上 下
3 / 10

第3話 裏切り

しおりを挟む
 仕事の帰り、俺は酒場に来ていた。

「本当の話かそれは?」

 ガットが乱暴にジョッキを置く。俺が頷くと憮然とした表情で腕を組み、椅子に深く寄りかかり、テーブルに視線を落とした。

「こんなことがあるなんて思いもよらなかった」

「まったく驚きだ。仲間うちでも聞いたことが、」

「どうした?」

「……昔、天使についての資料を読んだことがあるんだが、そんときに今回と同じような例があった気がするな」

「その資料はどこで?」

 葡萄色の液体を一気に飲み干し、続きを促した。

「オレ達がまだ駆け出しだったころ、エルムでだ」

「エルム……」

 エルムとは8年前に発足した天使の研究機関のことだ。もともとは天使の生態を研究していただけの組織だったらしい。

 だが、エルムは5年前、国が独占していた万能薬『ソーマ』の市場に名乗りをあげた。そして今までのソーマの価格の10分の1という信じられない価格を市場に明示した。ソーマの価格は大暴落した。
 姉さんが死んでから2年後のことだった。

 エルムが最初からソーマの研究を目的に組織されたにしろ、偶然に新しい『ソーマ』の新しい生成法を見つけたにしろ、人々の喝采を浴びるに足りることをしたのだと俺は思っていた。それに、エルムがなければ、この仕事に就くこともなかっただろう。

「確かに、あそこならそんな資料も沢山あるかもしれない」

「役に立つような情報はないと思うけどな」

「……なぜだ?」

「選択肢が2つしかないからだよ、アース。お前もそれが分かってて、俺に話があって、ここに来たんだろ。単に天使に翼が生えたことを知らせる為なんかじゃなくて、もっと重要な話があるんじゃないのか?」

「……」

 言葉がでなかった。
 あの日以来、俺は天使に家を出ることを許さなかった。誰にも見られてはいけない、その一心でシーラを監禁した。
 彼女も解ってはくれたものの、このままずっとこうしているのには無理がある。
 俺は彼女を手放したくなかった。シーラを空に帰したら、二度と戻っては来ない気がした。天使がどこからやってくるのかは知らないが、帰る途中で天使狩りに遭う可能性もある。俺のところで人間として暮らした方が幸せなのだ。
 詳細を伝え終わった俺は、ガットの頷きを確認し、

「俺は……狂っているのかもしれない……」

 ひとりでに呟いていた。

「なに、俺がお前の立場でもそうするさ。誰でも、自分の一番大切なものは手放したくないもんだ」

 珍しく真面目な表情で言うガットの気遣いも、アースの耳には入らなかった。

 また、幸せな日々が続くはずだった。
 だがそれは、俺の妄想でしかなかったことを知っていた。
 彼女の想いを完全に無視した、自分本意な考え。
 知っていた。
 だけど、手を振って『さよなら』なんて出来なかった。


 二度と失いたくないという想いだけが、俺を突き動かしていた。
 これから起こる惨状によって、彼女がどれほど傷つき、苦しみ、悲しむのかなど全く思考の外だった。だから、部屋のすみで血に染まりながら怯え、震えているシーラの姿を見たとき、自分が取り返しのつかないことをしたことを痛感した。


「きゃあぁぁぁぁっっ!」

「シ、シーラ?」

「来ないでーーーーーーーっ!!! 嫌あぁぁぁぁぁっっ!!!」

「大丈夫だ! 俺だ、アースだ!」

「う……ううっ…………えっ、ひっ……う……ア、……ス……?」

「……ああ、俺だ」

「私、また……飛べなく……飛べなくなっちゃった……よ」

 俺はガットに教わった通りに少々ぎこちなかったが止血し、震える手で彼女を優しく抱えてベッドに寝かせた。床一面に散らばった血混じりの羽根、血だまりが俺の胸をえぐった。シーラの額を撫でる俺の手は震えていた。

「い、一体誰がこんなことを!?」

 自分に対する、激しい嫌悪感が胸に広がった。

「……わ、わかんない……よ……ノックがしたの……アースと私が決めた合図……で、でね……私、アースだと思って……開けたら……嫌だって言ったのに……やめて……って言ったのに……」

「……」


──ドアのノックは1回、2回、1回。俺とシーラの決めた合図だ

──換金した金はすべてガットのものにしてくれ……だから……

──シーラ……の……翼を……う、奪って……くれ……


「もう大丈夫だ。俺が一緒についてるから……」

「……う、……ん……」

 しばらくするとシーラは落ち着いてきた様子で、震えも治まっていた。だが、目をつむっているシーラはたびたび苦痛に顔を歪ませ、荒い息を吐いた。

「……平気か?」

 額から、止めどなく大粒の汗が滲み出てくる。顔色も悪かった。

「……」

 返事も返ってこなかった。
 その理由が、傷口に塗られた毒のせいだと知ったのは、翌日のことだった。



「……すまなかったな」

 朝、俺はガットの家を訪ね、それだけを言った。

「いや、気にしないでくれ」

 苦笑いするガットに、毒に関する言及はしなかった。おそらく、俺の為を思ってのことなのだろうから。シーラに再び翼が生えてこないように、と。

 シーラが眠りについてから、4日が経過した。
 彼女が目を覚ましたのは、街で解熱剤を買って、家に着いてすぐのことだった。


「おはよう、シーラ」

 天使は俺の顔を見て、小さく笑った。
 床に広がったシミに一瞬だけ目をやった。そして、半身を起こす。

「……夢じゃなかったんだ」

 小さく、呟いた。

「まだ寝てた方がいい」

「ううん、寝疲れちゃった」

 俺は湯に溶かした薬をシーラに渡した。力無く、苦いよと言いながらも、シーラはそれを飲みだした。

「ねえ、アース」

「ん?」

「……どうして人間は、天使の翼なんてものを欲しがるの?」

「……」

「私、なんにも悪いことしてないのに……。なのに……どうしてだかわかんないよ……。天使だってことだけでこんな……」

 シーラは今にも泣き出しそうだった。

「天使の翼から薬ができるんだよ」

「え……」

「どんな病気にでも効く、万能薬が。俺が翼の戻ったシーラを外に出したくなかった本当の理由はそれなんだ」

 この日を境に、シーラは外出することが少なくなった。
 人間を恐れ、軽蔑しているようだった。
 しかし、俺に対しては、これまでと変わらない態度で接してくれた。


 裏切りで造った幸せ。
 シーラに負わせてしまった深い傷は、時が癒やしてくれるのだろうか。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

【完結】「別れようって言っただけなのに。」そう言われましてももう遅いですよ。

まりぃべる
恋愛
「俺たちもう終わりだ。別れよう。」 そう言われたので、その通りにしたまでですが何か? 自分の言葉には、責任を持たなければいけませんわよ。 ☆★ 感想を下さった方ありがとうございますm(__)m とても、嬉しいです。

私をもう愛していないなら。

水垣するめ
恋愛
 その衝撃的な場面を見たのは、何気ない日の夕方だった。  空は赤く染まって、街の建物を照らしていた。  私は実家の伯爵家からの呼び出しを受けて、その帰路についている時だった。  街中を、私の夫であるアイクが歩いていた。  見知った女性と一緒に。  私の友人である、男爵家ジェーン・バーカーと。 「え?」  思わず私は声をあげた。  なぜ二人が一緒に歩いているのだろう。  二人に接点は無いはずだ。  会ったのだって、私がジェーンをお茶会で家に呼んだ時に、一度顔を合わせただけだ。  それが、何故?  ジェーンと歩くアイクは、どこかいつもよりも楽しげな表情を浮かべてながら、ジェーンと言葉を交わしていた。  結婚してから一年経って、次第に見なくなった顔だ。  私の胸の内に不安が湧いてくる。 (駄目よ。簡単に夫を疑うなんて。きっと二人はいつの間にか友人になっただけ──)  その瞬間。  二人は手を繋いで。  キスをした。 「──」  言葉にならない声が漏れた。  胸の中の不安は確かな形となって、目の前に現れた。  ──アイクは浮気していた。

貴方へ愛を伝え続けてきましたが、もう限界です。

あおい
恋愛
貴方に愛を伝えてもほぼ無意味だと私は気づきました。婚約相手は学園に入ってから、ずっと沢山の女性と遊んでばかり。それに加えて、私に沢山の暴言を仰った。政略婚約は母を見て大変だと知っていたので、愛のある結婚をしようと努力したつもりでしたが、貴方には届きませんでしたね。もう、諦めますわ。 貴方の為に着飾る事も、髪を伸ばす事も、止めます。私も自由にしたいので貴方も好きにおやりになって。 …あの、今更謝るなんてどういうつもりなんです?

《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。

友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」 貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。 「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」 耳を疑いそう聞き返すも、 「君も、その方が良いのだろう?」 苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。 全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。 絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。 だったのですが。

処理中です...