揺れる想い

稲葉真乎人

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揺れる想い

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東京は二日前から、この季節には珍しく強い寒気が入りこみ、通勤する女性がスプリングコートの襟を立てて歩く姿が多く見られた。
芦沢丈晴が眠ろうとした深夜には、ホテルのルーム内にも冷気が漂い、肌寒さを感じさせるほどだった。

翌朝、丈晴はホテルの慣れないベッドで睡眠不足気味のまま目覚める。
前夜は寝つけず、深夜零時過ぎまで起きていた。
薄眼を開けて、調光した薄暗いダウンライトの灯りで腕時計を見ると、午前五時を回った処だった。
トイレに立とうとベッドから足を下ろして立ち上がる。
眠る前にエアコンを暖房にしておいたのは正解だった。
首筋辺りにエアコンの暖気のある微風が有り難く感じられるが、足元が冷気に触れると全身に身震いが来た。
もう一度眠る気はなかったが、ベッドに戻ると寝転がったまま目を閉じた。

前夜……。
芦沢丈晴は阿部昌也と別れてホテルの部屋に入ると、直ぐにシャワーを浴びた。
持参したロングティーシャツとスエットパンツの上下に着替えると、備え付けのポットで湯を沸かし、サービスで置いてあるティーバッグの緑茶を淹れて飲んだ。
阿部と飲んだビールは、酔って眠気を誘う程の量では無かった。
だからと言って、冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲み直すほど酒が好きな性分では無い。
シャワーを使う前、着替えの下着をバッグから取り出そうとすると、分厚いバインダーが邪魔をした。
そのバインダーは窓際の棚に置いたままにしていた。
お茶を飲んだ後、テレビを消してナイトテーブルのダイアルをクラシックに合わせ、紺色のバインダーを手元に取ると開いて読み始めた。
興味深い資料だった。丈晴は内容に惹かれ、結局最後のページまで目を通した。
資料を読めば眠気が誘引されると思っていたが、逆に頭は冴えて眠れなかった。
資料を読み終えた丈晴は、梅木友香の情報整理能力と感性に衝撃に近いものを感じていた。

丈晴はひと月前に内示を受けたときから、自分なりに行動計画を立て、下調べを始めていた。
担当する地域のうち、生まれ育った京都は別にして。
滋賀県下の商工関連部門や農林水産部門を主に、各種の業界団体本部を訪れて資料入手と関係者との面談を重ねていた。
紺色のバインダーに納められた資料は、丈晴が手に入れたいと考えていたデータ資料の半分以上をカバーしていたのだ。
取り寄せたパンフレットや業界誌の抜粋記事の分野別ファイルに加え、インターネットからプリントアウトされた情報。全てが整理加工されてファイルに加えられていた。
それぞれの項目に関連のある数値データと図表の類は、バインダー最後のクリアポケットにSDメモリーカードが納めてあると付記されていた。

丈晴は、梅木友香のビジネスセンスとスタイリッシュな容姿に加え、キャリアを連想させない優しい語り口や眼差しが思い浮かび、その魅力を一層深く知らされた気がした。
暫くして我に帰り、友香に惹かれそうになっている自分に気付く。
丈晴は、それを認めたくはなかった。
「~彼女、恋愛を上手く仕事に絡めて進めるんだよな……。つまり相手は恋愛に陥っていることに気付かないんだ~」
そう梅木友香のことを評した阿部昌也の言葉の意味が理解できた気がした。
容姿端麗で仕事の出来る女性。
本人に会って受けた印象は、控えめで遣り手のキャリアウーマンとは程遠く。穏やかで優しい表情の女性であり、言葉使いの中に、高慢な気配は窺えなかった。
帰国子女にありがちな積極的な自己主張も感じられなかった。
彼女を嫌いになる理由をと言われれば、あまりに出来過ぎていて完璧すぎると云うしかない……。
丈晴は、無理矢理だが、自分にそう納得させるしかなかった。

資料を読み終えた丈晴の脳裏に、これからやるべき事のアイデアが次々と浮かんだ。
その合間をフラッシュの様に、友香の笑顔が幾度か現れて過ぎって行った……。
ベッドを出て、冷たくなっていたティーバッグを湯飲みに戻して湯を注いだ……。
BGMの弦楽四重奏が急に大きく聞えた。
ボリュームを絞りながら腕時計を見ると、針は真上で重なる寸前だった。
ティーバッグを入れたままの湯呑を手にして、椅子に凭れかかる……。
五年前に梅木友香と付き合っていた人事課の大高省吾。
十年前に彼女との結婚を諦めた大阪営業所長の近藤祐司。
ふたりとも、恐らく同じような想いに悩まされたのだろう……。そんな思いが過ぎる。
思考の流れを止めようと、丈晴は湯呑み茶碗の中のティーバッグを取り上げた。
香りのない、温くなった薄緑色の茶を啜った。
ベッドに戻り、焦点の合わない視線を狭い部屋の空間に泳がせる。
梅木友香のことを忘れて眠ろうとするが、逆に意識をするなという想いは失せて、思考とは違う妄想が頭の中で巡り続けた……。

眠った時刻を正確には覚えていないが、目覚めたのが五時なら少なくとも四時間は熟睡していたことになる。
そう考えて、睡眠不足でも仕方ないと自分に言い聞かせた。

四月二日。新組織MDG、初の集合会議は301会議室で行われた。
前日の発足式と同様、格式ばった会議方式では無く、会議室にはリラックスした雰囲気が漂っていた。
会議室に入ると、出席メンバー夫々の名札が立てられたテーブルの上に、コーヒーカップが並べてあった。
会議は、ステンレスポットから香り高いコーヒーが注がれる処から始まった。
丈晴にとっては入社以来初めての、異例の会議開始パターンだった。
十二人のメンバーに加え、グループの推進役である営業本部長の桜井隆明、秘書の梅木友香。
この日は、前夜東京に来ていた、西日本グループの事務担当者に任命された八島美那子も出席していた。
グループのミッションと仕事の進め方についての説明は、極めて簡潔なものだった。
抜擢された優秀なメンバーにとっては、簡潔な説明で十分に理解できるものだった。
会議の途中には休憩があった。
ミーティングテーブルから離れた壁際の長机見の上には、小ぶりの藤で編まれたバスケットが並び。
気分転換と緊張をほぐすことを考慮した、クッキーやおかき、かりん糖やチョコレートやキャンディーが入れてある。
数名が適当にクッキーやチョコチップを摘みながら談笑する。
コーヒーポットを持って回って来た友香から、手にしているカップにコーヒーを注ぎ足して貰っている。
丈晴は友香からコーヒーを注いで貰う時、短い言葉を掛けた。
「昨夜、読ませてもらいました、凄いですね。情報収集能力と分析能力に脱帽します……」
「いいえ、お役に立てれば嬉しいです。何でも言ってくださいね?」
「ありがとうございます……」
丈晴は、自分に対する友香の表情と接し方に、他のメンバーとの違いを察知する。
自分だけが特別扱いされているのを感じ取った。
八島美那子が丈晴に近寄る。
「芦沢さん眠そうですね、大丈夫ですか?」
「ああ八島さん……。ちょっとね、昨夜はベッドに慣れなくて……。
これを飲めば持ちそうだ。それより何時来たの?」
「はい、昨日の七時過ぎに……」
「そう、それじゃあ夕食は独りで?」
「いいえ、梅木さんから連絡を頂いていましたから。ごちそうになりました」
「そう……。美味しいレストランにでも連れて行って貰ったんだ?」
「はい、大阪には無い雰囲気のお店でした……。芦沢さん、これをお渡ししておきますね。帰りの切符です。梅木さんが取って下さっていて、君原さんがみんなに渡すようにと……」
「そう、八島さんも一緒に帰るんだろ?」
「はい。わたし芦沢さんの隣の席の切符にしました。いいですか?」
「いいよ。光栄だな……。これ二人席じゃない?」
「特別じゃないですよ。切符はみんなDとE席ですから……」
「そう……。八島さん、本社に来るのは?……」
「五度目だと思います。緊張しますよね?。自分の会社じゃないみたいです」
「まあ、関西支店とは雰囲気が違うよね」
「そうなんですよね。女性の誰を見ても、みんな仕事が出来るって感じでしょ?。ちょっとだけ自信喪失に陥りそうです」
「八島さんは大丈夫だよ。優秀だからMDGに選ばれたんだから」
「そうなんですか?」
「そう思わない?。東日本は梅木さんだよ……」
「いいえ、比べられませんよ。梅木さんは女性社員のトップのひとですよ……」
「八島さんだって西日本のトップだと思っていればいいんだよ」
「いいえ、他にもたくさんいらっしゃいますよ」
「そうかなぁ……」
「そうですよ、関西支店だと……、電算機センターの本間さんなんかが梅木さんみたいな存在になるんじゃないですか?」
「本間さんを知っているの?」
「総務でしたから……。それに彼女、わたしの一年後輩なんですよ」
「同じ大学なの?」
「いいえ、年齢もひとつ下ですけど、去年から本間さんもわたしと同じ外国語学校の英会話クラスに……」
「二人とも英会話を学びに通っているんだ?」
「わたしは大学で英文科でしたけど、本間さんは工学部の電子工学専攻なんですよ。珍しいでしょ?。社員の中でも居ないと思います。とても勉強家なんです」
「そう、本間さんは電子工学専攻なんだ、知らなかったな……」
「本間さんって、梅木さんに似ているような気がしませんか?」

休憩が終わり、会議の後半はメンバーそれぞれがミッションに対する自分なりの理解と、今後の行動推進プランを発表した。
お互いの感想や意見交換をして予定通りの時刻に終了し、昼食前には散会となった。
西日本のメンバーが君原の処に集まった。
君原は、東日本のリーダーと一緒に桜井本部長と昼食に行くので、新幹線の時刻までは自由行動にしようと提案した。
メンバーはそれぞれ思惑があるのか、ごく自然に提案を受け入れて社内に散って行った。
芦沢丈晴と八島美那子は、他のメンバーより遅れて301会議室を出ようとしていた。
「芦沢さんは、これからどうされます?。社員食堂ですか?」
「いや、別に決めていないけど、八島さんは?」
「良かったら、お食事に連れて行ってくれませんか?」
「そうだね、社員食堂でもないな。外に出ようか……」

「芦沢さん、八島さん……」
丈晴と美那子が振り返ると梅木友香が近づいて来た。
「お食事どちらかへ?」
「八島さんのリクエストで、外に出て食べようかと……」 
「御一緒して宜しいかしら?」
「そうでした梅木さん、昨夜はごちそうさまでした。ありがとうございました」
「いいのよ、わたしも独りで夕食は寂しいでしょ……。八島さんはお昼は何がお望み?、芦沢さんは?」
「ああ、僕は蕎麦でもと思っていたんですけど……」
「そうね、八島さんは?」
「わたしも、お蕎麦で……」
「じゃあご案内するわ、お蕎麦もだけど、天麩羅が美味しいお店なのよ」
「いいですね。わたし天麩羅大好きなんです」
「八島さんは食べっぷりが宜しいから、お食事ご一緒して楽しかったわ」
「八島さん、昨夜はそんなに御馳走になったの?」
「はい、わたし久し振りにたくさん食べてしまいました」
「それで、まだ天麩羅が行けるんだ?」
「だって、ホテルの朝食はクロワッサンとベーコンエッグとサラダでしょ……、それに生ジュースだけでしたから」
「会議室でクッキーやチョコレート……結構、色々と食べてなかったか?」
「見てました?」
「でも八島さんは太ってらっしゃらないからいいわね?」
「いいえ、梅木さんに比べたら……。わたし着痩せするんですよ」
「そうかな?、着痩せじゃなくても、八島さんは十分スリムだと思うよ」
「ほんとですか?」
丈晴は肯づいた。ほんとにそう思っていた。
「八島さん、わたしもそうなの、着痩せするタイプなのよ」
「梅木さんも八島さんも、スタイルを気にすることはないと思うけど。邪推なんだけど、二人とも部長の意向で選任されたのかな?。部長の奥さんはミスコンの入賞者だったって聞いているし……」
「それはどうかしら。でも、奥様はほんとにそう、とても色白で綺麗な方なのよ。わたしは、そうじゃないもの……。でも、八島さんは部長好みかも知れないわね?」
「梅木さんからそんなに言われるなんて、どうしよう……」
「八島さん、良かったら蕎麦代を払うんだな……」
「えーっ ! 。 きっと、高いお店なんでしょ?」
「いいのよ、わたしが御馳走するわ、東京のお客様だから。本社のお客様じゃないわよ、わたしのお客様……」
廊下を進む三人を、すれ違う社員が眩しそうに見て通り過ぎる。
長身の丈晴に見合う背丈の友香と、品の良いお譲さん風の美那子……。
ファッション雑誌の表紙になりそうな見栄えの三人だった。
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