秘められた慕情

稲葉真乎人

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恋愛事情

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皆部颯太がエレベーターから一階玄関ロビーに出ると、先に下りていた森脇洋一郎が手をあげて合図を送る。
「皆部さん、ジェイアール福島駅の近くなので、タクシーで行きますから……」
そう云うと、道路に出てタクシーを捕まえた。
走り出したタクシーの中で颯太が訊く。
「何処に連れて行ってくれるの?」
「この前、皆部さん懐かしそうに言ってましたよね、高校卒業まで岡山に居たって。故郷なんでしょ」
「小五から高校卒業まで住んでいたから懐かしいけど、故郷という意識は無いんだよね……」
「千屋って場所、知ってます?」
「知ってるよ、県北の新見市だろ……」
「そうです。皆部さんは、有名な和牛ブランドを知っておられます?」
「神戸、近江、松坂くらいでいいのかな……」
「そのルーツが千屋牛なんだそうです。これから行く店なんですけど、オーナーシェフのお兄さんが、岡山で千屋牛専門の高級焼肉店をやっておられるんです、その伝手で仕入れている極上の黒毛和牛をご馳走しますから」
「待ってくれよ、君にそんなにして貰う理由がないし、高価なんだろ……。どういうことなの?」
「心配しないで下さい、うちの親父が勧めてくれたんですから……」
「お父さんが?……訳が分からないな……」
「まあ、店に着いて食事をしながら説明しますから、今夜は僕に任せて下さい……」
「いいのかな……」

賑やかな通りから少し奥まったところに店は在った。
黒い外壁の和風二階建ての店舗の前には、ひっそりと『黒毛和牛の小川』と彫刻された、檜を斜めに製材された1mくらいの看板が掛けてあるだけだった。
店内は檜の香りと肉を焼く香りが、場所によって利き分けられるほど檜材がふんだんに使われていた。
個室席に着いて料理を待つ間、颯太が森脇に話しかける。
「檜の香りが凄いね、焼肉の匂いと戦っているって感じだ……」
「知ってます?、2012年から5年連続で岡山県の檜の生産量が全国1位になったことがあるんですよ」
「そう、よく知ってるんだな……。それにしても、なんか、岡山に詳しくないか?」
「ばれましたか、実は話していませんでしたけど、僕の祖父は岡山県の真庭市の出身なんです。曾祖父も大工だったんですが、祖父が大阪に出てきて、今の森脇工務店を創業したんです。親父が三代目なんですよ、この店は森脇工務店の親父が改装を請け負ったんです」
「そう云う事…」
テーブルに焼肉の準備が整った。
店のひとは森脇とは顔馴染みらしく「後は宜しくお願いしますね」と言って個室を離れて言った。
森脇は心得ているらしく、肉の焼き方と食べるタンミングだけを颯太に話した。
「後は、自分が食べたいタイミングで、勝手にやって下さい。それと、ついでに説明しますよ、岡山県では新見市にワイナリーが集中しているそうです。シェフに選んでもらいましたから、飲んで岡山を懐かしんで下さい」
「待ってくれよ、どうして、こんなにしてくれるんだよ?」
「そうですよね。先週の日曜日でしたか、家で親父の晩酌に付き合っていた時に、皆部さんが若い社員を食事会に誘ってくれて、僕らの話しを聴いて貰っているって話したんですよ。毎回、みんなの飲み代を見てくれて、それも必要以上にって……。そうしたら、みんなを代表して、年長のお前がお礼をしろって……。宮前さんから聞いたことも話したら、お前の会社にとっても将来ある大事な人なんだから、わしも後援してやるからって……」
「宮前さんが何を話したか知らないけど、大袈裟だよ……」
「でも、宮前さんから聞きましたよ、本社の技術統括部内で、工学部修士でMBAを取得されたのは二人目なんでしょ?」
「それは成り行きでビジネススクールに通っただけで、取得しようと思っていた訳じゃ無いから」
「どちらにしても、期待に応えて取得されたんですから良いじゃないですか。それで、皆部さんは食事会の度に、万札を五枚も出してくれているでしょ、僕らは、ほとんど半額以下で飲み食いしていることになりますよ。大阪に居られるのも、残り半年弱でしょ、毎回五万円を、甘えてお世話になるのは変です……、恐らくこれからもそうされるでしょう……。ちょっとした差額の返金だと思って下さい……」

ふたりは個室で、ゆっくりとマイペースで高級黒毛和牛とワインを楽しみ、時間と共に先輩後輩の関係は解れて行った。
何時しか恋愛話に移っていた。
「皆部さんは気付いておられますか、食事会メンバーの山際君と木沢さん、真面目に付き合うそうです。この前、山際君に誘われてミナミ(=大阪市中央区の難波.心斎橋.道頓堀.千日前辺りの繁華街)に飲みに行ったときに聞かされたんです」
「そう、実は、僕は木沢さんに誘われてね。彼女は山際君の気持ちが分からないらしくて、僕の意見を聞きたいと言うから、僕は、山際君も木沢さんのことを、気に掛けている筈だと答えたんだけど、中っていて良かった……」
「そうだったんですか……。二人は知らないで、お互いに誰かに相談していたんですね」
「そうみたいだな。そうだ、その時に木沢さんが訊いて来たんだ、森脇さんは中村さんと付き合っているかってね。だから、彼には大学時代からの恋人が居るから、それは無いって話したけど、拙かったかな……」
「いや、それは本当ですから良いんですけど……。僕の方からも、ちょっとあるんですけど……、話していいのかな……」
「どうしたの?、まだ何か拙いことが?……。この際だから何でも話してくれていいよ」
「いえ、そうじゃないんです。僕のことは良いんですけど……。皆部さん、相談ですが、一度、静香を食事にでも誘ってやってくれませんか?。同期で彼女だけ、今まで浮いた話しが無かったんですけどね……」
「おいおい、その相談に、僕は適任じゃ無いよ。学生時代からまともに恋愛したことなんて無いんだから。口幅ったいけど、勉強と陸上競技しか集中できなくてね、そっちの方は不器用なんだ……」
「でも、そろそろ考えても良い年齢じゃないですか?。今まで本当に好きになった女性は居なかったんですか?」
「それは居たし、僕に好意を持ってくれる女性も居たけど……。相手からの告白に素直に答えられない思いがあってね……」
「それ、興味があるなあ……、皆部さんくらいの男性なら、告白を受ければ決まりでしょ…。嫌いって答えたんですか?、それと、思いって何ですか?、今でも思い残すことは無いんですか?」
「普通なら話すほどのことでも無いんだけど、少し酔っているから話そうか…」
「聞かせて下さいよ、他言はしませんから」
「そんなに大したことじゃないよ……」
そう云って颯太はワインを一口飲んだ。
「君の最初の質問の答えは、女性から『わたしのこと、どう思う』って訊かれて、何時も『嫌いじゃないよ』って答えていた。二つ目の答えは、僕の家族は父の転勤に全員が付いて行っていた。転勤は何時あるか分からない、友達や好きな人が居たら、別れるのが辛い。はっきり『好きだよ』って答えて付き合いが始まったら、相手も僕も別れは辛い。僕は好きな人とは、何時も一緒に居たい方だから遠距離恋愛はできない。三番目の答え、一人だけ、今、出逢ったら結婚したい女性は居る、相手が独身ならだけど……以上、分かってくれるかな……」
「なんとなく分かる気はします。それだったら、静香にも同じことを話してやってくれませんか?」
「どういう意味?」
「彼女、皆部さんに惹かれていると思うんですよ。でも、皆部さんは、来年には本社に戻られます。皆部さんは知らないかも知れませんが、大阪には『まっちゃまち』と云って松の木の松と屋敷の屋に町と書くんですけど、人形の問屋街があるんです。彼女は中村人形店の、跡取りのひとり娘なんですよ。だから店を継ぐ継がないは別として、大阪を離れることは無いと本人は話していましたから……。分かりますよね?」
「待ってくれよ、僕が中村さんと会って、仮に彼女から『わたしのこと、どう思われますか』なんて訊かれたら、僕は『嫌いじゃないよ』って彼女に答えろって云うこと?」
「まあ、皆部さんの今の話を聞けば、そう云うことですかね……。静香は、それで自分を納得させると思うんですよ。賢い女性ですから」
「そうだろうけど……。それにしても、君は同期の仲間思いなんだな……」
「僕が声を掛けた、食事会のメンバーでもあるでしょ、山際君と木沢さんのことも、同じメンバーですから思いは複雑ですよ……。でも、静香は、あの容姿で行儀の良い、魅力のある女性ですから、その気になって見合いをすれば、何時でも好い相手が見つかると思うんです。同期の仲間も、みんなそう言ってますから……」

颯太はワインを飲んで、暫く考えていた。
中村静香のことを考えていると、中国支店の榎木雅子のことが思い浮かんだ……。
「森脇君、今、僕が話したことは別に隠すほどのことじゃないから、君から話してくれた方が良いように思う。まだ半年近く付き合っていく訳だし、大っぴらにしないでも済むことの様に思うけどな……」
「そうか、そうですね……、僕が聞いてしまった訳だから、僕の話しとして伝えれば、静香が皆部さんから聞くのより、さり気無い情報として伝わるから、良いかも知れませんね」
「そうだよ、お互いが知らない感じで、これからも付き合えるだろ……」
「確かに……。すみません、そうします。この相談は無かったことに……」
「君は、良い奴なんだな……」
「いえ、皆部さんが大阪に来られて、本社にはこんな人も居るんだと感動したんですよ。人あたりが良くて、頭も切れる、なのに腰は低い、会社が期待するのが解ります。親父もそう言っていました……」
「そんなの買い被りだよ。恋愛にはからっきし疎い、ただの気の良い兄さんだ……」
「その謙虚な処が魅力なんですよ、本社の設計部に戻られたら、良い上司なんでしょうね。メンバーは、何時もそう話してますよ……」
「そんなことを言われたら、こそばゆいよ。今日は、僕が全額持っても良いくらいに乗せるなぁ……」
「いえ、此処は親父持ちですから、そんな気はありませんよ。遠慮は要りませんから……」

午後十時過ぎの新快速電車で京都に帰る颯太を、森脇は駅の改札まで見送りに行った。
電車の中で、颯太は中村静香のことを思っていた。
森脇が話したように、容姿と容貌には非の打ちどころが無い、秘書室に配属されるだけあって、物腰も話し方も柔らかでいて、頭の回転も良い。独り娘のお嬢さんと聞かされたが、余程、両親の躾が良かったのだろう……。自分の結婚相手に対する拘りを譲れない颯太は、静香の恋人にはなれない存在であることを自認する。
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