れた菩提寺に向う。

黒い御影石の墓の花挿しには、家族が春の彼岸に参ったときに挿げた花が、枯れてしおれていた。
あまり汚れていない墓石の周りを掃除して、花を挿げ替え、手を合わせる。
特に、何か想いや願いがある訳ではなかった……。どうして墓参りをする気持ちになったのかも、よく分からなかった……。
誰にと言うのでもなく、「すみません」、そんな気持ちで目を閉じていた。

その夜、総合病院に勤める父の浩作も、銀行勤めをしている妹の智子も、調合薬局に薬剤師として勤めている母の美佐江も、早く帰宅した。
夕飯の下拵えをしていた文美の後を引き継ぎ、美佐江と智子が手際よく調理を進めていた。
「ねぇお母さん、お兄ちゃん、元気そうじゃない、堪えてないわね、安心したわ」
「二十歳そこらの若いひとじゃないのよ、部下もいる三十過ぎの立派な大人だから」
「そうだけど、自分で結婚を決めて、半年も経たずに離婚をするなんて、分別の無い若いひとみたいじゃない?」
「結果はそうだけどね、縁だから、それに縁談を頂いた野間さんは、お父さんのお友達で秀一の保証人でしょ、秀一は仕事熱心で慎重な方だから、のんびり構えているうちに話が進んだのよ、自分で良く考える時間はなかったんじゃないかしら……」
「そんなの、お母さんは、離婚するのが分かっていたみたいじゃない?」
「今になって思えばね、少し違和感はあったわ、でも、秀一が自分で決めたことだし、遠くに居(お)ったんだもの」
「まあね……、お兄ちゃん、今まで好きなひとはおらんかったんだろうか?」
「それはいたでしょ、でも、高校を出るまでのことしか分からないからね」
「大学時代も、ガールフレンドはおらんかったんだろうか?」
「そうね、実習とかがあっても、休みが取れると直ぐに戻ってきて、健吾くんの牧場を手伝いに行っていたから、いなかったんじゃないかしら……」
「そうね、じゃぁ、また探すんだね、素敵なひとがみつかればええけど……」
「また、京都の下沢さんのお宅にお世話になるでしょ、お母さんは安心しているわ、下沢さんの奥さんもご主人も、面倒見のいい方たちだし、世の中の酸いも甘いもご存じの方だから」
「お兄ちゃん、自分で探せるのか心配だわ、学生時代は勉強、勉強、今は仕事、仕事なんよ、それを理解してくれる女性なんておるだろうか?」
「智子はどうなの?」
「わたしは、お母さんたちの子供だから、結婚相手の仕事には理解はあるよ」
「そう、じゃぁ秀一も諦めることはないわ、きっと好いひとが現れるわよ、さぁ座敷の方に行って、卓袱台の上を拭いて準備をして頂戴」
「お祖父ちゃん達にも、声を掛けてくるわ」

秀一は盆休みに帰省して以来、結婚、離婚と、落ち着くことがなく、正月にも戻っては来なかった、家族六人が揃っての食事は久しぶりのことだ。
夕食をとりながらの団欒は和やかに過ぎた、両親も祖父母も妹も、誰ひとり秀一の離婚には触れず、秀一は自分から「離婚のことは心配をかけてごめん」とだけ話した。
祖母の文美は、「今度は相手さんを、よぉ見て、考えてから決めなぁいけんで、秀ちゃんの嫁さんを見るまでは、長生きをせにゃいけんって、お爺さんと話しとるだけえな」
「うん、いい経験をしたと思っているから」
父の浩作が言った。
「それより、新しい職場に慣れることが第一だぞ、本社から来るとなりゃ、みんな色んな興味を持って待ち受けとる筈だけぇなぁ、みんなが、お前の一挙手一投足を見とると思わなぁいけんぞ」
「うん、分かっているよ、本社のときから、出先の支店や営業所の人たちには、考えて付き合って来たつもりだから、そんなに敵はできないと思っているけど」
「自分が思いもせんことで、あらぬ反感をかったり、妬まれたりすることもあるけぇなぁ」
「確かにね、本社の時には、少し目立っていたから、でも、僕が離婚をしたことで、逆に親近感を持ったという同僚もいるから、心してやるよ」
「そうか、下沢さんにも、迷惑をかけんようにせないけんで」
「うん、優一くんが家を出ているからね、下宿をしている間は、彼に代わって、息子のつもりで風呂掃除なんかも手伝おうと思っているから」
「宜しゅう伝えといてくれ、また、手紙を出しておくけどなぁ」
智子が言った。
「お兄ちゃん、何時まで休暇を貰っとるん?」
「日曜日までだよ、月、火と、前任者と引き継ぎをして、正式には四月一日に着任挨拶をすることになっているんだ」
「何時、京都に帰るん?」
「明日は、健吾くんの処で英太くんと会って、夜はバーベキューに呼ばれとる、良かったら智子も一緒にって言われているけど、どうする?」
「ほんと、行く。何か差し入れを持っていくわ。私は飲まんけぇ運転してあげる、その方が安心して飲めるでしょ?」
「ああ、助かるな」

高校時代からの親友、岡谷健吾は秀一と同様、獣医師を目指していた。
健吾の父は、奥さんと義弟と手伝いのひと達で、搾乳牛を五十頭ほど飼育している酪農家だ。
近隣の町内の客と数店のスーパーマーケットに、牛乳を納めて生計を立てていた。
健吾が高校三年になる前の冬、健吾の父が、くも膜下出血で倒れ、後遺症のために、従来通りの仕事ができなくなった。
健吾は大学進学を断念して、高校卒業と同時に岡谷牧場を手伝うことになった。

秀一が高校に入学した頃、体調を崩して総合病院に来院した岡谷牧場主の岡谷太郎を、秀一の父の由井浩作が主治医として担当した。
浩作と太郎が、定期的な診察の機会に、互いの息子たちが同じ高校に通っていることを知り、気心を通わせたことが、秀一と健吾の付き合いを深くした。
もうひとりの親友、本田英太は、内科医だった父の跡を継ぐつもりで医学部に進んだのだが、大学在学中に父親が肝硬変で急逝した。
英太の亡くなった父と由井浩作は、町医者と連携先の総合病院の関係で、知り合いの仲だった。
医師になった英太は、今は市内の総合病院で内科医として勤務している。
高校時代、三人の仲間は勉強の合間、自分たちが楽しむためのバンドを組み、健吾の家の飼料倉庫の傍の、農機具置き場になっていた納屋で、気分転換の演奏を楽しんだ。
将来に夢を持つ三人は、高校に入ってからは部活に所属していなかった。
中学時代、通う学校は違っていたが、陸上競技をしていたことが共通していて、三人とも体力はある方だった。
バンド演奏に飽きると、牧場の仕事を手伝って、牛舎の掃除や乳牛の世話をした。
そんな日には、健吾の父が大瓶に牛乳を詰めて、「手間賃だ」と言いながら、秀一と英太に持たせて帰した。
獣医を目指していた秀一は、高校在学中から、父親が倒れた岡谷牧場に行き、健吾と共に牧場の仕事を手伝った。
学生時代も、帰省すると必ず牧場に来て、健吾の手助けをしていた。

東京での秀一の結婚式には、健吾も英太も仕事をやりくりして出席していた。
離婚のことは、電話とメールで二人に報告していたが、離婚後に顔を合わせるのは初めてになる。
秀一は親友に何と言えばいいのか、戸惑いながらも、妹の智子が一緒なら話せるような気がしていた。
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