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御者
十五
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直之様は、あまりお出かけは好みません。けれど、新しく店を開いた貸本屋はお気に召したようでございます。学校がお休みの日曜日になりますと、馬車を町まで引くことが増えました。御本がお好きな直之様は、貸本屋に入ってしまいますと、一時間でも二時間でも出ていらっしゃいません。熱心に御本を選び、店内で読み耽ってしまうのです。
私はというと、その間に、女中たちから頼まれた使いをいたします。手紙を郵便局へ持って行ったり、食材を買い込んだりという他愛もない雑用でございます。そうして、一通りの用事を済ませて貸本屋へと戻り、店内を覗いてみれば、直之様は熱心に御本を読んでおられて、これは長くなりそうだと苦笑いを浮かべてしまいました。手持ち無沙汰の私は、クロの毛並みを撫でながら、お待ちしていることしかできません。
「立派な馬車ですね」
「……ありがとうございます」
唐突に声をかけられて、視線を向ければ和装に前掛けをつけた若い娘が立っております。すぐに貸本屋の隣りにあるカフェの女給であることに気がつきました。
朝倉邸の馬車は、御者台の後ろに二人掛けの客車があり、どうにも幅を取りますから、カフェの店の前までクロの頭が出てしまっておりました。
「ここに停めておくのは、ご迷惑でしょうか」
「いいえ、お気になさらず」
女給は、慌てて手を横に振り、頬を上気させて微笑みました。苦情を言いに来たのではないのだと安堵いたします。
「私、たまにお見かけして、気になっておりましたの」
「……そうでしたか」
女給は上目遣いで唇を尖らせます。大きな瞳は溢れ落ちそうで、ぷっくりとした唇には赤い紅が引かれておりました。私はこの仕草を知っております。
「私はサクラといいますの」
「サクラさん、綺麗なお名前ですね」
私が笑顔を作ると、女給は耳まで赤らめて、着物の袖で口元を覆いながら小首を傾げてみせました。
「お兄さんのお名前は教えてくださらないのかしら?」
「これは失礼しました。弘と申します」
「弘さん……」
女給は私の名前を大事そうに繰り返します。年の頃は私よりも幾つか下でありましょう。それでも、濡れた瞳は「女」を匂わせ、私の心臓は、すぅと冷たいものに撫でられるような気がいたしました。
洋装を着るようになってから、このように若い娘に声をかけられることが増えたように思います。豆腐屋の女給や洗濯係りの女中。数日前には女学校のセーラー服姿の娘たちに面白半分に、からかわれてしまいました。
「おい、帰るぞ」
振り返ると、直之様が口をへの字に曲げておられました。手には三冊の御本を抱えておられます。
「申し訳ありません。すぐに出します」
女給に会釈しますと、客車に直之様をご案内します。内心、この場から救ってくだすった直之様に感謝しておりました。御者台に乗り込みますと、女給が私を見上げていることに気がつきます。彼女は、小さな声で「またお話ししましょう」と微笑まれました。
馬車を走らせて、すぐに直之様は呆れたような溜め息を吐きました。
「お前にスーツを誂えてやったのは、女を口説かせるためではなかったんだがな」
「口説いてなど、」
「お前は朝倉の下男だ」
私の言葉を遮って、直之様は苛立ったように仰いました。
「……ええ、心得ております」
私の声は震えていたのかもしれません。背が丸まり、手綱を握る手に力が入ります。そのような私の態度が癇に障ってしまったようで、直之様は、舌打ちなさると黙ってしまわれました。
私は朝倉家の下男であることを片時も忘れたことはございません。下男には、結婚して家庭を持つなど夢のまた夢でございます。特に私のように里子として引き取られた下男に、どうやって妻子を養う甲斐性がありましょう。
それでも他の下男たちは、奥様や直之様の目を盗んでは、女と色を楽しみ、武勇伝のように語り合っておりました。もしかすると、それが男子というものなのかもしれません。けれど、私は若い娘に熱っぽく見つめられれば、姉さんたちやキヨさんの顔が思い起こされ、どうにも、色恋をする気にはなれないのでございます。
私はというと、その間に、女中たちから頼まれた使いをいたします。手紙を郵便局へ持って行ったり、食材を買い込んだりという他愛もない雑用でございます。そうして、一通りの用事を済ませて貸本屋へと戻り、店内を覗いてみれば、直之様は熱心に御本を読んでおられて、これは長くなりそうだと苦笑いを浮かべてしまいました。手持ち無沙汰の私は、クロの毛並みを撫でながら、お待ちしていることしかできません。
「立派な馬車ですね」
「……ありがとうございます」
唐突に声をかけられて、視線を向ければ和装に前掛けをつけた若い娘が立っております。すぐに貸本屋の隣りにあるカフェの女給であることに気がつきました。
朝倉邸の馬車は、御者台の後ろに二人掛けの客車があり、どうにも幅を取りますから、カフェの店の前までクロの頭が出てしまっておりました。
「ここに停めておくのは、ご迷惑でしょうか」
「いいえ、お気になさらず」
女給は、慌てて手を横に振り、頬を上気させて微笑みました。苦情を言いに来たのではないのだと安堵いたします。
「私、たまにお見かけして、気になっておりましたの」
「……そうでしたか」
女給は上目遣いで唇を尖らせます。大きな瞳は溢れ落ちそうで、ぷっくりとした唇には赤い紅が引かれておりました。私はこの仕草を知っております。
「私はサクラといいますの」
「サクラさん、綺麗なお名前ですね」
私が笑顔を作ると、女給は耳まで赤らめて、着物の袖で口元を覆いながら小首を傾げてみせました。
「お兄さんのお名前は教えてくださらないのかしら?」
「これは失礼しました。弘と申します」
「弘さん……」
女給は私の名前を大事そうに繰り返します。年の頃は私よりも幾つか下でありましょう。それでも、濡れた瞳は「女」を匂わせ、私の心臓は、すぅと冷たいものに撫でられるような気がいたしました。
洋装を着るようになってから、このように若い娘に声をかけられることが増えたように思います。豆腐屋の女給や洗濯係りの女中。数日前には女学校のセーラー服姿の娘たちに面白半分に、からかわれてしまいました。
「おい、帰るぞ」
振り返ると、直之様が口をへの字に曲げておられました。手には三冊の御本を抱えておられます。
「申し訳ありません。すぐに出します」
女給に会釈しますと、客車に直之様をご案内します。内心、この場から救ってくだすった直之様に感謝しておりました。御者台に乗り込みますと、女給が私を見上げていることに気がつきます。彼女は、小さな声で「またお話ししましょう」と微笑まれました。
馬車を走らせて、すぐに直之様は呆れたような溜め息を吐きました。
「お前にスーツを誂えてやったのは、女を口説かせるためではなかったんだがな」
「口説いてなど、」
「お前は朝倉の下男だ」
私の言葉を遮って、直之様は苛立ったように仰いました。
「……ええ、心得ております」
私の声は震えていたのかもしれません。背が丸まり、手綱を握る手に力が入ります。そのような私の態度が癇に障ってしまったようで、直之様は、舌打ちなさると黙ってしまわれました。
私は朝倉家の下男であることを片時も忘れたことはございません。下男には、結婚して家庭を持つなど夢のまた夢でございます。特に私のように里子として引き取られた下男に、どうやって妻子を養う甲斐性がありましょう。
それでも他の下男たちは、奥様や直之様の目を盗んでは、女と色を楽しみ、武勇伝のように語り合っておりました。もしかすると、それが男子というものなのかもしれません。けれど、私は若い娘に熱っぽく見つめられれば、姉さんたちやキヨさんの顔が思い起こされ、どうにも、色恋をする気にはなれないのでございます。
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