秘められた慕情

稲葉真乎人

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思いを籠めて

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中国地方を旅して戻った颯太と美紗子は、夫々の職場とプライベートの身辺整理に時間を費やすことが多くなっていた。

颯太が出席した当年度最後の大阪支店物件プロスペクト会議では、当期受注決定を見た物件の成果報告と、来期以降も受注工作を継続する案件の資料が配布され、選定と受注工作の検討が行われた。
各案件の検証と検討を経て決定事項を確認し、今年度のプロスペクト会議は締め括られた。
颯太にとっては大阪支店での最後の物件プロスベクト会議となり、勤労部教育担当に提出するレポートも最後になる。
会議が終り、ミーティングルームを出ようとしていた時、声を掛けられた。
声の主は、会議のメンバーで颯太が声掛けをした食事会の取り纏めをしている、支社.設備リニューアル担当の森脇洋一郎だった。
「皆部さん、いいですか?……、ちょっとお茶でも、ご一緒できませんか?」
「構わないけど……、支社に戻らなくて良いのかい?」
「いや、いちど戻りますけど、ちょっと話したいことがあるので……」
「いいよ、外に出るかい?」
「ええ、隣のビルの一階のコーヒースタンドで……。時間は取らせませんから……」

森脇は、食事会のメンバーで送別会を計画していた。次の金曜日の終業後、美紗子を同伴して堂島にある〈コラソン.カリド〉と云うスペイン料理の店に来て欲しいと云う内容だった。
食事会のメンバーには、世話になったと云う思いが颯太にもあった。感謝の気持ちを伝える良い機会だと、快く森脇の申し出を受け入れた。

金曜日の宵に集まっていたのは、森脇洋一郎、支店総務部秘書課の中村静香、支店開発事業本部の木沢芽衣子、支店医療環境担当部門の山際伸也、支店公共施設担当部門の三輪健司、支店総務部図書管理担当の南村日奈子の六人の食事会のメンバーだった。
洒落たフランス料理レストランや和風会席料亭を選ばず、比較的気楽に料理と会話を楽しむことのできる、スペイン料理を選んでくれていた。
颯太は、彼等の配慮とセンスに感心すると同時に、嬉しく思いながら、良い仲間だと、改めて感謝の気持ちを深くした。

東京本社に戻る颯太に対して、特別に何か言葉を贈ると云うことは無く、過去の食事会の思い出エピソードに盛り上がり、後半は、ホテルのレストランで美紗子を見た時の話しで盛り上がった。
八時過ぎにコラソン.カリドを出たメンバーは、タクシーで新大阪駅近くに在る、会社が管理している社交倶楽部を備えた研修施設に移動した。
大理石調壁面の七階建て専用ビルは、JR京都線沿線のホテルの近くに在る。
四階と五階は大小の会議室、六階七階は宿泊施設があり、グループ会社の研修に利用される。
一階には駐車スペースがあり、社交倶楽部の在る二階三階には、二階に寿司店、会席料理店、洋食レストラン、ティーラウンジとスタンドバー、囲碁将棋用の和室と麻雀専用室もある。
三階にはカラオケ専用ルームが三部屋と小宴会場が設けられていた。
グループ会社の社員であれば、誰でも総務課に利用目的と料理などを事前申請予約をすれば利用できる。利用申請の三割は接待の為に使われ、社員の歓送迎会や親睦会に利用されることが多い施設である。
各種の研修や教育には、常にどこかの関係会社が利用している施設でもあり、この日のメンバーも、研修などで何度か利用経験がある馴染みの場所である。

颯太と美紗子はメンバーに伴われ、三階のカラオケルームに案内された。
颯太は、食事会のメンバーと、何度かカラオケ店に行ったことはあったが、会社の倶楽部利用は初めてだった。
中村静香が〈カラオケルーム・#2〉と書かれた部屋のドアを開けて、颯太と美紗子を先に部屋に入れる。

部屋に入るなり、一斉に歓声があがる。美紗子は一瞬驚いて、颯太の腕にすがる。
「美紗子さん、結婚おめでとう……」
「桜井さん、おめでとうございまーす……」
「おふたりともおめでとうございます」
カラオケルームは思ったより広く、ステージと三卓の円卓の周りに十数人は座れそうな、小規模なホールと云った作りだった。
部屋には美紗子の研究所の所員と、親しくしている他の部所の友人たち六人が同席していたのは意外だった。

中村静香は森脇に相談を受けると、女子大時代の友人の伝手を辿り、美紗子の会社に就職している先輩を介して、研究所の女性と連絡を取っていた。事前に面会して事情を話し、参加を呼び掛けて準備をしていたのだ。
テーブルにはウイスキーや缶ビール、炭酸飲料やスナック菓子、チーズ、サラミ、魚介の燻製、チョコレート菓子、コーヒーサーバーも準備されていた。
カラオケパーティーは、取り立てて二人の結婚祝に拘るわけでは無く、二人と交流のあった仲間たちが、共に楽しい時間を過ごすと云う雰囲気に包まれていた。

カラオケパーティが始まると直ぐに、颯太と美紗子は気付いていた。
颯太の会社のメンバーも美紗子の会社の同僚も、明るく楽しい楽曲を選曲していた。颯太と美紗子の今日までの恋愛事情や、ふたりの心情を察して選んだラブバラードを中心に、歌唱の前には、短いコメントを付けて歌ってくれていることを……。

順番が回って来た美紗子が、職場の仲間に薦められて歌ったのは、ZARDの〈きっと忘れない〉だった。
中学生の頃、思いを伝えられなくて、自室でこの曲を聞きながら、歌っていたと美紗子はコメントした。
ZARDは美紗子の兄たちが好んで聞いていた。美紗子は兄たちから、ボーカルの坂井泉水に容姿が似ていると言われていた。当時から颯太も似ていると思っている。
美紗子が中学生時代の思い出の曲を歌うのを聞いた颯太は、美紗子の歌声は坂井泉水と云うより、颯太の母が好きな女性歌手の〈由紀さおり〉に似ていると思った。
次に指名された颯太は、〈さとう宗幸〉の〈人はみな旅人なのさ〉を選曲した。さとう宗幸も、母が良く聞いていた男性歌手だった。
転勤する家庭に育った自分が、思春期に、転校先で心を許し合える親友を作れないジレンマに悩んでいた頃、この歌の歌詞に共感を覚えて口ずさんでいたとコメントした。
颯太はジャズもバロックも聞くのは好きだが、ひと前で歌うことはあまりなかった。
中学三年の年の暮れ、井村恭子の父が不動産管理をしているカラオケ店が、居抜きで売りに出ていた。
昼間なら使っていいと言われた恭子が、陸上部のフィールド部門のメンバーにお別れ会を呼びかけ、その時に、初めてカラオケをバックにひと前で歌ったのがこの曲だった。

二巡目に歌う番が来た時だった。
美紗子の会社の先輩女性が、会社対抗で交互に歌おうと提案した。
演歌には演歌、ポップスにはポップス、洋楽には洋楽と、互いに譲らず熱唱を繰り返していた。
次は洋楽で、となったとき、美紗子の順番が来た。その時、美紗子の研究室の仲間たちから声が掛かった。
「桜井さん、あの曲がいいんじゃないですか……僕は心打たれたし、聞いてもらうべきだと思いますけど……」
「そうよ、皆部さんも居られるし、歌いなさいよ……」
木沢芽衣子も、南村日奈子も、中村静香も拍手で促した。美紗子はマイクを受け取り狭いステージに立った。
「わたしは高校生の頃に颯太さんを好きになりました。何時の日にか、お嫁さんになれたらいいなって、そう思いました。高校を卒業して、大学進学と同時に颯太さんとは別の地で暮らすことになりました。その時から今日まで、わたしを支えてくれた曲です……」
静かに語る美紗子のコメントに拍手が起こった。
美紗子は〈You raise me up〉を切々と歌い上げた。
何人かの女性が眼を潤ませたのは、美紗子の、ひた向きに信頼を寄せる心情を察してか、慕い続けた真摯で健気な想いに共感してなのか、抱き続けた思いを成就した美紗子への共感なのか、美紗子の歌声は聞く者の心を揺さぶる。
初めて〈You raise me up〉を聞いた颯太は、美紗子の最初に歌った曲とは異なる、情感豊かな歌唱が意外だった。同時に美紗子の一途な自分への深い想いを感じ取っていた。

颯太が歌える曲のレパートリーは多くは無い。クラシックやジャズばかりを聞いていた颯太にとって、歌うことにあまり興味は無かった。
それでも過去には歌わざるを得ない場合があった。
颯太がよく耳にしていた歌手は、母が好きな〈さとう宗幸〉。父がカーステレオに入れていた〈アンディ.ウイリアムス〉。自分が持っているジャズシンガーの〈ジョニー.ハートマン〉くらいである。
歌う機会に直面して颯太が選ぶ曲は、さとう宗幸の〈人はみな旅人なのさ〉〈青葉城恋唄〉、洋楽の〈Unchained Melody〉ジャズソング〈On The Sunny Side Of The Street〉〈I Thought About You〉の五曲が、ひと前で歌える曲だった。
中国支店の時に食事会のメンバーと行った店では、〈Unchained Melody〉を歌った。フォーク好きの榎木雅子から、颯太の声は〈さとう宗幸〉に似ていると言われた。
大阪支社の食事会メンバーとカラオケに行った時には〈On The Sunny Side Of The Street〉と〈Unchained  Melody〉を歌った。
森脇洋一郎は、颯太の歌声を「アンディ.ウィリアムスみたいな声ですね、甘くて女性に好かれるでしょ」と言った。
本社飲み会で歌った時には太田垣設計部長から「パット.ブーンを思い出させるなー」と言われた。
〈Unchained Melody〉を覚えたのは、DVD〈ゴースト.ニューヨークの幻〉のサウンドトラック、ボビー.ハットフィールドの歌唱だった。 
歌詞を自分でも和訳し、ネットでも和訳を確認して心を惹かれた。美紗子とのことが意識の何処かにあったような記憶がある。
思い入れのある曲として、機会があれば歌った。後にアンディ.ウィリアムスもパット.ブーンも歌っていることをネット配信で知った。確かに角の無い円やかな声質は、どちらにも似ていると云える、颯太はパット.ブーンの方に似ている様な気がしている。

森脇洋一郎が颯太の顔を見る。
「皆部さん、想いを伝えるのには、あの曲じゃないんですか?……」
「あれって?……」
「決まっているじゃないですか?、アンチェインド.メロディーですよ……」
「そうですよ、あの歌を聞いた時、わたしも心を打たれたんです。皆部さん、美紗子さんに聞かせてあげて下さいよ……」
中村静香もそう言って薦めた。その時には颯太の返事を待たずに、三輪健司が選曲をインプットしていた。
 
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