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御者
十三
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時代は昭和の始めでございます。大正天皇が四十七歳という若さで崩御したことで、大正の時代は十五年という短命で幕を閉じました。昭和天皇が即位され、時代は新しく移り行きますが、昭和の幕開けは決して華々しいものではございませんでした。世界対戦後の経済不安に加え、関東大震災の深い爪痕が残っておりました。それでも帝都の躍進に向けて復興が推し進められていたのです。
私はというと、十五歳に成り、朝倉家で馬車の御者を任されるようになっておりました。朝倉家は小高い山の上にあるため、馬車が唯一の足なのです。ですから、朝倉家の者がお出かけする際や、町への使いなど、私は一日中、手綱を握ることになったのです。
「今日は少し早く着いてしまったな」
午後三時頃になりますと、私は中学校の校舎に出向くことになっておりましたが、その日はいつもより早く着いてしまったのです。私は手持ち無沙汰で馬の首筋や脇腹を掻いてやりながら、時間を潰しておりました。生まれたばかりの子馬の頃から世話をしていた「クロ」も数年で大きく立派になり、馬車を引けるほどになっていたのです。
どのぐらいそうしていたのか、木造の校舎からチャイムが鳴り響けば、開いた玄関から黒い学生服に学帽を被った学童たちが、楽しげに出てきます。子供を中学校に通わせることができるのは、それなりに裕福な家庭でございますから、学生服を着た少年たちからはどこか品性のようなものを感じたものです。
それでも、私の主人である朝倉直之様に勝る教養を持った美男子はおりません。旦那様の計らいにより、朝倉家の名義で伊豆に多額の復興援助をされたこともあり、伊豆においても、その存在感は一層増していったのでございます。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
「坊っちゃんと呼ぶのはやめろと言っているだろう」
「申し訳ありません。つい、」
十三歳に成られた直之様は、背丈も伸びて、幼い子供から少年らしい顔つきに成長しておられました。病弱であったお身体も丈夫になられ、中学校に進学される運びとなったのでございます。
不意に、遠巻きからクスクスと笑い声がした気がして、振り返りますと、三人の学生服の少年たちが、目配せしながら何やら声を潜めて談笑しています。それは、やけに意地の悪い笑い声に聞こえました。
「お友だちですか」
「違う」
私が問いかけると、直之様は学生帽を深く被り直し、馬車に乗り込みました。
中学校に進学される頃より、直之様は、私に声をかけることが減りました。一緒に遊ぶようなこともなければ、冗談めかして「お兄さん」と呼んでくださることもなくなっておりました。改めて、私たちは、主人と下男であることを線を引かれたように思い、厚かましくも寂しい思いがしたものです。
「服屋に寄ってくれ」
「承知しました」
直之様は、あまり寄り道をしたがらない性質なので少し不思議に思いましたが、口には出さずに、朝倉家の懇意にしている洋服屋に手綱を開いてクロを誘導いたしました。
店先に馬車を止めて、クロの黒い毛並みを撫でていれば「お前も来い」と直之様に店の中に呼ばれます。
店内は西洋の調度品が飾られた洒落た空間で、お香が焚いてあるのか、良い匂いがいたしましたが、私は馬と過ごしているため、獣臭や馬糞の臭いがしていないかが返って気になり、居心地の悪い思いがしました。
促されるままに鏡の前に立ちますと、仕立て屋の店主が私の肩幅を採寸し始めました。
「あの、直之様」
「お前の服を誂えてやる」
動揺している私を余所に、鏡の中の直之様は腕を組んで厳しいお顔をされていらっしゃいます。仕立て屋によりますと、丁度、丈の合う既製品のスーツがあるとのことで、私は汚れた着物を脱がされて洋服に袖を通しました。ズボンや革靴というのは、どうにも窮屈で動き難く思います。それに、鏡の中の私は、洋装を着せられた七五三の幼児のようで、あまり似合っているようには見えません。それでも、直之様には違って見えたようでございました。
「馬子にも衣装というやつだな」
私の曲がったネクタイを直しながら、洗練された美少年は満足そうに微笑みました。
「学校の送迎には、これを着ろ」
「そんな、折角の洋服が汚れてしまいます」
「いいから着ろ。髪も切った方がよさそうだな」
直之様は、爪先立ちして汗や皮脂でベタついた私の髪を梳いて整えながら、独り言のように仰いました。
もしかすると、直之様にお迎えに上がった下男が、あまりにもみすぼらしくて、ご学友に笑われてしまったのかもしれません。
朝倉家の下男として、相応しい身嗜みをしなければ、他の誰でもなく、直之様に恥をかかせてしまうのだと気がついて、私は大変に居たたまれない思いがいたしました。
私はというと、十五歳に成り、朝倉家で馬車の御者を任されるようになっておりました。朝倉家は小高い山の上にあるため、馬車が唯一の足なのです。ですから、朝倉家の者がお出かけする際や、町への使いなど、私は一日中、手綱を握ることになったのです。
「今日は少し早く着いてしまったな」
午後三時頃になりますと、私は中学校の校舎に出向くことになっておりましたが、その日はいつもより早く着いてしまったのです。私は手持ち無沙汰で馬の首筋や脇腹を掻いてやりながら、時間を潰しておりました。生まれたばかりの子馬の頃から世話をしていた「クロ」も数年で大きく立派になり、馬車を引けるほどになっていたのです。
どのぐらいそうしていたのか、木造の校舎からチャイムが鳴り響けば、開いた玄関から黒い学生服に学帽を被った学童たちが、楽しげに出てきます。子供を中学校に通わせることができるのは、それなりに裕福な家庭でございますから、学生服を着た少年たちからはどこか品性のようなものを感じたものです。
それでも、私の主人である朝倉直之様に勝る教養を持った美男子はおりません。旦那様の計らいにより、朝倉家の名義で伊豆に多額の復興援助をされたこともあり、伊豆においても、その存在感は一層増していったのでございます。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
「坊っちゃんと呼ぶのはやめろと言っているだろう」
「申し訳ありません。つい、」
十三歳に成られた直之様は、背丈も伸びて、幼い子供から少年らしい顔つきに成長しておられました。病弱であったお身体も丈夫になられ、中学校に進学される運びとなったのでございます。
不意に、遠巻きからクスクスと笑い声がした気がして、振り返りますと、三人の学生服の少年たちが、目配せしながら何やら声を潜めて談笑しています。それは、やけに意地の悪い笑い声に聞こえました。
「お友だちですか」
「違う」
私が問いかけると、直之様は学生帽を深く被り直し、馬車に乗り込みました。
中学校に進学される頃より、直之様は、私に声をかけることが減りました。一緒に遊ぶようなこともなければ、冗談めかして「お兄さん」と呼んでくださることもなくなっておりました。改めて、私たちは、主人と下男であることを線を引かれたように思い、厚かましくも寂しい思いがしたものです。
「服屋に寄ってくれ」
「承知しました」
直之様は、あまり寄り道をしたがらない性質なので少し不思議に思いましたが、口には出さずに、朝倉家の懇意にしている洋服屋に手綱を開いてクロを誘導いたしました。
店先に馬車を止めて、クロの黒い毛並みを撫でていれば「お前も来い」と直之様に店の中に呼ばれます。
店内は西洋の調度品が飾られた洒落た空間で、お香が焚いてあるのか、良い匂いがいたしましたが、私は馬と過ごしているため、獣臭や馬糞の臭いがしていないかが返って気になり、居心地の悪い思いがしました。
促されるままに鏡の前に立ちますと、仕立て屋の店主が私の肩幅を採寸し始めました。
「あの、直之様」
「お前の服を誂えてやる」
動揺している私を余所に、鏡の中の直之様は腕を組んで厳しいお顔をされていらっしゃいます。仕立て屋によりますと、丁度、丈の合う既製品のスーツがあるとのことで、私は汚れた着物を脱がされて洋服に袖を通しました。ズボンや革靴というのは、どうにも窮屈で動き難く思います。それに、鏡の中の私は、洋装を着せられた七五三の幼児のようで、あまり似合っているようには見えません。それでも、直之様には違って見えたようでございました。
「馬子にも衣装というやつだな」
私の曲がったネクタイを直しながら、洗練された美少年は満足そうに微笑みました。
「学校の送迎には、これを着ろ」
「そんな、折角の洋服が汚れてしまいます」
「いいから着ろ。髪も切った方がよさそうだな」
直之様は、爪先立ちして汗や皮脂でベタついた私の髪を梳いて整えながら、独り言のように仰いました。
もしかすると、直之様にお迎えに上がった下男が、あまりにもみすぼらしくて、ご学友に笑われてしまったのかもしれません。
朝倉家の下男として、相応しい身嗜みをしなければ、他の誰でもなく、直之様に恥をかかせてしまうのだと気がついて、私は大変に居たたまれない思いがいたしました。
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