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筆供養の日
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ホテルのレストランで颯太と再会できた美紗子は、信じられない気持ちで茨木市の家に戻った。
興奮を抑えきれず、帰宅するなり母の由理香に伝えた。母は驚きながら「良かったね」と、ひとことだけ言うと、笑顔で美紗子の話に耳を傾けていた。
父の周治は、遅い夕食を済ませ、湯上りのひと時をウイスキーを飲みながら寛いでいた。美紗子の話しに、手にしたグラスを膝の上に乗せて口を開いた。
「颯太くんか……、最後に見たのは、お父さんが九州に先乗りする前だったから、高校二年くらいだったかな……。美紗子は、良く面倒を見て貰ったからな、どんな青年になっていた?……。会ってみたいな……」
美紗子は風呂を済ませて自分の部屋に戻ると、颯太から電話をくれと云われた11時を待った。
母の「良かったね」は、美紗子が、颯太のことを思い続けていることを知ってのひと言だと美紗子は解っていたが、冷静になった美紗子は、突然、心から喜べない思いに襲われて戸惑っていた。
自分の気持ちは決まっていても、必ずしも颯太が自分と同じ思いでいるとは限らない……。気付くと11時が迫っていた。
美紗子は、喜びと不安の混じる思いで携帯を手に取った。
電話が繋がって二分と掛からなかった、颯太の声と話しは美紗子の不安を取り去った。好意を持ち続けてくれているのが解った。30分ほど話して、大阪で退社後に会おうと約束をして電話を切った。
ホテルのレストランで再会してから、週に二回は梅田で待ち合わせて食事をした。
もし、ふたりを知る親しい友人が居れば、二人のお互いの関係は結婚を控えたカップルとして映っていただろう。
本人たちも99パーセントは、そう思いながら「結婚」のひと言を口にすることは無かった。
街は師走に入り、クリスマスパーティの案内や、早々と忘年会の予約広告も見られるようになり、なんとなく慌ただしい気配が感じられる。
颯太と美紗子の恋愛関係は、初めて知り合った男女の様に、お互いの心情を窺がいながらの、遅々としたものだった。そんな付き合いが続く中、美紗子は決心する。
研究室での仕事も十年を越え、この秋には新たなシードを見つけるという結果も出すことが出来た。
美紗子は退社することを考えていた。颯太との関係が進展するか否か分からなくても急ぐことはない。今までは会えるかどうかも分からなかった。これからどうなるかは別として、颯太に会える可能性のある横浜に近い所に、新たな職場を探して移り住もう……。
年内に申し出れば、来年四月の新年度計画に間に合う。自分は年明けから就職活動を始めればいいと……。
十二月最初のデートの時だった。
颯太は阪急電車で帰る美紗子のことを考えて、何時も阪急線大阪梅田駅に近い店を選んで食事を楽しんでいた。
この日は、寒さがきつく、割烹料理店の〈おでん〉の店を選んで食事をした。
食事も終りに近い頃だった。溶けそうになった氷が残るスコッチウイスキーを飲み干した颯太が言った。
「年内に京都に来てくれないかな?、伯父さん夫婦に会ってもらいたいんだけど……」
「いいわ、わたしも京都に行きたいと思っていたのよ」
「何処か、行ってみたい所があるの?」
「ちょっとね、二十三日の勤労感謝の日なんだけど、東福寺の塔頭に正覚庵と云うのがあるらしいの、一度行ってみたいの……。颯ちゃんは正覚庵って知ってる?」
「いや、東福寺は行ったことがあるけど、塔頭までは……。そこに何かあるの?」
「筆供養が営まれるの、わたしも使い終わった筆が何本かあるから、何時かは奉納して供養したいなって思っていたの……」
「そうか、美紗子ちゃんは、ずっと書道を続けているんだ?……」
「ええ、大学時代もね。今も月に二回、土曜日なんだけど高槻市の教室に通っているのよ……。趣味が無くて、することが無いから続けているの」
「そうなんだ、いいよ、調べて案内するよ。じゃ、その時に伯父さん夫婦に紹介するけど、いい?」
「いいわ、お願いするわ。お母さんのお里なんでしょ?」
「そう、美紗子ちゃんのことは、再会した時に話しているから、身内の代表として会って貰おうと思ってね。そうすれば、直ぐに横浜の母に伝わるから……」
颯太は美紗子の本心を知りたかった。駄目だったらと考えると、躊躇して延び延びにしていた。考えた末の結論は、美紗子を伯父夫婦に合わせ、その後で伯父夫婦の意見を聞いてみようと思いついたのだ。
美紗子の真意を知るために伯父夫婦に頼ると云う、姑息な方法に頼る自分を情けないと思いながら……。
美紗子とのデートの時は、颯太はジェイアールでは無く、茨木市に帰る美紗子と同じ阪急電車を利用して京都の烏丸駅まで帰ることにしていた。
電車の車内で、美紗子は颯太に寄り添うようにして座っていた。
「颯ちゃんと、こんなに近くに座ったことなかったけど、あの頃は何時ももっと近くで見守っていてくれたのよね……」
「あの頃の美紗ちゃんは、あまり話をしなかったのに、大人になったんだな……」
「颯ちゃんだって、わたしにはあまり話しかけてくれなかったわ」
「そうかな、可愛かったから、みんなに冷やかされるのが嫌だったんだろうな」
「あの頃に、そう言って欲しかったわ……」
「僕はそんなタイプじゃなかったから……。それに美紗ちゃんは無口で照れ屋だったからな、話しかけにくかったんだよ。智奈津とだけじゃないの、よく話していたのは……」
「そうかも知れない……」
「今なら、素敵な女性だねって云えるよ……」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。あの日、美紗ちゃんを見た会社の友人たちが、なんて言ってたと思う?……、素敵な女性ですね、お似合いですよって……」
「何て答えたの?」
「以前、岡山に居た頃のことを、色々と話していたこともあったから……、ちょっと今は言えないな……」
「そんなのずるいわ……」
「美紗ちゃんだって、周りから何か言われたんじゃないの……」
「言われたわよ、色々と……」
「何て?」
「答えにくいわ……」
「それじゃ、ずるいのは一緒だよ……」
「じゃ答えるわね、幼馴染よって答えたら、許婚者ですか、隠していたんですかって……」
「それには、何て答えたの?」
「それは答えられないわ……」
「そう……、じゃぁ、今は勝手に想像しておくよ……」
「良い想像をしてね?、お願いよ……」
勤労感謝の休日。颯太は昼前にジェイアールで京都駅に来る美紗子を出迎えた。
近くのレストランで、美紗子はサンドイッチ、颯太はカツカレーの昼食を済ませた。
ゆっくり話しながら、デザートを楽しんでも、時間に余裕があった。
ふたりは、東本願寺の紅葉を観に行くことにした。
比較的暖かい陽気の日だった。
レストランからは近い距離だったが、美紗子は颯太の傍を歩きながら、岡山の頃を思い出していた。
東本願寺を出て、歩いて七条大橋の袂にある京阪電車七条駅に向かい、鳥羽街道駅まで電車で行くことにした。
徒歩で、東福寺の南にある正覚庵に向った。途中、光明院の石庭の紅葉を観て、正覚庵に着いたのは筆供の始まる少し前だった。
美紗子は二十本ほどの筆を奉納した。
山伏の読経の流れる中、奉納された使い古した筆が、筆塚の石塔の前に設けられた護摩壇に、次々と投げ入れられるのを見た後で、茶席に移ると、名物の、楓と銀杏の葉を模った生麩を浮かせた『もみじそば』を楽しんだ。
中学時代に、美紗子は同級生だった吉野三奈の家の蕎麦屋に、一度だけ颯太に誘われて行ったことがあった。
颯太と智奈津の三人で天婦羅蕎麦を食べたことを懐かしく想い出していた。
颯太に「覚えている?」と言うと、颯太は、智奈津が美紗子の天婦羅を「ちょーだい」と云って、美紗子の返事も待たずにひとつ取って食べたことを、笑いながら話した。美紗子は颯太が覚えてくれていたことが嬉しかった。
ふたりが楠城屋の店舗に戻ったのは四時過ぎだった。
楠城和明と絹代夫婦は、揃って待ってくれていた。颯太の姿を見ると、絹代は店の向かいの珈琲店に、コーヒーを届けてくれるように頼みに行った。
店舗の奥には、事務机と応接セットがある部屋があった。四人が腰を下ろすと、颯太が美紗子を紹介した。
美紗子は落ち着いた様子で自己紹介をすると、皆部家との関りと、颯太に助けられて通学していた頃のことを話した。
伯父夫婦は終始笑顔で対応してくれていた。
三十分程して、外に出ると美紗子が部屋を見たいと言うので、颯太は、二階に在るマンションの部屋に案内した。
ドアを開けるとダイニングキッチンがあり、奥のワンフロアには、パソコンデスクと綺麗にメイキングされたベッドがあり、少しの空間しかない。
颯太は先に歩いて奥のフロアに行くと、閉めていたカーテンを開けて、通りが見えるようにした。
美紗子がフロアに入って直ぐだった。
突然、硬直したようにパソコンデスクの傍で立ち竦んだ。
美沙子は胸が締め付けられた、緊張が高まり、そして一気に抜けるような感覚を覚えた……。
瞬間、頭を過ぎった。わたしの決断は間違いなかった……。わたしは退職して横浜に移り住むのだ……と。
振り向いた颯太が、美紗子の傍に来て、クリスタルガラスのカエルを手に取る。
「ずっと持ち歩いていたんだ……、何時も傍に居るんだよ、こいつ……」
「わたしも一輪挿しを机の上に置いているわ……」
「そう、そういう事だから、いいのかな……ぼく達……」
美紗子は俯きながら応えた。
「そういう事でいいんじゃない……」
颯太はカエルをデスクに戻すと、美紗子を抱きしめた。
美紗子は長身の颯太の長い腕の中に身を任せた。余りのうれしさに、颯太の顔を見上げることはできなかった。
颯太は阪急電車で茨木市に帰る美紗子を、烏丸駅まで送っていくことにした。
四条通に出て、ふたりが並んで歩き始めると、多くのひとの流れが気になった。
颯太は、美紗子が腕を組み易いように腕を軽く曲げた。
ふたりが並んで歩くのは、岡山に居た頃から随分の年月を経ている。
美紗子は、何時も颯太の少し後ろを、黙って静かに歩いていた。あの頃と違うのは、颯太の曲げた腕を、美紗子の手が遠慮がちにコートの上から添えていることだった。
美紗子は、颯太が今も変わらず、優しく気を遣ってくれることが嬉しかった。
興奮を抑えきれず、帰宅するなり母の由理香に伝えた。母は驚きながら「良かったね」と、ひとことだけ言うと、笑顔で美紗子の話に耳を傾けていた。
父の周治は、遅い夕食を済ませ、湯上りのひと時をウイスキーを飲みながら寛いでいた。美紗子の話しに、手にしたグラスを膝の上に乗せて口を開いた。
「颯太くんか……、最後に見たのは、お父さんが九州に先乗りする前だったから、高校二年くらいだったかな……。美紗子は、良く面倒を見て貰ったからな、どんな青年になっていた?……。会ってみたいな……」
美紗子は風呂を済ませて自分の部屋に戻ると、颯太から電話をくれと云われた11時を待った。
母の「良かったね」は、美紗子が、颯太のことを思い続けていることを知ってのひと言だと美紗子は解っていたが、冷静になった美紗子は、突然、心から喜べない思いに襲われて戸惑っていた。
自分の気持ちは決まっていても、必ずしも颯太が自分と同じ思いでいるとは限らない……。気付くと11時が迫っていた。
美紗子は、喜びと不安の混じる思いで携帯を手に取った。
電話が繋がって二分と掛からなかった、颯太の声と話しは美紗子の不安を取り去った。好意を持ち続けてくれているのが解った。30分ほど話して、大阪で退社後に会おうと約束をして電話を切った。
ホテルのレストランで再会してから、週に二回は梅田で待ち合わせて食事をした。
もし、ふたりを知る親しい友人が居れば、二人のお互いの関係は結婚を控えたカップルとして映っていただろう。
本人たちも99パーセントは、そう思いながら「結婚」のひと言を口にすることは無かった。
街は師走に入り、クリスマスパーティの案内や、早々と忘年会の予約広告も見られるようになり、なんとなく慌ただしい気配が感じられる。
颯太と美紗子の恋愛関係は、初めて知り合った男女の様に、お互いの心情を窺がいながらの、遅々としたものだった。そんな付き合いが続く中、美紗子は決心する。
研究室での仕事も十年を越え、この秋には新たなシードを見つけるという結果も出すことが出来た。
美紗子は退社することを考えていた。颯太との関係が進展するか否か分からなくても急ぐことはない。今までは会えるかどうかも分からなかった。これからどうなるかは別として、颯太に会える可能性のある横浜に近い所に、新たな職場を探して移り住もう……。
年内に申し出れば、来年四月の新年度計画に間に合う。自分は年明けから就職活動を始めればいいと……。
十二月最初のデートの時だった。
颯太は阪急電車で帰る美紗子のことを考えて、何時も阪急線大阪梅田駅に近い店を選んで食事を楽しんでいた。
この日は、寒さがきつく、割烹料理店の〈おでん〉の店を選んで食事をした。
食事も終りに近い頃だった。溶けそうになった氷が残るスコッチウイスキーを飲み干した颯太が言った。
「年内に京都に来てくれないかな?、伯父さん夫婦に会ってもらいたいんだけど……」
「いいわ、わたしも京都に行きたいと思っていたのよ」
「何処か、行ってみたい所があるの?」
「ちょっとね、二十三日の勤労感謝の日なんだけど、東福寺の塔頭に正覚庵と云うのがあるらしいの、一度行ってみたいの……。颯ちゃんは正覚庵って知ってる?」
「いや、東福寺は行ったことがあるけど、塔頭までは……。そこに何かあるの?」
「筆供養が営まれるの、わたしも使い終わった筆が何本かあるから、何時かは奉納して供養したいなって思っていたの……」
「そうか、美紗子ちゃんは、ずっと書道を続けているんだ?……」
「ええ、大学時代もね。今も月に二回、土曜日なんだけど高槻市の教室に通っているのよ……。趣味が無くて、することが無いから続けているの」
「そうなんだ、いいよ、調べて案内するよ。じゃ、その時に伯父さん夫婦に紹介するけど、いい?」
「いいわ、お願いするわ。お母さんのお里なんでしょ?」
「そう、美紗子ちゃんのことは、再会した時に話しているから、身内の代表として会って貰おうと思ってね。そうすれば、直ぐに横浜の母に伝わるから……」
颯太は美紗子の本心を知りたかった。駄目だったらと考えると、躊躇して延び延びにしていた。考えた末の結論は、美紗子を伯父夫婦に合わせ、その後で伯父夫婦の意見を聞いてみようと思いついたのだ。
美紗子の真意を知るために伯父夫婦に頼ると云う、姑息な方法に頼る自分を情けないと思いながら……。
美紗子とのデートの時は、颯太はジェイアールでは無く、茨木市に帰る美紗子と同じ阪急電車を利用して京都の烏丸駅まで帰ることにしていた。
電車の車内で、美紗子は颯太に寄り添うようにして座っていた。
「颯ちゃんと、こんなに近くに座ったことなかったけど、あの頃は何時ももっと近くで見守っていてくれたのよね……」
「あの頃の美紗ちゃんは、あまり話をしなかったのに、大人になったんだな……」
「颯ちゃんだって、わたしにはあまり話しかけてくれなかったわ」
「そうかな、可愛かったから、みんなに冷やかされるのが嫌だったんだろうな」
「あの頃に、そう言って欲しかったわ……」
「僕はそんなタイプじゃなかったから……。それに美紗ちゃんは無口で照れ屋だったからな、話しかけにくかったんだよ。智奈津とだけじゃないの、よく話していたのは……」
「そうかも知れない……」
「今なら、素敵な女性だねって云えるよ……」
「ほんとに?」
「ほんとだよ。あの日、美紗ちゃんを見た会社の友人たちが、なんて言ってたと思う?……、素敵な女性ですね、お似合いですよって……」
「何て答えたの?」
「以前、岡山に居た頃のことを、色々と話していたこともあったから……、ちょっと今は言えないな……」
「そんなのずるいわ……」
「美紗ちゃんだって、周りから何か言われたんじゃないの……」
「言われたわよ、色々と……」
「何て?」
「答えにくいわ……」
「それじゃ、ずるいのは一緒だよ……」
「じゃ答えるわね、幼馴染よって答えたら、許婚者ですか、隠していたんですかって……」
「それには、何て答えたの?」
「それは答えられないわ……」
「そう……、じゃぁ、今は勝手に想像しておくよ……」
「良い想像をしてね?、お願いよ……」
勤労感謝の休日。颯太は昼前にジェイアールで京都駅に来る美紗子を出迎えた。
近くのレストランで、美紗子はサンドイッチ、颯太はカツカレーの昼食を済ませた。
ゆっくり話しながら、デザートを楽しんでも、時間に余裕があった。
ふたりは、東本願寺の紅葉を観に行くことにした。
比較的暖かい陽気の日だった。
レストランからは近い距離だったが、美紗子は颯太の傍を歩きながら、岡山の頃を思い出していた。
東本願寺を出て、歩いて七条大橋の袂にある京阪電車七条駅に向かい、鳥羽街道駅まで電車で行くことにした。
徒歩で、東福寺の南にある正覚庵に向った。途中、光明院の石庭の紅葉を観て、正覚庵に着いたのは筆供の始まる少し前だった。
美紗子は二十本ほどの筆を奉納した。
山伏の読経の流れる中、奉納された使い古した筆が、筆塚の石塔の前に設けられた護摩壇に、次々と投げ入れられるのを見た後で、茶席に移ると、名物の、楓と銀杏の葉を模った生麩を浮かせた『もみじそば』を楽しんだ。
中学時代に、美紗子は同級生だった吉野三奈の家の蕎麦屋に、一度だけ颯太に誘われて行ったことがあった。
颯太と智奈津の三人で天婦羅蕎麦を食べたことを懐かしく想い出していた。
颯太に「覚えている?」と言うと、颯太は、智奈津が美紗子の天婦羅を「ちょーだい」と云って、美紗子の返事も待たずにひとつ取って食べたことを、笑いながら話した。美紗子は颯太が覚えてくれていたことが嬉しかった。
ふたりが楠城屋の店舗に戻ったのは四時過ぎだった。
楠城和明と絹代夫婦は、揃って待ってくれていた。颯太の姿を見ると、絹代は店の向かいの珈琲店に、コーヒーを届けてくれるように頼みに行った。
店舗の奥には、事務机と応接セットがある部屋があった。四人が腰を下ろすと、颯太が美紗子を紹介した。
美紗子は落ち着いた様子で自己紹介をすると、皆部家との関りと、颯太に助けられて通学していた頃のことを話した。
伯父夫婦は終始笑顔で対応してくれていた。
三十分程して、外に出ると美紗子が部屋を見たいと言うので、颯太は、二階に在るマンションの部屋に案内した。
ドアを開けるとダイニングキッチンがあり、奥のワンフロアには、パソコンデスクと綺麗にメイキングされたベッドがあり、少しの空間しかない。
颯太は先に歩いて奥のフロアに行くと、閉めていたカーテンを開けて、通りが見えるようにした。
美紗子がフロアに入って直ぐだった。
突然、硬直したようにパソコンデスクの傍で立ち竦んだ。
美沙子は胸が締め付けられた、緊張が高まり、そして一気に抜けるような感覚を覚えた……。
瞬間、頭を過ぎった。わたしの決断は間違いなかった……。わたしは退職して横浜に移り住むのだ……と。
振り向いた颯太が、美紗子の傍に来て、クリスタルガラスのカエルを手に取る。
「ずっと持ち歩いていたんだ……、何時も傍に居るんだよ、こいつ……」
「わたしも一輪挿しを机の上に置いているわ……」
「そう、そういう事だから、いいのかな……ぼく達……」
美紗子は俯きながら応えた。
「そういう事でいいんじゃない……」
颯太はカエルをデスクに戻すと、美紗子を抱きしめた。
美紗子は長身の颯太の長い腕の中に身を任せた。余りのうれしさに、颯太の顔を見上げることはできなかった。
颯太は阪急電車で茨木市に帰る美紗子を、烏丸駅まで送っていくことにした。
四条通に出て、ふたりが並んで歩き始めると、多くのひとの流れが気になった。
颯太は、美紗子が腕を組み易いように腕を軽く曲げた。
ふたりが並んで歩くのは、岡山に居た頃から随分の年月を経ている。
美紗子は、何時も颯太の少し後ろを、黙って静かに歩いていた。あの頃と違うのは、颯太の曲げた腕を、美紗子の手が遠慮がちにコートの上から添えていることだった。
美紗子は、颯太が今も変わらず、優しく気を遣ってくれることが嬉しかった。
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