秘められた慕情

稲葉真乎人

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時を経て

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颯太の歌う〈アンチェインド.メロディー〉は、聞く者を無言にした。
甘い歌声は、女性たちの心を虜にする。
颯太は、はっきりとした言葉で美紗子に告白をしていないことに、少し心苦しさを感じていた。真摯に歌詞の内容を受け止め、歌唱にその思いを籠めた。
この場に居る颯太の会社のメンバーは、英語に堪能であることが入社条件にある。
美紗子の研究所も、英会話に堪能であること、更にドイツ語かフランス語の何れかを読み書きできることが、入社時の必須条件になっている。
全員が動きを止め、颯太の歌唱に耳を傾ける。
歌詞に籠められた想いが、颯太の想いとして心に届いて行く……。
颯太は視線を美紗子に向け、語り掛けるように歌う。美紗子の瞳が潤む……。
リフレインの〈I need your love, I need your love, God speed your love to me〉と歌い終えた時だった。
中村静香と美紗子の同僚の女性が、美紗子を立たせ、ステージに行くように背を押した。美紗子は促されるまま颯太の傍に行くと、思い余ってその胸に身を寄せる。
長身の颯太は、俯いて表情の見えない美紗子の背に優しく腕を回す、自分の口元辺りに黒髪だけが見える。
美紗子の想いに応える様に、颯太が髪にそっと口づけをするのを、全員が笑顔で見守る。
ふたりを祝福する温かな拍手が、ランダムなリズムからテンポの良い一つのリズムを刻み、部屋中に響いた。

南村日奈子と並んで座っていた恋愛中の山際伸也は、呟くように言った。
「日奈ちゃん、ふたりの歌って、お互いに告白しているって感じだよね……、ミュージカルだよ」
「そうね、年齢的なものもあるし、長い間交流が無かった訳でしょ、改めて言うのもね……。良いんじゃない、結婚式はしないって話しておられたから、みんなの前で告白して、わたし達も祝ってあげられるんだから……」
「それにしても、選曲はベストマッチングだよな……。僕には歌えない……」
「伸也さんは言葉で伝えてくれたから、わたしはそれで良かった、嬉しかったわ……」

颯太と美紗子が「そろそろ帰りたい」と告げると、出席しているみんなは、施設の宿泊施設を予約しているらしく、もう少し残ると言って見送ってくれた。
颯太と美紗子は、帰宅時間が遅くなることを予測して、大阪駅近くのホテルを取っていた。
美紗子も、両親には事情を話してホテルに泊まることを伝えていた。二人は大阪駅まで戻り、ホテルに入った。

翌朝、ホテルのレストランで朝食をとりながら、ふたりは前夜のカラオケのことを話題にしていた。
「美紗ちゃんの歌を初めて聞いて、凄く安心できたな、多くを語ってくれなくても、あの歌は胸に響いたよ……、美紗ちゃんの気持、僕の理解を超えるものだった……」
「どうして?……。颯ちゃんの歌だって、わたしの胸に強く響いたわ。わたしも凄く気持ちが落ち着くのを感じていた……。颯ちゃんがわたしを見ながら歌ってくれた時は夢みたいだった、嬉しかった……」
ふたりは二杯目のコーヒーを美味しいと言いながら、緩やかな時を過ごす。
暫くして、颯太が美紗子に視線を送る。
「思うんだけど、僕は転勤する家で育って、幼少期の東京と、幼稚園から小四までの広島と高校卒業までの岡山は別として、今回の研修で広島には一年、大阪も一年居ただけなんだけど、両方の社内の仲間とは何年も仲良くしていたような気がしているんだ。
本社に居たら経験できなかったし、みんなのお陰で、美紗ちゃんと結婚に踏み切れた気がしているんだ……。転勤家族の生活は何となく中途半端な気がしているんだけど、今回のことで、全ての転勤を拒否することも無いかなって思ってる……」
「そうね……、颯ちゃんは故郷の話しをよくするけど、その土地のことを深く知らなくても、お友達が居れば故郷って感じがするわね……。岡山のみんなが、何時でも戻って来て良いよって言ってくれた時、そんな気がしたわ……」
「そうだね、岡山で美紗ちゃんと出逢って、その頃の思いをずっと持ち続けられた……。岡山は忘れられない場所だから故郷なのかな……。あの頃から美紗ちゃんが僕のことをどんなに思ってくれていたのか、きのうの〈You raise me up〉を聞いた時、何となく申し訳ない気がしたんだ……。僕は、それに応えられるのだろうかって……」
「どうして?」
「うん、あの頃の美紗ちゃんはとてもシャイで、思っていることを上手く話せない女の子だったけど、今の美紗ちゃんは成長して変わっているよ。おとなになって、自信をもって生きているから……、実は驚いているんだ……。あの頃の美紗ちゃんからは想像できない……」
「だって、颯ちゃんはわたしにとって、ずっと大人だったし、何でも良くできたでしょ……。颯ちゃんのお嫁さんになりたいと思った時から、わたしもしっかりしなきゃって思い続けて来たから、颯ちゃんのお陰なのよ……」
「そんなことを言えるようになったのが、変わった処だと思う……。僕には、そんなにはっきりと想いを口に出せないから、なんか申し訳ない気持ちで落ち着かないんだ……」
「そんなことないわ、颯ちゃんだって、あの歌をあんなに心を籠めて歌うなんて……、後でみんな話してたわよ、よく照れないで歌えるなって……」
「そうかな、僕の歌える数少ない曲のひとつだから、何度か歌っているけど……」
「颯ちゃん自身の気持が、あの歌詞に籠っていたからよ……。あれって、メロディは緩やかで颯ちゃんの声も円やかだったけど、わたしを見つめてあんなに切々と歌われたら、涙が出ないほうがおかしいでしょ……。あの歌詞を文字にしていたら、ひと前では読めないかも知れないわね……、でも、本当に嬉しかったわ、今、こうして居ることも夢じゃないかって思っているのよ……」
「夢じゃないよ。僕も信じがたいけど……。長いこと待ったからね、これからは何処に行くのも一緒だよ……そうしよう?……」
「そうね、長かったものね……」
全面硝子の大きな壁面の向こう側には、緑豊かな植栽が森の様に見える。
ふたりは静かなホテルのレストランで、穏やかな気分に浸りながら、時の流れを心地よく感じまながら過ごしていた。
美紗子が、緑の森に視線をやりながら、ひとりごとのように呟く。
「わたしと颯ちゃんは、小学校六年から高校卒業するまで共に過ごしてきたのよね……、長く離れていたけど、こうして結婚できた……。
岡山に行った時、三奈ちゃんも恭子ちゃんも、幼馴染の福井君や由井君と結婚していたでしょ……。生まれ育った場所じゃないけど、わたし達も幼馴染だわよね……」
そう云い終えると視線を颯太に戻す。
「そんなこと考えていたの……。確かにそう云えばそうだね、戻ることの無い故郷だけど……。僕らも幼馴染同士の結婚なのかな……」
「帰る家は無いけど、中学高校と一緒に過ごしたお友達はずっと居てくれる……。何時でも戻って来いよって言ってくれたのよ、あのひと達が居れば、岡山がわたし達の故郷でいいんじゃないかしら……」
「どうして故郷のことを?」
「颯ちゃんが故郷に拘っている気がするから……」
「確かに……でも、ちょっと違うと思う……。今まで話したことは無いけど、聞いてくれるかな……」
「ええ。いいわよ聞かせて……」
「僕が故郷を気にしているのは、親の転勤で一か所に住むことが出来なかったことから来ているんだ。どうしても、その土地に心から馴染むことが出来なかったから……。岡山に住んでいる友達は、住んでいる土地に愛着があると思うけど、僕には東京も広島も岡山でも愛着心は生まれなかった。ずっと落ち着かない学生生活だったような気がしているから……、東京でもない広島でもない岡山でもない、ずっと気になっているんだ。こういう家族の生活って、どうなのかなって。
僕の家族は仲が良かったから、父の転勤に付いて行ったけど、兄も僕も高校進学や大学進学を考えて、両親とは別れ別れに暮らすことになったからね……」
「颯ちゃんは、転勤はしたくないのね?」
「できればね、そう思って選んだ職場と仕事なんだけど……。美紗ちゃんは、どうなの?」
「そう訊かれると同じかも……、でも、父の転勤のお陰で、颯ちゃんに会えたわけだから、その意味では、そんなに嫌な思いは無いわ……」
「意外とpositive attitude(前向き)なんだ……」
「maybe so(そうかもね)……」
「ほんとうに変わったね……外見は同じだけど、おとなの女性になったんだな……」
「わたしもそう思うの……。でも、さっきも言ったけど、颯ちゃんのお陰だと思ってる……今までずっと頑張って来れたから……。自分の気持を素直に表現できるようになりたいと思って来たから……」
「十分できているよ。今の美紗ちゃんの気持は僕に伝わっているから……」

月末最後の金曜日。
美紗子はJR京都線茨木駅から、快速電車で京都駅に向かった。京都駅で颯太に迎えられ、新幹線に乗り換えた。
新幹線は、30分程で11時には名古屋駅に着く。
ふたりはビルの一階フロアから、待ち合わせていた太閤通口に向かう。
其処には、市道駅西第一号線を背にして桐谷勝朗と旧姓沢木佳那子が並んで待っていた。
美紗子と佳那子は無言のまま暫し見つめ合うと、颯太と勝朗が見守る中、互いに抱き合った。ふたり共、再会の喜びを言葉にはできなかった。

ふたりは、互いに颯太と勝朗を紹介した。勝朗は笑顔で美紗子と颯太を見た。
「ビルの中にも食事処は在るんだけど、落ち着かないから、道路の向こう側の店を予約してあるから、二、三分だから歩きましょう……」
佳那子が続けて美紗子に訊く。
「ねえ、うなぎは大丈夫よね?」
「ええ、でも、そんなに贅沢しなくてもいいのよ」
「なに言ってるのよ、わたしは嬉しいんだから、黙って接待を受けてよ。ここは私の地元なんだからね……」
「なんか悪いわ……、そんなつもりはなかったのよ……」
「どんなつもりだったの?」
「心配をかけたまま別れたから、気になっていたの、心配を掛けているんじゃないかって……」
「そうよ、心配だったわ、結婚式にも来られないって言うし……」
「ごめんね、会社で大変な時期だったの……」
「いいのよ、気になんかしてないし……」
鰻専門料理店の前に着くと、勝朗が指差した。
「皆部さん、ここです、どうぞ……」
店内に入ると奥隅の四人掛けテーブルに案内された。
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