秘められた慕情

稲葉真乎人

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アフタヌーンティー

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ビジネススクールで履修すべき単位を取得し、研究論文も試験もクリアした。
経営管理修士の学位を得ることが出来た颯太と理奈は、スクール終了と同時に日暮里の『SHINDO PHOTO STUDIO』のビル三階に移り住む準備に掛かっていた。
四月の半ばを過ぎた土曜日、颯太はパティシエでもある祖父の輝昭から聞いた横浜市内のフランス菓子店に出向き、ケーキを購入すると妙蓮寺駅に向った。
理奈とは午後二時妙蓮寺駅正面口で待ち合わせていた。
理奈が住んでいる叔母夫婦の進藤家は、西に進んで主要地方道の広い道路を横切り、少し北に行った所にある。
春の陽光は暖かく、風も穏やかな午後だった。
駅の出口から少し離れた場所で理奈は待っていた。
颯太は改札越しに理奈の姿を見つけていた。
ブルーのアンクルパンツに白いズック、ブルーボーダーのティーシャツにグリーンのロングカーディガン姿の理奈も、颯太の姿を目に留めると笑顔で出口に近づいてくる。
左の肩口にベージュのシュシュで束ねた、少し長くなった髪の、カールした先端がリズミカルに揺れる。
颯太の傍に来ると、直ぐに向きを変えて並んで歩き始める。
「ようこそ……。ねえ、どっちから来たの?」
「うん、横浜からだよ……」
「ごめんなさいね……お休みなのに」
「挨拶は欠かすわけには行かないから……これを……」
颯太は紙袋を持ち上げた。
「あら、お土産を準備してくれたのね……。訊いていい、なに?」
「言葉だけを聞いて店に行ったから、途惑ったよ……祖父に訊いてから行けばよかった」
「だから、なに?……それ、洋菓子のお店よね」
「きみが何時か話していただろ、叔母さん夫婦がティータイムのとき、欠かせない好物だって。ケーク.オ.シトロンだったよね?」
「そうよ、ウイークエンド.シトロンよね……」
「それだよ、店のひとはそう言ったんだけど、同じものかどうか知らないから……。まあいいかって感じて買ったんだけどね、良かったのかな……」
「同じものよ、叔母さんたちはケーク.オ.シトロンって言ってるけど……。シトロンはフランス語のレモンのことだから、ショーケースにレモンケーキって書いてなかったかしら?」
「そう云えば……、そう、書いてあったような気がする……」
「きっと喜ぶわ。気を遣わせたわね……」
「だって、手ぶらじゃ……。一応、僕も店子のひとりになるんだから……」
「店子ね……、昔の長屋住まいみたい……可笑しい……」
理奈は心なしかはしゃいでいるように見えた。颯太も楽しそうだった。

白髪の進藤昭嗣と銀髪のまゆ子夫婦は、共にひっつめ髪を組紐で束ねていた。よく似た風貌からは、ゆとりある雰囲気が感じられた。
ふたり共、目鼻立ちがハッキリとした彫りの深い美形なのが印象的な夫婦だった。
まゆ子は、桜井家の家系なのか、長身で姿勢も良く、理奈とよく似ている。昭嗣とはそれほどの身長差は無く、二人ともスリムな体形である。

颯太は、まるで親戚の息子を迎えるかのように、自然で肩ぐるしさを感じさせない歓迎を受ける。
広い日本庭園の見える応接間に通されると直ぐに、「きみ、ティータイムを早めようかね、頼むよ……」と、昭嗣がまゆ子に声を掛けた。
昭嗣の正面に理奈と並んで腰かけるように言われた颯太が、自己紹介をしようとすると昭嗣が言った。
「皆部颯太くんだろ……まあ、掛けなさい。理奈から聞いておるから、かしこまることはない。わたし等としては、まゆ子の姉から理奈を預かっている立場上、理奈がどんな男性と付き合っておるのか、顔さえ見ておけば、それで良いんだ。幼子じゃないんだからね……」
「わかりました。ありがとうございます。ご迷惑はかけないようにしたいと思っています。宜しくお願いします」
「いいんだよ。若いんだ。人生は長くも短くもある、好きになる女性も男性も生涯ひとりと云うことも無いだろう。頑なにひとりのひとに拘る者もいれば、多くのめぐり逢いこそが大切だと思う者も居る。男女の間に生じる問題が二人の障害になると思えば、やり直せば良いんだから。理由は相手の為でも良い、自分の為でも良い、両方が成り立つと信じられた時に将来を誓えばいいと思うがね……」
「あなた、初対面の皆部さんに、なにを講義してらっしゃるのかしら……。いただきましたよ。ケーク.オ.シトロン。皆部さん、気を遣わせましたね。理奈の入れ知恵かしら……」
「叔母さん、違いますよ。前に一度だけこの家のティータイムのことを話しただけよ……」
「あら、それじゃあ皆部さんが細やかな気配りのできる方だってことね……。貴女も目が高いわね……」
「そんな……。颯太さん、間違ってなかったでしょ。こう云う夫婦なの、小父さんと叔母さんは……」
「あら、どんな紹介をしてくれてたの?」
「わたしも聞きたいな、理奈から見た私たち夫婦はどのように映っているのか、興味はあるな……」
「いいですよ、またの機会に話しますから、今日はいいでしょ……」
まゆ子が四つの高級そうな綺麗なカップに紅茶を注ぎ終える。
「さあ、皆部さんからの頂き物だけど、みんなで頂きましょ……。あなたは食べ過ぎないで下さいよ……」
「そうよ小父さん。きりが無いんだから……」
「そう云う台詞も、理奈から聞かれなくなると思うと、少し寂しくなるな……」
「あの、今日はご家族の方は?」
「ああ、長男の嗣治が同居しているんだが、今は楽しいばかりの時でね、婚約中だ。朝から一緒に何処かに行ったようだ……。六月には結婚式を挙げるらしいから……。わたし等は式などどうでも良いんだが、向こうさんのこともあるから致し方ない……。理奈と入れ替わりに遼子さんがこの家の住人になるんだが、どうなることかな……」

暫く話した後で、昭嗣が颯太に言った。
「皆部くん、ご存じと思うが、理奈は先へ先へというタイプの女性だ。ビジネススクールに通ったのもそうだが、仕事上の夢を追って生きている。恐らく何時の日にか夢を叶えるとわたしは思っているんだが、そんな理奈が皆部くんのような男性に興味を持ったことが不思議でならんのだよ。まあ普通に女性として生きていることが分かってホッとしているんだがね。
ただ、きみにも感心しているんだよ。きみは穏やかで優しい雰囲気を持っている、聞けば技術屋さんらしいが、ビジネスの面でもユニークだと思う。理奈から研究論文の内容を聴いたが、わたしは気に入っているんだ。写真家のわたしとしては何処にフォーカスをするかは重要だ、このフォーカスは被写体にじゃないんだ、自分の中にある感性だったり思想だったり、関心毎だったり、それらの何にフォーカスするかが決まれば、被写体の何処にフォーカスすべきかが分かるような気がしているんだ。きみの論文からその様なことを考えさせられたんだ。きみの様な感性を持つひとが理奈の何処を気に入ってくれたのか……。興味のある処なんだな……」
「ひとに与える外見からの印象では、理奈さんとわたしとは似合いではではないと思います。わたしも最初の印象はそうでした、ですが、ビジネススクールのモジュール授業の場で、物の捉え方とか、頑固そうなのに柔軟に他からの影響に対処できる処は、わたしと似ていると思っています。普段の凛とした気配を漂わせて、少し近づき難い理奈さんと、理奈さんの心の内と云うか、人間としての本質は異なることを知ることが出来たので、お付き合いをさせて頂きました」
「正解だな……。ただ、きみも理奈も周りが放っておかないだろうな……。その辺りのことが、これからのふたりの課題かな……。でも最初に話したように、お互いの才能や能力を活かすために、互いの存在が障害になるようなら、深刻に考えることは無いんだから、冷静に状況を判断することだね。きみ達にはできる。それは覚えておいてくれるかな……」
「ありがとうございます。心に留めておきます……」まゆ子が口を添える。
「皆部さん、フランスではね、不倫と婚外子が多いの、自由恋愛の国なのね。法律的に認められた結婚と個人的な契約の同棲、と云っても結果的に結婚に至る人の方が多いのよ。1999年にはパックス(PACS)と云ってね、まあ、法律的に認められた同棲の契約みたいなものね、条件はあるんだけど、わたしが気に入っているのは、別れたいと思って契約破棄をするのには、一方からの通告で良いってことなの……。事実婚でも良いけど、社会的な恩恵を受けるには法律による婚姻がベストね。云えるのは恋愛が自由にできる環境があるってこと……。パックスはまだそんなに利用されていないみたいだけど、世界にはそんな国もあるってことね。自由に恋をして、このひとと確信出来たら結婚すればいいの。信じられなければ別の道に進めばいいんですからね」
「叔母さん、わたし達に何を期待しているの?。分からないではないけど……」
「理奈さん、僕は叔母さんの話は凄く理解できるよ……。ぼくも理奈さんも、目標に向かって進むタイプたよね。夫々がやりたいと思う事に、自分が障害になりそうだと思えば、僕は相手を尊重すると思うよ……」
「わたしもそうだけど……。何か、ちょっと……。有難いとは思うけど……」
「ごめんなさいね、気に障ったようなら。老婆心ということで許してちょうだい……」
「そんな、大袈裟なことじゃないけど……」
「理奈。まゆ子はプレッシャーを取り除いてあげようと思って話してるんだよ。皆部くん、わたしも同じなんだよ……」
「はい、わかります。感謝します。僕自身は自分の考えが肯定されたような気がして、気が楽になりました」
「うん。それで良いんじゃないかな……。理奈、良い人を見つけたな……」
昭嗣はケーク.オ.シトロンの三つ目に手を伸ばそうとしていた。まゆ子が、その手を軽くポンポンと叩いてたしなめた……。
颯太は窓の外に視線をやる。庭園の端で、淡いピンクの花を満開にした沈丁花の香りが、ガラス窓を通して聞こえてくるような気がした。
庭に植えてある沈丁花を見ていて、祖母から聞いたことを思い出していた。
「颯太、沈丁花はね、一年中緑の葉をつけている常緑樹だから、永遠とか不死なんて花言葉もあるんだよ」
颯太は「永遠」と云う言葉に、何かが頭をよぎり、何とも言えない落ち着かない気持になったのを記憶した……。
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