枳殻のささやき

稲葉真乎人

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16.現実

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各事業所の新年会も終わり、成人式が近づいていた。
連休を前に、秀作は退社時刻になると、早々と会社を出て自宅に向かった。
秀作が帰宅すると、既に桜井雄一と娘の幸乃が来ていた。
玄関に出迎えてくれたのは奈美と幸乃だった、ふたりとも淡いパステルカラーのエプロンをしていた。
「お父さんお帰り」
「小父さん、お疲れ様です、お邪魔しています」
「ああ、いらっしゃい、早いね、お父さんは?」
「奥で、壮太さんと話しています」
「もう始めているの、いい匂いがするな」
「お父さん、いいから早く着替えてきて?」
「分かった、それにしても、みんな早いな、早退したのか?」
洗面を使って奥の座敷に行くと、雄一と壮太が向かい合って話していた。
「おう、ご苦労さん、邪魔しているぞ」
「お帰り」
「ふたりとも早退したのか?、急いで会社を出たんだがな……」
「僕は直帰したんだ、小父さんは休暇なんだって……」
秀作が雄一の顔を見ながら言った。
「年明けから休暇か?、どうしたんだ、デートか?」
「馬鹿を言うな……」
「そうか、忘れていた、一月十五日だったな?」
「ああ、でも成人式の日だと憶えているからな、今日、墓に参ってきたんだよ」
「以前の成人式は十五日だったからな、そうか、何年になるかな?」
「十一年になるよ……」
壮太が言った。
「僕も憶えているよ、幸乃さんと初めて会ったのは、小母さんの葬儀だったから、中学二年になる前だった……」
雄一が言った。
「そうだったね、まだ壮太くんも幸乃も奈美ちゃんも、少年と少女だった。幸乃は、独りっ子だったから、壮太くんと奈美ちゃんが来てくれて助かったのを憶えているよ。奈美ちゃんは、小学校の四年生だったかなぁ?」
秀作が言った。
「そうだよ、早いなぁ、でもまあ三人とも普通に育ってくれたよなぁ……」
そう言って、暫く間をおいた秀作に、雄一が言った。
「どうした、何か、あったのか?」
「ああ、会社で、周りに若い人が多いだろ、プライベートなことには深入りしないようにしているんだが、何故か関わってしまうこともある、気になる娘さんがいるんだ……」
壮太が言った。
「お父さんと同級生だったひとの娘さんのこと?」
雄一も言った。
「友香里さんとも一緒だった、西さんと言うひとの娘さんか?」
「そうだ、泉田祥子というんだが、僕には東京に行くと話していたのに、今は台湾にいるらしいんだよ」
「どうして又、台湾なんだ?」
「父親だ、西さんと離婚してから、台湾に行って事業を始めたんだね、そこで病気になったらしい。娘さんは、母親の西さんより父親の方に行ったんだ」
「その西さんと言うひとが、例の京泉商会の女性社長なんだろ?」
「そうなんだ」
「あのなぁ君原、表面化してはいないが、あの会社については、かなり胡散臭い噂が流れているぞ……」
「そうらしいな、昨日、本社に寄ったときに、部下だった受付の女性から聞いたよ。門脇さんというんだけどな、西さんの娘の大学の一年後輩なんだ、父親が税理士事務所をやっていて、彼女から、京泉商会のことが警察沙汰になりそうだと……」
「門脇税理士事務所なら知っているよ、税務署の退職者も何人か居る事務所だ」
「そうか、それじゃぁ、その線からの情報だと思うよ」
「でも、その泉田さんと父親は、もう会社とは関係していないんだろ?」
「そうだ、それだけが救いといえば救いなんだが、西さん本人のこともなぁ……」
「お父さん、その娘さんの何が心配なの?」
「夢だよ、西さんに似て美人でスタイルもいい、本人が退社する前に、わたしに話してくれたんだ。上京してモデルになる最後の挑戦をしたいと……。本心だと思って聞いたんだけど、実は彼女、同僚にはモデルスクールに通っていると偽って、介護の勉強に通っていたんだよ」
壮太が言った。
「お父さんの会社に勤めているときに?」
「そうだ、だから早退や休暇が多かった。それが、周りには不真面目だと映って、社内の噂になっていたんだ」
雄一が言った。
「可哀想だな、本人は、よくノイローゼにならなかったな?」
「本人も噂のことは分かっていたんだ、それでも、志しの方が勝った。父親の看病は自分がすると決めていたからだよ。だから周りの親しい者には、モデルスクールに通うと言っていたんだ。資格より、実際の介護のノウハウだけでもと考えてのことだ。賢いよ、西さんの若い頃と同じだ」
「そうか、確かに、そう云う意味では普通だとは言えないな?」
「いや、さっき、みんな普通に育ったと言ったが、幸乃さんも普通に育ったというのは違うかもしれないな、苦労している筈だよ。でも、いい娘さんに育ったことは間違いない。君の努力を認めるよ」
「まあな、友香里さんの息子さんも同じだ、ふたりを、これから支えてやろうと話しているんだ」
「おい、今夜は、その話しをしたかったのか?」
「まあな……」
「そうか、友香里さんか……、良かったなぁ」
「ああ、君のお陰だよ、契約している社員の人達も、なんとか行き先の目処が付いたそうだ」
奈美が、すき焼きの準備が出来たと言って、野菜を山盛りにしたボウルを持って来た。
「お兄ちゃん、コンロをお願い?」
「分かった、小父さん、ビールでいいですよね?」
雄一が笑いながら言った。
「壮太くん、伏見の蔵元の友人から正月用に貰ったものだが、限定品だぞ、お母さんに渡してあるから、それもお願いするよ」
秀作が嬉しそうに言った。
「悪いなぁ、いいのか、楽しみに飲もうと思っていたんじゃないのか?」
「いや、いいんだ、君原の小父さんにお礼に行こうって言い出したのは幸乃だ、肉は、あの子が自分で買って来たんだ」
「嬉しいけど、申し分けないな」
「君原、正月に、お互いが子連れで会ったんだ、再婚の方向で子供達に話した。幸乃も喜んでくれているみたいだよ」
「そうか、水沼さんも息子さんも喜んでいるよ。そうだ、黒崎シェフが、中っただろって、自慢していたよ、君らが初対面のときに、一緒になるって明言していたからな、今度は、僕が黒崎シェフの所に君たちを招待するよ」
「あの店は、スペランツァだったな、希望か……、いい店の名前だ、僕の新しい想い出のリストランテと言うことになるなぁ」

進藤里絵の本採用が内定になったのは、西城との結婚式の一週間前だった。
二月中旬の土曜日、高槻のホテルの一室を借りての結婚式は、式と言うより、お披露目の親睦パーティーだった。
参加していた新郎新婦の親族は、両親と兄弟姉妹だけで、あとは同僚が中心だった。
会社の上司は、秀作と西城の所属する開発課の課長の、ふたりだけだった。しかも、会場では部長でも課長でもなく、会社の先輩の一人として招待された、秀作は満足だった。
三時から始まったパーティーが終わったのは五時半過ぎだった。
二次会に参加する者が多かったが、氏家沙智子と門脇朋美、そして立川美南は、秀作と一緒に阪急電車で京都に帰った。
烏丸駅で下車した三人は、秀作に、何処かに連れて行って欲しいと言った。
秀作が電話をして、連れて行ったのは、いつものスタンドバーだった。
土曜日であることと、この店では何時ものことで、夕刻早くからの客は居なかった。
マスターは、コースターを四個並べて待っていてくれた。
「君原さん、今夜は、華やかですね、こんな店に来るファッションじゃない、僕もスーツにバタフライ.ボゥでもした方がよかったですね」
「会社の同僚の結婚披露パーティーの流れでね、もう、飲んでいるから、お嬢さん達には、軽いのを作ってあげてくれますか?」
「かしこまりました、皆さん、任せて頂いて宜しいですか?」
三人は「はい」と言って肯づいた。
「紹介しておくよ、氏家沙智子さん、門脇朋美さん、立川美南さん、わが社の有能な社員だから、宜しくね……」
「わかりました、君原さんの付けで何時でも気が向いたら、いらしてください……」
「なんてことを、それを言うなら、マスターがごちそうしますからの方がいいと思うけどね……」

朋美だけが、明るく、はしゃいでいた。沙智子と美南は、元々静かなタイプだった。
ふたりは微笑みながら朋美の話しを聞いていた。
朋美は、この場で自分だけに恋人がいないことを、冗談めかして面白おかしく話していた。
マスターが言った。
「朋美さん、自分を茶化しては良くないな、間もなくですよ……。そのときは、ここに報告に来なさい、オリジナルカクテルで祝ってあげよう」
不思議な表情でマスターを見詰めた朋美に、秀作が言った。
「よかったね、マスターにそう言われたひとは、必ず好いひとが見つかるジンクスがあるんだよ。特にマスターがオリジナルカクテルを作ってあげようと言ったカップルは、半年以内には、婚約まで行っているんだ……」
「ほんとなんですか?、嬉しいわ、でも、オリジナルカクテルを作って貰えないカップルも居るんですか?、わたしには、何か良くないことみたいな感じがするわ……」
マスターがグラスを拭きながら言った。
「逆ですよ、オリジナルカクテルを考える前に、一緒になってしまうんだから……」
秀作が言った。
「そう、そんなカップルには、後で考えてくれるんだね……。この店のリウォードって、何の意味か知っているかい?、氏家さんは駄目だよ、英文科だから……」
美南が不思議そうに言った。
「英語ですよね、門脇さんのお話しとオリジナルカクテルに関係があるんですか?」
秀作が言った。
「少しはあるかな、立川さん、いい勘をしているよ、考えてご覧?」
美南は真剣に考えていた。
マスターは笑顔で、グラスを拭き続けていた。
秀作が言った。
「時間切れだね、氏家さん、教えて上げてよ」
我慢しきれない美南が、カウンターに乗り出すようにして言う。
「教えて下さい、氏家さん……」
「ご褒美のこと……」
朋美が納得したように言った。
「信じていいのかしら、凄く酔いそうな感じ……、マスターから後光が射しているわ……」
マスターが顔を上げて言った。
「悪い酔い方だなぁ、僕のこの頭をそんな風に言うなんて、君原さん、社員のマナー教育に問題がありそうですね、でも、面白いジョークだ」
マスターはグラスと布をカウンターに置くと、薄くなった頭の後ろで、両方の掌を広げてひらひらと動かした。珍しく、ご機嫌の様子だった。
「そんな意味で言ったんじゃありません、ごめんなさい、すいません……」
みんなが笑った。
三人の女性が、会社では見せない表情を見せていた。秀作は、端の席で微笑ましく見ていた。
次第に緊張が解けて、女性同士の話しが盛り上がっていた。
マスターの小山京一郎が、秀作の傍に寄って来て、抑えた声で言った。
「京泉商会、近々に強制捜査が入りそうですよ。夕べ、小耳に挟みましてね」
「そう……」
「かなり、あくどい契約でやっていたようですよ、又、自殺者が出ているらしいんです、新聞には載っていませんが……」
「ありがとう、気にしてくれていたんだね」
「君原さんが真剣に心配しておられたから、放っておけないじゃないですか……」
朋美が話しを止めて振り返った。
「君原さん、わたしも聞きました、祥子先輩に伝えた方がいいですか?」
秀作は考えた。
「いや、彼女には精神的な負担が大きいから、伝えない方がいいな。台湾じゃ自然に伝わるまでには時間が掛かるだろう……。向うに行って間がないんだからね、お父さんの世話だけでも大変だよ、伝えない方がいい……」
マスターも言った。
「わたしも、そう思うよ、母親から離れて行っただけでも、本人には、他人に言えない辛いものがある筈だから……ねぇ、君原さん」
沙智子が、一番心配そうな表情で聴いていた。

三月に入って直ぐだった。
ローカルニュースで、京泉商会の一斉強制捜査が伝えられた。
その後、社長の西瑞穗と幹部二名、関連の暴力団員数名も逮捕された。
地方新聞に『京泉商会やり手女社長の業状を暴く』というコラムが三回に亘って掲載された。
秀作は信じられなかった。
同じコラムを読んだ水沼友香里は、哀しさに耐えられなかった。
カズホの登記抹消の手続きも済ませ、太秦の桜井の元へ行く準備を始めようとしていた処だった。
友香里は、秀作の職場に電話を入れた。
「お忙しいのに済みません、先ほど、水原部長様に、お世話になったお礼に伺って来たところです。君原部長さまには、進藤、立川のふたりが、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ、立川さんと進藤さんの件を、気持ち良く受け入れて頂いて感謝しています、わざわざご丁寧に、お疲れさまでした……」
「あのー、君原さん、今夜、お付き合い願えませんか?」
「ええ、結構ですが……」
「お礼もありますし、西さんのことで、聞いて頂きたいこともありますので……」
「分かりました、どうしましょうか?」
「はい、それでは、おたくの本社ビルの前で、七時ごろでは?」
「結構です、そうしましょう」

秀作は早めに事務処理を済ませると、氏家沙智子に後を任せた。三時過ぎに技術部の門を出て、本社に向かった。
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