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第一章

第38話 女を嘗めないで下さい

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「私を――女を嘗めないで下さい」

「――――」
 
 怒りが込められたような声でそう言われ、俺は無言のまま力無くゆっくりと元いた椅子へ腰掛けた。

 心境としてはとても複雑で、様々な感情が絡み合っている。

 羞恥心、苛立ち、屈辱感、喪失感、悲壮感、怒り……その他諸々。

 なるほど、これか。 さっきのハンナは気丈に振る舞いながらもこんな恥辱的な思いをしていたのか。

 ハンナへ対して怒りが込み上げるも、そもそもは俺が悪かった事。
 そして何より、ハンナの心は俺に下にあると、俺の心次第でハンナを好きにできると、そう思っていた。 彼女の言う通りだ。俺は彼女を、嘗めていたのだ。 それが今分かった。

「私は、ヴィルドレット様の事がずっと前から好きでした。いつも遠目から憧れるだけだったので本当は、嬉しいんです。でも……これは私の、女としての意地です。ごめんなさい」

 彼女の気高さに初めて魔女を重ねずして心揺さぶられた気がする。

「いや、君を見くびった俺が悪い。 君の言う通り俺は君の事を嘗めていたようだ。すまなかった」

 俺の謝罪にハンナは逆に申し訳なさそうに言う。

「でも……私が、ヴィルドレット様の事をお慕いしたいと思っているのは今も変わっていません。 ですから、その……」

 今のハンナの様子からして、おそらく自分の言った事を悔いているのだろう。
 しかし、彼女は何一つ間違ってはいない。むしろ、芯のある強く素晴らしい女性だと改めて思う。

 こちらの反応が気になるのか、ハンナは顔色を窺うように上目遣いで俺の顔を見ている。
 そんなハンナへ俺は、

「あぁ。分かっている。君のその気持ちは素直に、嬉しく思う……」

 と、固い表情はそこまで。そこからは「ふっ」その表情を崩し、柔らかな笑みに変えた。

「まったく、君には敵わないな。 やはり、君は俺の妻にはもったいないと思うぞ?」

 俺がそう言うとハンナはむっとした顔で睨んできた。

「この期に及んで婚約破棄ですか? そんなの絶対に許しませんからね。そんな事したら一生恨みます。いや、死んでも恨みます」

「はは……。 それ勘弁願いたいな。君を敵にまわすのは神を敵にまわすより恐い」

「それ、どういう意味ですか? 貶してるですか?」

 むっと、更に俺を睨むハンナ。俺は両手を振りながら苦笑いを浮べる。

「いや、違う。その逆だ」

 ここでハンナの顔にいつもの笑みが戻る。

「でも、これでおあいこですね!」

「あぁ、そうだな」

 互いに同じだけ傷つけ合い、傷つき合い、恥ずかしい思いも同じだけした。
 まさか、自分から誰かに口付けを迫る事があるなんて思ってもみなかった。 そして、それを拒否される事も。
 ここまで羞恥の念に駆られるのは当然初めてで、穴があったら入りたいとはまさにこの事だろうと思う。
 しかし、それはハンナも同じだと、そう思える事が俺にとっての唯一の救い。それも同じ。だから互いに笑い合える。誰にも見せられない一面をお互いに見てしまったから距離が縮まる。

「じゃあ、朝まで語り明かしましょうか! 私達は明日から夫婦となるのです!お互いにお互いの事を知り尽くしましょう!」

「いや、朝までは勘弁してくれ……」

 程なくしてハンナは夢の世界へ落ちていった。

 あれだけ意気揚々と凄んでいたくせに。

 呆れた溜息を吐き、それからというもの、俺はハンナの寝顔を見つめていた。
 いつの間にか窓から明るい日差しが差し込んで、ようやく朝だという事に気付くまでの間ずっと。

 ここまでが、昨夜の俺とハンナとの真実だ。それなのに、この、まるで魔女みたいな女ときたら――



「おう! ヴィルドレット、ハンナ嬢……いや、もうと呼ばせてもらおう!! 早く私に孫の顔を見せておくれ」

「――っんもう! お義父様ったら!! そんなすぐに出来るわけ無いじゃありませんか! ん~。でも、公爵様のお願いとあれば、しょうがないですよねー。じゃあ……」

 如何にも悪戯好きそうな笑顔を貼り付けたハンナはつらつらと虚言を放っていく。

「今夜も頑張りましょうか! ね? ヴィルドレット様――」

 ハンナはそう言ってこちらへウインクを飛ばす。

「あぁ……」

 色々と面倒だからと、ハンナのノリに合わせておく。ただ、睨みつける視線はちゃんと送っておく。『また、脳を揺らされたいのか?』と。

「ひぃ……」

 よし、ハンナの顔が引き攣った。ちゃんと届いてくれたようで何よりだ。
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