15 / 36
御者
十五
しおりを挟む
直之様は、あまりお出かけは好みません。けれど、新しく店を開いた貸本屋はお気に召したようでございます。学校がお休みの日曜日になりますと、馬車を町まで引くことが増えました。御本がお好きな直之様は、貸本屋に入ってしまいますと、一時間でも二時間でも出ていらっしゃいません。熱心に御本を選び、店内で読み耽ってしまうのです。
私はというと、その間に、女中たちから頼まれた使いをいたします。手紙を郵便局へ持って行ったり、食材を買い込んだりという他愛もない雑用でございます。そうして、一通りの用事を済ませて貸本屋へと戻り、店内を覗いてみれば、直之様は熱心に御本を読んでおられて、これは長くなりそうだと苦笑いを浮かべてしまいました。手持ち無沙汰の私は、クロの毛並みを撫でながら、お待ちしていることしかできません。
「立派な馬車ですね」
「……ありがとうございます」
唐突に声をかけられて、視線を向ければ和装に前掛けをつけた若い娘が立っております。すぐに貸本屋の隣りにあるカフェの女給であることに気がつきました。
朝倉邸の馬車は、御者台の後ろに二人掛けの客車があり、どうにも幅を取りますから、カフェの店の前までクロの頭が出てしまっておりました。
「ここに停めておくのは、ご迷惑でしょうか」
「いいえ、お気になさらず」
女給は、慌てて手を横に振り、頬を上気させて微笑みました。苦情を言いに来たのではないのだと安堵いたします。
「私、たまにお見かけして、気になっておりましたの」
「……そうでしたか」
女給は上目遣いで唇を尖らせます。大きな瞳は溢れ落ちそうで、ぷっくりとした唇には赤い紅が引かれておりました。私はこの仕草を知っております。
「私はサクラといいますの」
「サクラさん、綺麗なお名前ですね」
私が笑顔を作ると、女給は耳まで赤らめて、着物の袖で口元を覆いながら小首を傾げてみせました。
「お兄さんのお名前は教えてくださらないのかしら?」
「これは失礼しました。弘と申します」
「弘さん……」
女給は私の名前を大事そうに繰り返します。年の頃は私よりも幾つか下でありましょう。それでも、濡れた瞳は「女」を匂わせ、私の心臓は、すぅと冷たいものに撫でられるような気がいたしました。
洋装を着るようになってから、このように若い娘に声をかけられることが増えたように思います。豆腐屋の女給や洗濯係りの女中。数日前には女学校のセーラー服姿の娘たちに面白半分に、からかわれてしまいました。
「おい、帰るぞ」
振り返ると、直之様が口をへの字に曲げておられました。手には三冊の御本を抱えておられます。
「申し訳ありません。すぐに出します」
女給に会釈しますと、客車に直之様をご案内します。内心、この場から救ってくだすった直之様に感謝しておりました。御者台に乗り込みますと、女給が私を見上げていることに気がつきます。彼女は、小さな声で「またお話ししましょう」と微笑まれました。
馬車を走らせて、すぐに直之様は呆れたような溜め息を吐きました。
「お前にスーツを誂えてやったのは、女を口説かせるためではなかったんだがな」
「口説いてなど、」
「お前は朝倉の下男だ」
私の言葉を遮って、直之様は苛立ったように仰いました。
「……ええ、心得ております」
私の声は震えていたのかもしれません。背が丸まり、手綱を握る手に力が入ります。そのような私の態度が癇に障ってしまったようで、直之様は、舌打ちなさると黙ってしまわれました。
私は朝倉家の下男であることを片時も忘れたことはございません。下男には、結婚して家庭を持つなど夢のまた夢でございます。特に私のように里子として引き取られた下男に、どうやって妻子を養う甲斐性がありましょう。
それでも他の下男たちは、奥様や直之様の目を盗んでは、女と色を楽しみ、武勇伝のように語り合っておりました。もしかすると、それが男子というものなのかもしれません。けれど、私は若い娘に熱っぽく見つめられれば、姉さんたちやキヨさんの顔が思い起こされ、どうにも、色恋をする気にはなれないのでございます。
私はというと、その間に、女中たちから頼まれた使いをいたします。手紙を郵便局へ持って行ったり、食材を買い込んだりという他愛もない雑用でございます。そうして、一通りの用事を済ませて貸本屋へと戻り、店内を覗いてみれば、直之様は熱心に御本を読んでおられて、これは長くなりそうだと苦笑いを浮かべてしまいました。手持ち無沙汰の私は、クロの毛並みを撫でながら、お待ちしていることしかできません。
「立派な馬車ですね」
「……ありがとうございます」
唐突に声をかけられて、視線を向ければ和装に前掛けをつけた若い娘が立っております。すぐに貸本屋の隣りにあるカフェの女給であることに気がつきました。
朝倉邸の馬車は、御者台の後ろに二人掛けの客車があり、どうにも幅を取りますから、カフェの店の前までクロの頭が出てしまっておりました。
「ここに停めておくのは、ご迷惑でしょうか」
「いいえ、お気になさらず」
女給は、慌てて手を横に振り、頬を上気させて微笑みました。苦情を言いに来たのではないのだと安堵いたします。
「私、たまにお見かけして、気になっておりましたの」
「……そうでしたか」
女給は上目遣いで唇を尖らせます。大きな瞳は溢れ落ちそうで、ぷっくりとした唇には赤い紅が引かれておりました。私はこの仕草を知っております。
「私はサクラといいますの」
「サクラさん、綺麗なお名前ですね」
私が笑顔を作ると、女給は耳まで赤らめて、着物の袖で口元を覆いながら小首を傾げてみせました。
「お兄さんのお名前は教えてくださらないのかしら?」
「これは失礼しました。弘と申します」
「弘さん……」
女給は私の名前を大事そうに繰り返します。年の頃は私よりも幾つか下でありましょう。それでも、濡れた瞳は「女」を匂わせ、私の心臓は、すぅと冷たいものに撫でられるような気がいたしました。
洋装を着るようになってから、このように若い娘に声をかけられることが増えたように思います。豆腐屋の女給や洗濯係りの女中。数日前には女学校のセーラー服姿の娘たちに面白半分に、からかわれてしまいました。
「おい、帰るぞ」
振り返ると、直之様が口をへの字に曲げておられました。手には三冊の御本を抱えておられます。
「申し訳ありません。すぐに出します」
女給に会釈しますと、客車に直之様をご案内します。内心、この場から救ってくだすった直之様に感謝しておりました。御者台に乗り込みますと、女給が私を見上げていることに気がつきます。彼女は、小さな声で「またお話ししましょう」と微笑まれました。
馬車を走らせて、すぐに直之様は呆れたような溜め息を吐きました。
「お前にスーツを誂えてやったのは、女を口説かせるためではなかったんだがな」
「口説いてなど、」
「お前は朝倉の下男だ」
私の言葉を遮って、直之様は苛立ったように仰いました。
「……ええ、心得ております」
私の声は震えていたのかもしれません。背が丸まり、手綱を握る手に力が入ります。そのような私の態度が癇に障ってしまったようで、直之様は、舌打ちなさると黙ってしまわれました。
私は朝倉家の下男であることを片時も忘れたことはございません。下男には、結婚して家庭を持つなど夢のまた夢でございます。特に私のように里子として引き取られた下男に、どうやって妻子を養う甲斐性がありましょう。
それでも他の下男たちは、奥様や直之様の目を盗んでは、女と色を楽しみ、武勇伝のように語り合っておりました。もしかすると、それが男子というものなのかもしれません。けれど、私は若い娘に熱っぽく見つめられれば、姉さんたちやキヨさんの顔が思い起こされ、どうにも、色恋をする気にはなれないのでございます。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる