秘められた慕情

稲葉真乎人

文字の大きさ
上 下
43 / 55

信じるままに

しおりを挟む
颯太が設計部の部屋に戻ると、出勤最終日の設計部には六割くらいの部員しか居なかった。半数近い部員が早々と休暇を取得して年末年始の休暇に入っていた。
設計部門の仕事は、かなり細かな工程計画に従って進める案件を扱う場合と、特定案件に関わっていない時には、自発的な創意に基づく改善や研究に取り組む場合がある。
休暇前から早めに作業調整に入り、有給休暇を取得して、年末年始休暇や夏季休暇を長期化するのは慣例となっていた。

颯太は、パーテションで仕切られた部長席ブースの応接ソファーに、太田垣部長と向かい合って座った。
「残りは僅かだが、ほんとうにご苦労だったな。しかし成果は十分に上げたし、大阪でのレポートも経営企画部の評価は高いそうだ。胸を張って帰って来られる……」
「ありがとうございます。でも、此処には戻れないと云う事ですよね。驚くなと言われましたけど、正直驚いていますよ……」
「以前話しただろ、特別に選抜されたんだ、荒木さんが言われたように、全社的な技術向上のために、一段高い位置から俯瞰的に当社の技術力を見ろと云う事なんだ。
現状より幅広い分野を知ることが求められる大変な仕事だが、遣り甲斐はあるぞ。
会社としても、技術屋としての見地から経営に参画して欲しいと期待しているんだから……。まあ、ベーさんは、今まで通りのスタイルで普段通りにやれば、それで自然と成長できると思っているけどな……」
「なんか、どんどん前にレールが敷かれて行くようで、変な感じですよ。ビジネススクールも中国支店派遣や大阪での研修も、マイペースでは無い気もしていますけど……」
「まあ、そう思うのも暫くの間だよ、そのうち自分のペースやスタイルが、自分の物として自覚できる時が来るから、焦ることはないよ……」
「そう言って頂けると、少し気が楽になります……」
「そうだ、力むことは無いからな……。それより、要らん世話なんだが、身を固めることに関してはどうなんだ?」
颯太は太田垣部長の顔を直視して、待っていたかのように、躊躇することなく話し始めた。
「大阪から来てもらおうと思っているんです」
「大阪支社か、支店か、それとも社外か?」
「岡山に住んで居た頃の、同級生だった幼馴染の女性です、大阪の製薬会社で、研究開発の仕事をしています。偶然再会しました」
「それで、プロポーズを?」
「それは、まだですが……」
「べーさん、幾ら最近の結婚年齢は高くなったとは云え、若くは無いんだぞ……」
「さっきの会議の後で、大阪に戻ったらプロポーズしようと決めました……」
「なんだい、それは……。しっかりしろよ……。それで、何で会議の後なんだ?……」
「正直、踏切るきっかけが無くて迷って居たんです。統括本部移籍は予想外のことでした、つまり、一寸先には何が起きるか分からないと実感したんですよ」
「そうか、分からんでもない、もっと若ければ勢いでと云うこともあるが、ベーさんくらいの歳になれば、浮かれた勢いでとは行かないだろうな。兎に角目出度い話じゃないか、良かったな、西国に旅に出て花嫁を連れて帰るか……、ベーさん個人としても、成果があったと云う事だな……」
「部長、西国は無いでしょう、それに旅では無いですよ……。でも、今回、いいタイミングで本社に呼んでもらって、ありがとうございました。本社に来なかったら、まだ迷っていたかも知れませんから……」
「べーさんらしくないな、まあ、仕事大好き人間だからなぁ、仕方のないことか……」
「それで、わたしが移動した後は?」
「ああ、大学院卒の新人が一人と、品質強化本部からコンピューターサイエンスのプロが来ることになっている。スタンフォード出の帰国子女らしいよ、海外研修明けの優秀な三十二歳になる岩城就子さんと云う女性だ。設計部のデータベースシステムの見直しと、セキュリティシステムの構築も担当してもらうことになっているんだ、こっちはサイバー攻撃に対するデータ盗難対策と云ったところだな……」
「そうですか、各部門の集積データをスピーディに取り出すことが出来れば、広範囲の技術を迅速に活用できます。設計に掛かる所要時間も短縮できますから、生産性寄与率のアップが期待できます、設計部の貢献度評価が上がると云う事ですね」
「いや、ベーさんを失う方がダメージきついな、ランクダウンだよ、まあ、気にすることはない、部門毎の寄与率については、色々評価基準があるからな、部門毎が切磋琢磨して、会社を盛り立てようと云う趣旨なんだから、何らかの指標が必要なんだ……。設計や研究開発部門は、最後は個人のスキルとセンスに因る処が多い……」
「わたしの移動について、部長に相談はなかったのですか?」
「あったが、ある意味既定路線と云う事だから、会社は計画通りに英才教育を進めているということだ。期待を裏切るなよ、泣く泣く統括本部に出すんだからな……」
「ありがとうございます。しっかりやると覚悟を決めます」
「そうだよ、嫁さんも早めに決めてしまえ。祝いと送別会を一緒にやってやるよ……」
「はい、部長に言って頂いて、両方とも覚悟が出来ましたから、宜しくお願いします」
「それで、年明けには直ぐ大阪に戻るのか?」
「そうします。最後のレポートも纏めなければならないので……」
「そうか、研修の名の元の支店派遣も、いよいよか……、最終課題のレポートだ、インパクトのある内容でビシッと締めてくれよ、しっかりな……」
「はい、色々とありがとうございます、期待を裏切らないようにやりますよ」
「そうだよ、それがべーさんのスタイルだ……。今日は三時から仕事納めに、摘みと缶ビールで軽く乾杯をして終りだ。休暇に入っている者も居るから頭数は少ないが、みんなと話して行けよ。こっちは部長会の納会に出るから失礼するけどな。来年は良い年になりそうだな……」
太田垣部長は立ち上がると、颯太に握手を求めた。
「じゃ、今年はこれで……。本館に行くから、みんなと宜しくやってくれ……」
そう言い残すと、ブースの隅の単体ロッカーから、英国駐在中に手に入れたと云う、自慢のBurberry製カシミヤ.トレンチコートを取り出した。
コートを腕に抱えると、先にブースから出て行く。背丈は颯太ほどは無いが、ツィードジャケットを颯爽と着こなすスレンダーな後ろ姿は、颯太憧れの、先輩デザインエンジニアだった。
一度だけ会ったことのある部長夫人はインテリアデザイナーで、物静かで花をこよなく愛する優しい感じの、日系二世の英国人女性で、メイジーさんと云う。
部長が留学生時代に知り合い、後に英国赴任中に再会して結ばれたと聞いている。
メイジーさんは、英国中部のシェフィールドで生まれ、幼い頃に、両親がロンドンの南に位置するガトウィク空港に近いディストリクト地域の、クローリーと云う歴史的には新しい町に移り住んだ。その後、大学進学の時に、家族はロンドンに移ったのだそうだ。
故郷を遠く離れ、異国の何処であろうと夫と共にある夫人も、颯太が理想とする女性であり、颯太は、理想のカップルだと思っている。ふと、美紗子もそうであって欲しいと、颯太は部長の後ろ姿を見ながら思った。

颯太は、美紗子と再会したとだけ両親に話した。
母の沙奈絵は楠城家の和明か絹代から、単なる再会ではないことを聞いている筈だと颯太は思ってはいたが、両親から深く訊かれることはなかった。
ただ、正月には横浜に戻らないと云う智奈津からの電話には、美紗子が大阪の薬品会社に勤務していて、颯太と再会したことは伝えたと言った。

年末年始の休みの間、颯太はレポート作成で過ごす時間が多かった。
年が明けると、二日の休日を残して京都のマンションに戻った。正月休みがむ続いている錦市場界隈は静かだった。
横浜に居た時と同じように、レポート作成に集中して過ごしていた。
最終提出レポートは、ほゞ論文と云っていい。
颯太は、グループ企業の親会社として、専門部門を分離子会社とする場合の技術移管と、グループ内の技術共有に関する問題点について、今回の駐在期間で体感し、知り得た情報を基に、自分なりの構想をレポートに纏めようとしていた。

翌日は初出勤と云う日の、昼過ぎだった。
ジャズピアノトリオのCDを流しながら、ダイニングのテーブルで、レポートの資料を広げていた。
パソコンデスクに置いていた携帯が鳴った。テーブルを離れて取りに行くと、美紗子からの電話だった。
美紗子は、颯太が暇を持て余すような人間ではないと知っている。新年の挨拶は簡単に済ました。
「いい勘してるね、昨日戻って来たんだよ。いい正月を迎えた?」
「颯ちゃんは、どうだったの?」
「うん、いろいろと考えることがあったし、考えさせられることもあったかな……」
「わたしと再会したことは?」
「話したよ、昔より活き活きとした感じがする女性になっていたって……、何かあるの?」
「今度は、何時会えるのかしら?」
「美紗ちゃんの都合は?」
「新年早々から残業はしないから……、明々後日くらいは、どうかしら」
「いいよ、何処かで新年会をしよう……、僕が予約しておくよ……。待って、新年会も多いだろうから、予約は取れないかも知れないな、適当に行こう、それでいい?」
「いいわ、少しお話ししたことがあるの……」
「そう、僕も話したいことがあるから、丁度良かった。じゃ、それでいいね」
「いいわ。それより、お食事はどうしてるの?」
「うん、もう、近くの店は開いているから心配ないよ、ありがとう。それと、今夜は伯父さんの家に新年の挨拶に行って泊まるから、明日の昼くらいまでは、心配は無いし……。じゃぁ……」

話したいことがあると答えたものの、颯太は告白する覚悟を決め切れていなかった。サプライズとか、工夫を凝らすなど考えもしていなかった。
颯太はペーパードリップでコーヒーを淹れた。
美紗子からの電話で、一時停止していたウイントン.ケリーのCDを入れ替えた。
女性シンガーの声が聞きたい気分だった。ジュリー.ロンドンのCDを入れて、パソコンデスクの椅子に移動する。
椅子に背を凭せ掛けると、首を後ろに反らせて、暫く目を閉じていた……。
目を開き、小雨の降り始めた窓の外に視線をやりながら、マグカップを手にする。
まだ熱さを保っているブラックのキリマンジャロを、啜るように口に含み喉を通す……。
濃い目に淹れたキリマンジャロの酸味が、煮え切らない颯太の思考を刺激した……。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ヘタレ転移者 ~孤児院を救うために冒険者をしていたら何故か領地経営をすることになったので、嫁たちとスローライフを送るためにも頑張ります~

茶山大地
ファンタジー
「領主となって国王を弑逆するくらいの覚悟がない旦那様はヘタレですわね」  不慮の死を遂げた九頭竜斗真(くずりゅうとうま)は、<転移>先で出会った孤児院の子供達の窮状を直視する。 ヘタレではあるが、養護施設出身でもある彼は似たような境遇の子供達を見捨てることができず、手を貸すことにするのだった。 案内人から貰った資金を元手に、チートスキルも無く、現代知識もすでに伝わってるこの世界で彼はどうやって子供達を救っていくのか......。 正統派天然美少女アホっ娘エリナに成長著しい委員長キャラのクレア、食いしん坊ミリィ、更には女騎士や伯爵令嬢を巻き込んでの領地経営まで?明るく騒がしい孤児院で繰り広げられるほのぼのスローライフヘタレコメディー、ここに始まります! ■作中に主人公に対して、「ロリ」、「ロリコン」、「ロリ婚」と発言するキャラが登場いたしますが、主人公は紳士ですので、ノータッチでございます。多分。ご了承ください。 本作は小説家になろう、カクヨムでも掲載しております。 よろしければそちらでも応援いただけますと幸いです。 また、小説家になろう版は、序盤から新規に挿絵を大量に追加したうえで、一話当たりの文字数調整、加筆修正、縦読み対応の改稿版となります。 九章以降ではほぼ毎話挿絵を掲載しております。 是非挿絵だけでもご覧くださいませ。

「キヅイセ」 ~気づいたら異世界にいた。おまけに目の前にはATMがあった。異世界転移、通算一万人目の冒険者~

雨野 美哉(あめの みかな)
ファンタジー
秋月レンジ。高校2年生。 彼は気づいたら異世界にいた。 その世界は、彼が元いた世界とのゲート開通から100周年を迎え、彼は通算一万人目の冒険者だった。 科学ではなく魔法が発達した、もうひとつの地球を舞台に、秋月レンジとふたりの巫女ステラ・リヴァイアサンとピノア・カーバンクルの冒険が今始まる。

意地を張っていたら6年もたってしまいました

Hkei
恋愛
「セドリック様が悪いのですわ!」 「そうか?」 婚約者である私の誕生日パーティーで他の令嬢ばかり褒めて、そんなに私のことが嫌いですか! 「もう…セドリック様なんて大嫌いです!!」 その後意地を張っていたら6年もたってしまっていた二人の話。

それが何? 婚約破棄なんて関係ない!

四季
恋愛
婚約破棄なんて関係ないわ。

最強の魔法使いを目指して

こう
ファンタジー
何の変哲もなく何をしても上手くいかない1人の少年 そこから人生が変わる 自分に才能がないと思っていたが あることをきっかけに魔法の才能が開花

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

平民の娘だから婚約者を譲れって? 別にいいですけど本当によろしいのですか?

和泉 凪紗
恋愛
「お父様。私、アルフレッド様と結婚したいです。お姉様より私の方がお似合いだと思いませんか?」  腹違いの妹のマリアは私の婚約者と結婚したいそうだ。私は平民の娘だから譲るのが当然らしい。  マリアと義母は私のことを『平民の娘』だといつも見下し、嫌がらせばかり。  婚約者には何の思い入れもないので別にいいですけど、本当によろしいのですか?    

夫の告白に衝撃「家を出て行け!」幼馴染と再婚するから子供も置いて出ていけと言われた。

window
恋愛
伯爵家の長男レオナルド・フォックスと公爵令嬢の長女イリス・ミシュランは結婚した。 三人の子供に恵まれて平穏な生活を送っていた。 だがその日、夫のレオナルドの言葉で幸せな家庭は崩れてしまった。 レオナルドは幼馴染のエレナと再婚すると言い妻のイリスに家を出て行くように言う。 イリスは驚くべき告白に動揺したような表情になる。 子供の親権も放棄しろと言われてイリスは戸惑うことばかりでどうすればいいのか分からなくて混乱した。

処理中です...