枳殻のささやき

稲葉真乎人

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12.虚実

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秀作は、黒崎の店を出てから、ずっと浮き浮きした気分を絶やすことなく帰宅した。
フランス菓子店では、顔馴染みのオーナーに、「何か、いいことが、おありでしたか」と言われた。
玄関に出迎えた美紀も、秀作の笑顔に釣られて、理由の分からないまま、笑顔で土産の手提げ袋を受け取った。
「おかえりなさい、どうなさったの?、桜井さんと水沼さんは?」
「ただいま……。分からないけど、大丈夫だよ、黒崎さんも、そう言っていたから」
「あら、それだけで、どうしてそんなにご機嫌なの?」
「まあ、コーヒーを淹れてくれるかな……。それより、我が家の、青春真っ只中の若者達は?」
「あら、何ですかそれ、二人とも帰っていますよ」
「じゃぁ、呼んでやったらどうだい、君の好きな林檎のタルト.タタンだ」
「あら、わざわざ回り道をして……、嬉しいけど」
奈美が、声を聞き付けて二階から下りて来ていた。
「お父さん、お帰りなさい、どうだったの?」
「ああ、そんなに直ぐには分からないよ。でも、上手く行くような気がするよ」
「お父さんは、最後まで居なかったの?」
「ああ、黒崎の小父さんが、邪魔みたいだから二人にして上げようって、お父さんも、そう思える雰囲気だったよ、初対面から好い感じだった……」
そう言い残して、秀作は着替えに行った。
着替えをして戻ると、壮太も居間に来ていた。
美紀と奈美が、コーヒーを淹れて、ケーキ皿を準備すると、全員が居間のソファーに座った。
奈美が言った。
「お父さん、今日ね、お母さんに言われたから、幸乃さんと話して来たのよ」
「そう、幸乃さんは、何か話していたかい?」
「小父さんの幸せが優先だって。幸乃さん、今は恋人がいないから、探すと言っていたわ」
「そう、特に拒否反応みたいなものは感じなかったのか?」
「もう大丈夫みたいよ。以前みたいなことは無いわ、とても明るくて元気だった」
「そう、幸乃さんと吉岡さんの息子さんが理解してくれればいいんだがね、吉岡くんは母親孝行だそうだ。幸乃さんも親孝行な娘さんだから、どうなるかな……」
美紀が言った。
「黒崎さんが大丈夫だとおっしゃるのなら、大丈夫じゃないかしら、黒崎さんは恋多き方だし、二度目の今の奥さんは五歳も年上の方ですから、経験もおありになるわ」
「そうだね、それに、君もわたしも、二人が合いそうだと思ったんだから、きっと大丈夫だと思うよ。後はどうなるか分からないけど、結果を受け容れるだけだね」
「それはそうと、貴方、西さんのことは、お訊きになったの?」
「いや、そんな時間は無くてね」
「そう、でも気になりますね?」
「そうだな、あの周りの男性は、普通の雰囲気じゃなかったものなぁ」
「お嬢さんは、紹介で入社されたとおっしゃっていたわね、ご主人本人なのかしら、それとも、知り合いの方の紹介?」
「分からないよ、部下じゃなかったからね。水原さんなら知っているだろうけど」
壮太が言った。
「お父さんの会社の得意先だったら、大企業の工場とかじゃないの?」
「いや、最終ユーザーはそうだが、販売商社も得意先にはあるんだ、最近は輸出も増えているからな」
美紀が言った。
「三十年以上経っているとは言っても、どうしても西さんのイメージが繋がらないわ、清純で温和な感じの女学生だったもの……」
奈美が言った。
「お母さん、中学のときのイメージなんて当てにならないわよ、成人式の時に会ったわたしの同級生でも、全然違うひとがいたもの……」
「それは分かるわ。でも、お母さんは高校のときにも見ているのよ、お父さんのお話しだと、感じは変わってないって……」
壮太が言った。
「女性は分からないよ、表面の印象と心の中が一致するとは限らないから」
「あら、そんな経験があるの?」
「ないけど、友達の彼女でも、そういう勘違いって、結構聞かされているからね」
奈美が言った。
「お母さんもお父さんも、どうしてそんなに気になるの?」
秀作が言った。
「娘さんが会社を辞めて東京に行く話しをしただろ、その時に家庭のことを少し聞いたんだよ、お金持ちだけど、まあ普通のお嬢さんに思えたんだ。それに、西さん本人には百貨店で直接会っているからね、それが、土曜日にお母さんと一緒に見た西さんは、全く別人のような雰囲気だったんだよ」
美紀も言った。
「見たまま言えばね、まるで高級クラブのママさんのような感じだったのよ、黒いスーツの男性を三人も連れて、お母さんは少しショックだったわ」
「お父さんは、会社の泉田祥子さんが、本当のことを話してくれてなかったんじゃないかと、疑問に思えてね。夢を叶えるために上京したと思っているんだけど、少し心配なんだ」
壮太が言った。
「お金持ちには、よくあるよね、表向きは豪華で優雅に振る舞っているけど、裏に回ると無茶苦茶ってやつ、主人はダーティな商売で、奥さんも娘も我が侭で、贅沢のし放題みたいなの……」
「壮太、そこまで飛躍させることはないぞ、そう思えたって話しだ、お父さんは泉田さんのことが心配で、気にしているだけだよ」
「ごめん、そうだったね。お父さんは親身に相談に乗って上げる方だからなぁ」
「でもなぁ、嘘を話しているようには思えなかったんだがなぁ……」
「貴方、気になるようなら、明日、水原さんにお訊きになったらどう?」
「彼女は、もう退社してしまっているからね。まあ、ついでがあれば紹介者が誰か、くらいは訊いてみるかな……」
奈美が言った。
「ねえ、お父さんは、ご機嫌の時には間違いなく、お母さんの好きな、このお菓子を買ってくるのね?」
「そうかい、気のせいだよ、みんなも好きじゃないか?」
「そうそう、幸乃さんが、着物のお礼に、うちに来てケーキを一緒に作ってくれるって。お母さんのアップルパイを教えて欲しいらしいわよ、小父さんもお父さんと一緒で、お母さんのアップルパイが大好きだから、あの食べ方は、子供みたいだもんね?」
「それは、いいわね、歓迎だわ、でも、お礼なんていいのに……」

秀作は、午後一時からの来期販売予算の修正検討会議に、オブザーバーとして出席した。
会議が終わったのは、予定通りの四時少し前だった。
喫茶コーナーで、自販機のコーヒーを飲みながら、営業部長と立ち話をしていた。
営業部長が、専務に呼ばれて行くのと同時に、門脇朋美がコーナーに来た。
「君原部長、言って頂ければ、コーヒー淹れましたのに……」
「やぁ、これで十分だよ。それより、慣れたかい?」
「ええ、何とか、立川さんは、どうですか?」
「まだ、日がそんなに経っていないから、でも、以前より明るくなったような気がするよ。そうだ、今いいかな?」
「ええ、交代した処ですから、何か?」
「ちょっと、応接コーナーに行こうか?」
「じゃ、コーナー使用の連絡を伝えてきます」
朋美は、お茶を二つ持って、応接コーナーに戻って来た。
「門脇さんは、泉田さんと学生時代から知り合いだと言っていたね?」
「ええ、泉田さんは、同じ同好会の一年先輩ですけど……」
「彼女は辞めてしまったけど、少し聞かせて欲しいんだ。彼女は、お得意先の推薦で入社した、とだけ聞いていたんだけど、お父さんの会社はどんな会社か、門脇さんは、その辺りのことを知っているのかと思ってね」
「部長、何か、気になることがあったんですか?」
「大したことじゃないんだ。実は、つい最近のことなんだがね、百貨店の中のティーサロンで、中学時代に同級生だった、西さんというひとに三十数年振りに会ってね、そのひとが泉田さんのお母さんだと、後で分かったんだよ」
「そうなんですか?」
「そのとき、一度だけ会っただけなんだ、それが、日曜日にワイフと先斗町で昼食を取っているときに、四条大橋近くの川原を歩いておられる姿を見てね……」
「何か、おかしかったのですか?」
「少し不自然な感じがしてね。西さんという女性は、昔は物静かで温和な感じのひとだったから、雰囲気が違っていたんだよ。ワイフも、その西さんの後輩だから知っているんだ、どうしてもイメージが違うと言って、わたしも、そう思ったんだ……」
「それって、何か心配に繋がるようなことなんですか?」
「そうなんだ、泉田さんが退社されるについては、相談を受けていたんだよ、その折に、御両親との親子関係のことも聞いていたんでね。彼女の退社は、本当に自分の夢に向かって上京するためだったのかと、少し心配になるような気配を、お母さんから感じたものだからね」
「御存知なかったんですね、祥子先輩のお父さんの仕事は、うちの会社とは直接関係はなくて、お父さんが頼まれたひとが、うちの会社と関係があるひとなんです」
「と言うと、分からないな……」
朋美は、少し考えながら言った。
「祥子先輩のお父さんの会社は、金融業なんです」
秀作は何となく理解できた。
「そんなに大手の金融会社じゃないんだね?」
「はい、祥子先輩を紹介されたのは、お父さんの会社から融資を受けていた会社の社長さんです。うちの機器の販売サービスの会社でした」
「でした、と云うことは、その会社は、もう当社とは関係無いってこと?」
「はいそうです、祥子先輩が入社されて、そう、わたしが入社した後ですから、二年前くらいです。その方は自殺されて、会社は倒産しました……。思い出しました、営業本部の吉岡さんが御存知だと思います。隅田さんから、吉岡さんも債権者会議に出られたと、聞いたことがありますから」
「どうもありがとう」
「いいえ、祥子先輩と連絡を取ってみましょうか?」
「いや、それには及ばないよ。それよりクリスマスには、いい予定が入っているのかな?」
「残念ながら、でも、社員大会の委員会のメンバーで集まることになっています。何となく寂しいですけど、部長、ほんとに、若い人の集まりには呼んで下さいね?」
「いいよ、憶えているから、声を掛けるよ」
秀作は朋美と応接コーナーを出て、一緒に管理部の事務所に行った。
水原が秀作に近寄って来た。
「君原部長、今日は、もう技術部には戻られませんか?」
「ええ、今日は何もないと、さっき氏家さんから電話で聞きましたから」
「それじゃ、久し振りに、いっぱい行きますか?」
「わたしはいいですが、明日はクリスマスイブですから、町は若い人で一杯じゃないですか?」
「飲み屋には居ないでしょう……。部長とも、今年は最後になりそうですから、付き合って下さいよ?」
「いいですよ、そうだ、それより、ちょっと時間いいですか?」
「結構ですよ、どうぞ」
水原は、自分のデスクの傍の、応接の椅子を勧めた。
「水原さん、この前辞めた泉田さんのことですが?」
「はい、彼女に何か?」
「父親の会社が金融業だと聞きましたが、水原さんは、知っておられたんでしょ?」
「ええ、よく憶えていますよ、実は、泉田さんの採用については、提携のサービス会社の社長から、たってのお願いと言うことでした。幹部会でも、問題になったんですよ」
「と言いますと?」
「泉田祥子の父親の会社は、今ですから言いますが、色々と問題の多い会社でしてね、金融トラブルがあると、必ず名前が上がるんです。勿論、表立ったトラブルじゃないですよ。しかし、面接をしてみると、本人は、あの容貌ですし、話し方や態度も問題はありませんでしたから、当人本位ということで、採用に踏み切った経緯があるんですが……、今頃、何か?」
「その提携していた得意先は、倒産したとか?」
「ええ、社長が自殺されましてね、会社の経営は順調だったようなんですが、何かの理由で、泉田祥子の父親の会社から金を借りたんですよ、それが結構多額でしてね、返済するのに銀行借り入れを申し込んだらしいんですが、銀行では担保に見合わないという理由で、融資を受けられなかったようです」
「理由は、なんですか?」
「わたしは直接担当していませんでしたからね、えーっと、当時は、経理部と営業本部で対応した筈です。確か当時、君原さんの所から移籍した、営業部の吉岡くんが営業課長と一緒に、事後の対応をしていました。彼なら、よく知っていると思いますが、どうかされたんですか?」
「ええ、水原さん、泉田さんは本当に東京に行ったのですかね?」
「そう聞いていますが……」
「そうですか、どうも、時間を取らせて申し訳ありません。彼女が退社する直前に相談を受けていたものですから、少し気になりましてね」
「相変わらず面倒見がいいですね」
「いや、そんなのではないんですよ、まあ、また、お話ししますよ」
「そうですか、じゃ、当社の御認定の店でいいですか、先に行っていてください、片付けたら直ぐ行きますから」
「そうさせてもらいます、じゃ後で……」

秀作は少し嫌な感じがしていた、吉岡友香里が、泉田瑞穗に距離を置いているように感じた理由が、何となく分かるような気がし始めていた。
水原が当社認定店と冗談めかして言ったのは、本社関係の社員がよく利用している、町家と蔵を改造した、奥行きの深い建屋構造の飲み屋だった。
明朗会計と、亭主が日本海側の漁師町出身であることから、新鮮な海鮮料理が売り物だった。
本当の店名は『魚仁亭』と書いてウオジンテイだが、勝手にギョジンテイと読み変え、それがゴニンテイに変化して、社員達に呼ばれるようになっていた。
秀作が、本屋で時間を潰して、店に着いたのは約束の七時より早かった。
店内に入り、席の案内を待っている時だった。
「君原さん、お久し振りです」
「ああ、吉岡くんか、どうしたんだ、一人かい?」
「いえ、西城さんと待ち合わせです、今、そこの外の通で、電話されているんで……」
「そう、明日は社員大会のときのメンバーでパーティーをやるのに、今夜もかい?」
「えっ、誰に聞かれました?」
「本社で門脇さんにね、その準備かい?」
「いえ、それもですが、君原さんは聞かれていませんか、西城さん二月ですよ、それもあるんです」
「西城くん?」
そのとき、店の案内係りが来て、秀作に席へ案内すると言った。
「後で時間が取れたら、ちょっと付き合ってくれないか、リウォードのマスターの所で、どうだい?、これから、管理部の水原さんに一時間ほど付き合うから……」
「ええ、喜んで、それじゃその時に、どうぞ行って下さい……」
席に座ると同時に、水原が店のひとに案内されて姿を見せた。入り口で吉岡と短い会話をしたと言いながらやって来た。
「すいませんね、無理にお誘いして」
「いえ、構いませんよ、わたしも水原さんに訊きたいと思っていることがありましたから」
「そうですか、今年は押し迫ってからの社員の異動で、無理をお願いしましたからね、感謝しているんです、何でもお答えしますよ」
水原の機嫌よさそうな話し方が、何故か不自然に思えた。
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