枳殻のささやき

稲葉真乎人

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09.進展

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黒崎の料理は、勧めるだけあって、秀作も友香里も楽しく味わった。
ホットなカルーア.コーヒーを飲みながら、秀作が言った。
「最近、偶然、西さんに会いました。京都に住んでおられるのを、ご存知でしたか?」
「ええ、噂では。何処かの社長さんと、ご結婚をしておられるんですよね」
「そうらしいです。うちの本社の受付に座っていた、泉田祥子さんという女性が娘さんだと最近知りましてね、泉田という名前だったので、全く分かりませんでした。その彼女が退社することになって、僕の職場から女性をひとり出すものですから、是非とも立川美南さんを採用できたらと思った次第なんです」
「そうなんですか、そのお嬢さんは御結婚ですか?」
「いえ、モデルを目指して東京に……」
「西さんは中学の頃から、お綺麗でしたから、さぞかし娘さんもお綺麗なんでしょうね」
「受付で、お会いになったことはありませんか?」
「名前までは……」
「若い人達には、あまり評判が良くなかったんですが、会って話しをしてみると、夢を持って生きているお嬢さんでした。御両親との間に、考え方のギャップがあったようです」
「御相談か何かがあったのですか?」
「ええ、僕が西さんの友人だと知って、会いたかったそうです。でも、会うと、自分の身の振り方の相談になっていました。彼女は周りの批判を知っていて、辞表を出すタイミングを考えていたようでした」
「あの年代は難しいですからね。息子も親切にしてくれますが、何を考えているのか、話したいことだけしか話してくれませんもの……」
「今度、京都在住の同期生で会食をと云うような話しを聞きましたが、ご存知ですか?」
「いいえ、主人を亡くしてからは、誰とも連絡をしませんでしたから」
「もし連絡があれば、出られますか?」
「そうですね、会社に区切りがついていれば……」
「会社のことは、本気なんですね?」
「君原さんには本当のことしか、お話ししません。お話ししたでしょ、わたしも君原さんに憧れていた一人ですから……。今夜は、ほんとに幸せな気持ちなんですよ」
「ありがとう、人生って、何処でどうなるか分からないものですね?」
「君原さんは、お酔いになっても紳士ですのね」
「どうして、そう思われますか?」
「言葉遣いです。中学の頃も、決して女子生徒を見下して話したりされなかった、今も同じですから。でも、ご自分のことを僕と仰って、何となく懐かしいですわ」
「そうでしたか、気付きませんでした。水沼さんの理知的な雰囲気は、今も素敵ですよ、やはり憧れます」
「ありがとうございます。思えば西さんも人気がありましたから、わたしなんかは、もてませんでしたよ」
「嘘でしょ……。だとすれば、みんな、近づき難かったんじゃないのかな?」
「人生の岐路は、今度の立川さんのこともそうですが、何処で変わるか分かりませんね。君原さんが京都の大学に進まれたことは、高校の卒業式のときに友達から聞いて知っていたんです。わたしも京都でしたから、会えるかと思っていましたけど、君原さんの音信は途絶えてしまって……、どうしてだったのかしら、聞きたいわ?」
二人は、随分と打ち解けた雰囲気になっていた。
「目標にしていた学部に入れて、勉強に専念しようと決めていましたから、後は、バスケットボールでした。それと、彼女とは将来結婚をすると決めていましたから」
「高校を卒業する時には、もう柳井さんと?」
「そう、不器用ですから、早々と決めたんです」
「まぁ、それでは誰も入り込む余地は無かった訳ですね……。純情でらしたのね」
「水沼さんは、ご主人とは?」
「社内結婚なんですよ。主人の秘書をしていたんです、かなりの年上で、彼は再婚でした。お酒の付き合いが多くて、結局、お酒と不摂生が祟って亡くなったんです。息子のためには良かったのかも知れません。お酒を飲むと荒れる人でしたから……」
「申し訳ない、訊かない方が良かったですね、それで分かりましたよ。いい人を心掛けておきます、幾らでもいる筈だから」
「いいのよ、君原さん。貴方だから話せるのかも知れないわ、ずっと話していなかったことなの……」
「そう、これを機会に、たまにはこうして食事でもしましょうか?、ご迷惑でなければ?」
「迷惑だなんて、でも、奥さまに悪いわよ」
「この店ならいいでしょ、ワイフも出入りすることもありますし。そうだ、黒崎くんにも話しておきますよ、彼の友人には、いい人がたくさんいますから」
「ありがとう。本当に、変わらず優しいのね」
「それはもういいから、今夜は楽しかった、ありがとう」
「わたしもよ、嬉しいお話しでしたし、君原さんと、こんな時間を過ごせて幸せを感じているわ。何年ぶりかしら、こんな気持ち……」
秀作は、なんとなく残念な気持ちがしてならなかった。
秀作は、友香里が決して不幸ではないと思いながらも、夫婦揃って幸せであって欲しかったと、心の何処かで思っていた。
店を出るとき、レジの傍で黒崎が秀作に近づいて、耳元で言った。
「君原、罪なことをするなよ、それにしても、君は、ほんとにいい女性が傍に居るんだなぁ、羨ましいよ、美紀さんを泣かすなよ」
「君は、いつも馬鹿な見方しかしないな、それより、彼女に合いそうないい人が居たら連絡をくれよ、彼女も望んでいるから」
「独身なのか?」
「ああ、息子さんは、うちの会社の有望な社員だ。社長職は近々辞めるそうだから、これから独りじゃ寂しいだろ……」
「そりゃそうだ、立候補したいくらいだ。よし、真面目に探せばいいのか?」
「ああそうだよ。じゃぁな、美味しかったよ、流石だな、此処に客を連れて来れば恥をかくことは無い」
「おう、いい褒め言葉だ、ワインのコメントも勉強しろよ?」
「分かったよ、お休み」

黒崎は、嘗て大阪の有名なホテルのシェフだった。
知り合ったきっかけは美紀だった。友人と訪ねた嵯峨野の、ひっそりとした隠れ家のようなレストランが、黒崎がホテルを辞めて、始めていた店だった。
美紀は、そこで黒崎の夫人に出会った。夫人は同じ女子大の卒業生で顔見知りだった。二人は良く似た性格で、着物が好きなのが共通していた。それ以後、夫人と美紀は、好い付き合いを続けていた。
五、六年前だった、黒崎と夫人の間に離婚の危機があった。その折に、美紀と秀作が中に入って収めたことが、深く付き合うようになる始まりだった。
秀作と黒崎は、旧知の友のように気が合い、深く付き合うようになった。
黒崎は心機一転して、嵯峨野を引き揚げると京都市内に移り、今のイタリアン.レストランを開いた。

立川美南は、正社員採用の話しを喜んで受けた。勿論、同僚の進藤里絵も、それを喜んでいた。
カラタチ祭の前に、急遽、本社で面接試験が行われ、その日の内に採用が決まった。その報せを、技術部員は全員が歓迎した。
翌日から、氏家沙智子と門脇朋美は、付きっきりで立川美南に引き継ぎをした。
秀作が、自分の意見を採用してくれた本社の管理部にお礼に行った日、泉田祥子は本社内の部課所に、退社の挨拶回りをしていた。
廊下で出会った秀作に、丁寧にお辞儀をしてから言った。
「君原部長のお陰です、ありがとうございました。母が宜しく伝えて欲しいと、それと、わたしが会社でお世話になっていたことを、恥ずかしいと言っていました、お世話になりました」
「そんなことは思わないでと、お母さんに伝えて下さい。何も、貴女のことで恥ずかしいと思うことはないんだからね。貴女も夢を叶えるチャンスが少ないと思うのなら、必死でやってみることだね。万一、駄目であっても、妥協して目標を下げたりしないで、その時には新しい道を探す方がいいかも知れないね。じゃぁ、身体に気を付けて、しっかりね……」
祥子は深くお辞儀をして秀作を見送った。

師走の日曜日、近隣の企業の体育館を借りて行われた社員大会、カラタチ祭は盛会の内に終了した。
翌週の週末、準備委員会のメンバーが市内の居酒屋に集まり、解散式を兼ねた打ち上げを催した。
会は笹原智明と吉岡賢一が仕切っていた。
総務課の笹原の隣に、人事課の本田弘恵が座り、管理部に移籍して来た門脇朋美が、その隣に座っていた。
笹原の正面に吉岡が座り、隣には、同じ営業部の箕田早苗が座っていた。早苗を挟むように、末席に隅田博司が座っていた。
笹原が言った。
「今夜の飲食代の一部は、会社の経費と云うことで了解を貰いましたから、後は、僕と吉岡くんで面倒を見させて貰いますので、存分にやって下さい。それと、門脇さんが技術部から管理部に移籍されました。本人は喜んでおられますから、お祝いを兼ねさせて頂きますので宜しく……。それじゃ乾杯」
最初は社員大会の成功に酔って語り合っていたが、やがて、社内の人間関係の話しになった。朋美の移籍に伴って泉田祥子の話しになった。
吉岡が言った。
「泉田さんに、誰かが何かを言ったのかなぁ?」
弘恵が言った。
「それは無いと思いますけど、お得意先の社長さんの娘さんでしょ、誰も言えないんじゃないですか?」
吉岡が言った。
「じゃ、彼女の勝手な我が侭なのかな?」
祥子と同期の朋美が言った。
「我が侭ではないと思いますけど、みんなに迷惑を掛けたと、わたしは直接聞きました。泉田さんは自分の噂を知っておられたみたいでした」
笹原が言った。
「ぼく達は、泉田さんを誤解していたのかも知れないよ、彼女は、元々、うちの会社には来たくなかったと思うんだ。嫌々仕事をしていた訳じゃなくて、自分の夢のためにレッスンに通っていたらしいよ、それが休暇や早退になっていたみたいなんだな……」
吉岡が言った。
「それじゃぁ噂は全く真実じゃないってことか……。悪いこと言ったな、やる気のないやつは要らないなんて。ある意味、凄くやる気があるってことじゃないか……」
弘恵が言った。
「ほんとですよね、悪い噂は間違うと、その人を歪めて理解することになるんですね」
春に入社して、やっと職場に慣れてきた早苗が言った。
「あの、会社の仕事は、自分の人生と、どう釣り合いをとればいいんですか?」
黙って聞いていた隅田博司が言った。
「みんな最初は夢を持って入社してくる訳だから、その夢に忠実なら、いいんじゃないかな、それが途中で退社することになっても、在籍中に精一杯努力して、与えられた業務が遂行できて、責任を果たしていれば、それでいいと思うよ。組織に貢献している訳だから。吉岡さんは、どう思われますか?」
「うん、僕は、この会社が好きだし、いつも言うけど、君原部長のようになりたいと思っているから、今の路線で行くよ。でもな、みんなだから、初めて話しをするけど、母は派遣会社を経営しているんだけど、最近になって、創業の目的は果たしたから、会社を廃業にすると言いだしたんだ。幸い、社員は登録しているだけの人達だから、迷惑を掛けないように、時間を掛けて新しい登録先や職場を考えて上げているみたいなんだけど、泉田さんの今の話しを聞いていると、母も同じじゃないかと思えて来たんだ」
笹原が言った。
「確かにそうかもな、中途正社員の採用も増えて、雇用は終身という考えは、うちの会社でも薄れて来ているような気もするし……」
朋美が言った。
「そういう事になると、泉田さんは、みんなが噂をしていたほど不真面目な人じゃなかったということになるのね」
隅田が朋美に言った。
「門脇さん、実際は、そう云う事なんだよ。黙っていようと思っていたんだけど……」
「どうして?」
「実はね、今回の委員会に出るのには、仕事の時間を割いて来た訳だから、部長室に色々配慮して貰ったから、御迷惑をお掛けましたって、言いに行ったんだよ、その席で、門脇さんと派遣の立川さんの件を、部長が話されたんだ、部長は、泉田さんと会って話されたらしいんだよ」
「何を、わたしにも関係があるの?」
「まあ、順序よく話すよ、要は、部長は、泉田さんに辞めた方がいいと言われたみたいなんだ。でも、言い出しは泉田さんの方なんだ、彼女は、みんなに迷惑を掛けていることも知っていたし、親に言われて入社しているから、何時、辞めようかと迷っていたらしいんだ。事情を聞いた部長が、背中を押したということかな、彼女は、後任には門脇さんがいいと思うと言ったらしいよ、会社も、その人選と同じ方向だったと云うことだろうな。それと、部長は女性の立場の向上を考慮して、女性にも幅広い分野の仕事を任せて、男性社員との格差を無くそうと考えておられるみたいなんだな……」
吉岡が言った。
「やっぱり君原部長だな、考え方が新しいし、バランスがいいよな」
隅田が隣の早苗を見ながら言った。
「箕田さん、そう云うことなんだよ、だから、やりたいことがあれば精一杯やって、自分の夢の実現に向けて進めばいいんだ」
「そうですね、この会社のひと達は、みんなそういう風に考えて仕事をやってらっしゃるんですよね」
吉岡が言った。
「箕田さん、だからといって、早々と寿退社なんて考えないでくれよ?、営業部は、これから躍進するんだからね」
隅田が言った。
「箕田さん、吉岡さんは特別だからね。将来、会社を背負って行こうと思っているひとだから。僕らは、泉田さんや吉岡さんのお母さんみたいに、自分の目標に向かって生きて行けばいいんだ」
吉岡が言った。
「こら、箕田さんは新しい営業部のホープなんだ、これからなんだよ。営業部のマドンナなんだから、目標は大きく持ってもらわないと……」
「マドンナですか、せめてアイドルと言ってあげて下さいよ、古いですよ」
「そうか、隅田くんが言うのも中っている気もするな。でもなぁ、変に手を出すと、枳殻の棘の中に放り込むぞ、社長は、そのために枳殻を植えられたんだからな……、冗談だよ」
「吉岡さんの愛社精神には勝てませんから、冗談でも、そんなのは勘弁して下さいよ」
騒ぎながら飲んで食べた、締めの挨拶は吉岡がした。
「折角、部門の違う仲間が近づきになったことだし、本年のカラタチ祭の同期生みたいなものだから、これからもチョコチョコ、こういう飲み会に声を掛けるので、その時は是非、出てきて下さい、宜しく」
その日の解散時に、隅田隆司は箕田早苗とメールアドレスを交換し合った。
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