枳殻のささやき

稲葉真乎人

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01.偶然の出会い

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百貨店の売り場の一画に、ガラスパーティションで区切られたティーサロンがあった。
テーブルが三列に三卓ずつ並び、機能美だけを追求したような樹脂製の椅子が目立つ。
客は中央の列を避けて、壁沿いとパーティション沿いに座っていた。
紳士服コーナーで、オーダーしていたシャツを受取り終えた秀作は、ティーサロンに入ると、ガラスパーティション沿いの奥の席に座った。
秀作は、カフェやレストランの窓際に席を取って、窓の外を眺めるのが好きだった。
退社時や休日でも、暇な時間があれば、そうして時を過ごしていた。
ホットコーヒーを注文して店内を見渡したとき、壁沿いの入り口に近い席に座っている、中年の、静やかな気配を漂わせる女性に目が止まった。
女性は小さな手帳に何やら書き込みをしていた。
秀作の目に止まったのは、手にしていたグリーンの万年筆と仕草だった。
書き終えたペンで、右の耳朶を触る癖があった。女性は少し長く垂れたイヤリングを気にして直ぐに止めた。
女性が一瞬顔を上げ、チラッと秀作の方を見たが、直ぐに逸らせた。
秀作は記憶を辿っていた。女性も同じように考えている風だった。
秀作の前にコーヒーが届き、ウエイトレスと短い会話をしているとき、女性は気取られないようにして秀作を見ていた。
秀作はコーヒーにミルクだけを入れて一口飲むと、ガラス越しに売り場を見ていた。
「あの、間違っていたらごめんなさい」
席の傍に女性は立っていた。
「はっ、何か?」
秀作はその時、右目じりの小さな二つの黒子を見た、とっさに左目じりを見た、そこにも小さな黒子が一つあった、同時に口を開いた。
「もしかすると、西さん?」
「やっぱり、君原さんですね?」
「そうですが、いゃーっ‼、こんな場所で……」
「ほんとに!」
「お座りになりませんか?」
彼女は自分の席に戻り、洒落た買い物袋を持つと、ウエイトレスに席を移りたいと告げた。
優しそうなウエイトレスは頷くと、トレーにティーカップと水のグラスを載せて、秀作の席に運んだ。
故郷の中学に通っていた頃、君原秀作と西瑞穗は、一年、二年と同じクラスだった。
秀作の方が先に話しかけた。
「盆の同窓会に出た時、西さんとは入れ違いだったみたいで、友人から、京都に住んでおられると聞いて、何処かでお会いするかも知れないとは思っていましたが、三年の時はクラスが違っていたので、あまり詳しく聞けるひともいなくて……」
「わたしも君原さんが京都に住んでおられると、後で友達から聞きました。お盆の最後の日だったでしょ?。主人の実家で予定があったものですから、同窓会の前日には広島に行っていたんです……。京都は長いんですか?」
「いえ、転勤で各地を転々としていましたから、それでも長くなりました。今は、終の棲家と決めて京都に住んでいます……」
「終の棲家だなんて、まだまだお若いじゃないですか?」
「西さんは相変わらず、お綺麗ですね」
「そんな……、それなりに歳をとりました」
「高校を出てからずっと京都に?」
「いいえ、高校を出てから看護学校に行ったんです、看護師をしていたんですけど、結婚して子供が生れてから京都に、それからですから、二十年少しになりますね、君原さんは?」
「ええ、大学がこちらでしたから、京都が本社の、今の会社に入社して、暫くは京都でしたが、その後、福岡と東京で十年ばかり、京都に戻ってから十年くらいですか……」
「ひとりでお買い物ですか?」
「ええ、ワイフと娘は京都駅の方の百貨店に……、わたしはこれを引き取りに此処へ……。西さんもおひとりですか?」
「はい、主人は忙しいひとなので、娘は会社勤めをしていますが、何を考えているのか……。自由気侭に育ててしまいました」
「そうですか、西さんは中学の頃から可愛かったから、娘さんもさぞかし……、でも、癖は変わっていませんね?」
「えっ、なんでしょう?、そんなことを憶えてらっしゃるんですか?」
「グリーンの万年筆は、今でも愛用しているんですね、それとペンで耳朶を触る癖、でも、最初は、まさかと思っていました、決め手は、その魅力的な黒子ですね」
「そんな、あの頃は自分の黒子が嫌いでしたのに……。そうそう、京都に住んでいる同期生でお食事会なんかしたいわねって、バスケット部の田中美津子さんや新体操部だった東田洋子さん達から、話しが出ているんですよ」
「そうですか、女性は、何人か京都に住んでいるんですか?」
「ええ、七人くらいの女性は知っています、男性はあまり知りませんけど……」
「そうですか、僕の方は、電機メーカーと商事会社の関係で、四人は知っていますよ、行き来はありませんが……」
「田中さんに頼まれていますから、お名刺か連絡先を教えていただけますか?」
「いいですよ、休日は名刺を持ち歩かないので、メモをお渡ししましょう」
秀作は敢えて祥子の連絡先を聞かなかった。

君原秀作は大学卒業後、精密機器会社に入社して技術部門に配属された。
現在こそ、本社に戻り技術部にいるが、過去には、前線の技術サービス部門に出ていた。
本来技術畑の人間であり、前線に出ることはないのだが、営業前線の技術力向上の対策として、技術畑から人材を派遣することになり、秀作は技術力と人当たりの良さが買われ、抜擢されて前線に配属された。
四十二歳のときに、前線から本社技術部長の辞令を受けて京都に戻った。
営業前線を理解できる技術開発部長として、社内外の評価は高く好感を得ていた。
本社技術部と云っても、技術部門だけは京都市近隣の向日市にあり、製造工場が、直ぐ隣の敷地にあった。
本社管理部は、六階建ての自社ビルが京都市内の中京区にあった。
営業本部は、南区にある配送センターに隣接するビルの二階にあり、一階が営業所になっていた。
秀作は技術部と本社管理部を、よく行き来していた。

秀作が中京区の本社会議室で行われた部長会議を終えて、阪急電車の四条烏丸駅に向って歩いているときだった。背後から声を掛けられた。
「君原部長、技術部に戻られるんですか?」
「ああ、どうしたんだい、若手が揃って?」
「本社の会議室で、年末の社員大会の初打ち合わせです」
「もう始まるのか、早いね、きみ達が各部門からの代表かい?」
技術部門の中にある、技術課の隅田博司と技術部庶務担当の門脇朋美は顔見知りだったが、知らない女性が一人いた。
歩きながら、秀作が目線を送るのを見て隅田が言った。
「部長、営業部の庶務の箕田早苗さんです」
「箕田です」
「ああ、ご苦労様、営業部からは箕田さんひとり?」
「いいえ、業務の男性がもう一人おられるのですが、今日は業務の会議と重なったので、わたしだけが参加しました」
「これから営業部に戻るの?」
「はい、締め切りが近いので」
「そうだね、部長会議では、いい見込み数字のようだったよ、大変だけど宜しくね」
「はい」
地下に下りて、市営地下鉄の改札に行く箕田早苗を見送り、秀作達は阪急の四条烏丸駅の改札に入った。
電車は少し混んでいたので三人は立っていた。
秀作が隅田に話しかけた。
「準備委員会は何人集まるの?」
「技術部は品管のわたしと技術課の門脇さんで、営業部が二人、本社は総務課二人です、男性は、わたしと営業本部の業務担当の吉岡さんと、総務課の笹原さんです」
「女性と男性三人ずつという訳だね、大変だなぁ、まあ楽しみにしているよ、今年最後の社内行事だからね、盛り上げて、楽しい催しにして欲しいな?」
「はい、また部長にもアイデアを頂きに伺いますので、そのときは宜しくお願いします」
「いいね、若い頃に、何かを始める準備をするのは楽しいものだから……。隅田くんや門脇さんと、年齢が近いひと達ばかりかい?」
「そうですね、吉岡さんと笹原さんが二十七で、さっきの箕田さんが二十二歳で一番年下なんです、わたしが二十六で、門脇さんが二十五、総務の女性が二十四、名簿にはそうなっていました」
「君は、よく憶えているね?」
「まあ、何処にチャンスがあるか分かりませんから」
「女性とのことかい?」
「はい、残念ながら、まだ彼女がいないので」
「技術部門にも、たくさん若い女性がいるだろ、ねぇ門脇さん?」
「はい、でも、うちの部のひと達は、みんな仕事に真面目ですから、わたしは遊び好きなんですけど」
「そうだ、門脇さん、今度手伝って貰いたいことがあるんだけど、いいかな、仕事ではなくて時間外のことなんだけど……」
隅田が興味深そうに訊いた。
「部長、門脇さんだけでいいですか?」
「いや君にもお願いするよ。西城くんにも頼もうかね?」
電車が東向日駅に着き、話しは途切れた。
駅から会社に向って歩きながら、秀作は二人に、後で連絡をすると言った。

数日後、秀作は庶務の門脇朋美に声を掛けた。
「門脇さん、本社に行くけど、社内便はあるかな?」
「部長が持って行って下さるんですか?」
「ああ、なにも荷物はないんだ、鞄はこの通りだよ」
「すみません、それじゃぁ社員大会の書類なんです、急がないんですけど、秘書課の
泉田さんに渡して頂けますか?」
「秘書課の?」
「受付に座っておられる綺麗な方ですから、直ぐに分かると思います」
「若い女性社員には、あまり話し掛けないから……。門脇さんからと言えばいいんだね?」
「はい、すみません」
「いや、いいんだよ、ささやかな経費節減だからね」
秀作が本社ビルの受付で、女性社員の名札を見ようと足を止めた。彼女の方から声が掛かった。
「お疲れ様です」
「ご苦労様、泉田さんは、今日は?」
「はい、休暇でお休みなんです、何か伝えることがあれば、伺っておきますが……」
「いや、水原部長の所に寄るから渡しておこう、社員大会の書類らしいから」
「わかりました、明日、そう伝えておきます」
谷川と掛かれた名札の女性は長身で、眉がきりっとして顔が引き締まっているところが魅力的だった。秀作には、何かスポーツをやっていたように見えた。
「谷川さんは、何かスポーツをやっていたの?」
「はい、わたしは君原部長の後輩なんですよ、バスケットをやっていました」
「そう、知らなかった。そうだ、今度、うちの部の若い人達と会食をするんだけど、声を掛けてもいいかな?」
「はい、喜んで、ここだと、社内の若い人達とは、あまり会う機会がありませんから、宜しくお願いします」
「いや、わたしの方が助かることだから、じゃ、詳しいことは、うちの若い人から連絡をさせるから、そのときは宜しくね」
「はい、ありがとうございます」
秀作は何となく浮き浮きした気分でエレベーターに向った。
管理部に顔を出すと、管理部長の水原義久が歓迎した。
「君原さん、技術部門は絶好調ですね、君原さんが部長になられてから、新製品開発も販売実績も順調ですし、クレームは激減です。君原さんを呼び返そうって提案したのは随分前になりますが、当時は技術部内から反対もありましてね、長く営業部門に出ておられましたからね、でも、今では、わたしも鼻高々ですよ、人事のクリーンヒットだと、社長からも言われましてね」
「水原さんが提言してくれなかったら、今頃は福岡の何処かに住んでいますよ。ワイフが京都を恋しがっていたことでしょう……。水原さん、この封書、うちの若い人からです、社員大会の書類らしいんですが、泉田さんに渡して頂けますか?」
「部長が社内便を、流石ですね、あらゆる処でコスト削減ですね」
「いやいや、ついでですよ、それと、話しは違うんですが、近いうちに谷川さんを時間外に、お借りして宜しいですか、うちの若い人達と一緒の飲み会なんですが」
「時間外ですから、わたしが立ち入ることでもないでしょう、特に君原さんなら彼女も喜ぶんじゃないですか、社員の間では、君原さんは上司にしたい一番だそうですよ。谷川さんも魅力的な女性ですが、泉田さんも短大でミスコン入賞者だそうですから、声を掛けてやって下さい。ちょっと理想が高くて、男性社員は敬遠しているようですが……」
「人事は、そんなことまで調べているの?」
「いえ、もっぱら社員の間で評判ですから、耳には入りますよ。それに君原部長にしか、こんなことは話しませんから」
「でも、若い人を大勢預かっていると、気にしておかないと駄目なのかもしれませんね。いや、勉強になりましたよ、じゃ、この封筒をお願いします、専務に呼ばれていましてね、ちょっと、上の階に行ってきます」
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