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水無月
第二十三話
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遅れてきた梅雨前線は、六日間も長雨を降らせ続けていた。土手には遅咲きの紫陽花が花を咲かせ、気持ちよさそうに雨粒を浴びている。
蝙蝠傘を差して、並木道を歩いて家路に向かう。雨避けのトレンチコートは濡れ、革靴は泥水で汚れた。ようやく辿り着いた店先で傘を閉じ、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
迎え入れたのは、良く通る低い声。
「ただいま」
大将に返事をするも、俺と目が合うと曖昧に微笑まれて、こちらもぎこちなく笑うしかない。店内は、雨降りにしては盛況のようである。テーブル席は全て埋まり、カウンター席も空席は、二席。
「マコト、久しぶりだな」
傘立てに濡れた傘を差し込んでいると、野太い声が名を呼んだ。見れば、カウンター席には、赤ら顔のマルさんが座っていた。
「一杯付き合えよ」
常連客の気軽さで、トントンと隣の空いた席を叩かれる。本当は直ぐにでも風呂に浸かりたかったが、マルさんからの誘いを無下に断ることもできず、コートを脱いで彼の隣に腰掛けた。
マルさんは、見計らったかのように、カウンターの向こう側の大将に、お猪口を求めた。
「大将も一杯」
「ありがとうございます」
トクトクと二つのお猪口に日本酒を注ぎ、三人で顔を見合わせて乾杯する。マルさん好みのスッキリとした辛口の日本酒は、空きっ腹には、ややきつい。
「ほら、肉じゃが」
「ありがとう」
大将は、微笑んで俺の好物を出してくれる。けれど、俺たちとは、二、三言葉を交わすばかりで、大将は直ぐに板場の端で魚を捌き始めた。どうやら、店内の混み具合から、品だしに追われているようである。
「こうやってみると、親父さんにそっくりだな」
マルさんが大将の包丁捌きを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「大将のお父さんですか?」
「ああ、昔はあまり思わなかったが、やっぱり親子なんだろうな。ああやって、板場に立っていると瓜二つだなぁ」
マルさんは、懐かしそうに優しい笑みを浮かべた。この店は「小料理 だんや」の前は「定食屋 まきはら」であった。定食屋の常連客は、貴俊のことを幼い頃からよく知っている。早くに母親を亡くした彼は、小学生の頃から父親の店をよく手伝っていた。
だから、マルさんが大将に向ける眼差しは、息子を見守る父親のように、いつでも温かいのだ。
「ところで、大将と何かあったのか?」
マルさんは、なんでもないことのように呟いた。
「最近ちょっと、大将の調子が悪そうじゃないか?」
「…………そうですか?」
マルさんの追求に、小首を傾げてみせた。
「マコトさんとケンカしているんじゃないんですか?」
背後から声をかけられて、顔だけ振り返る。青い甚平姿のハルくんが、コソコソと耳打ちしてきた。
「ケンカなんて、していないよ」
言われてみれば、貴俊とケンカらしいケンカはしたことがなかった。ハルくんは、俺の答えに不服そうに、更に声を潜めて問いかけてくる。
「大将と、マコトさんって、そういう……ですよね?」
含みのある物言いに、大将とマコトの関係は、ハルくんに気づかれてしまったのだと悟った。
「………うん、ごめんね」
「どうして謝るんですか?」
隠していた訳ではないが、積極的に暴露するつもりもなかった。もし、俺たちの関係を知っていたら、ハルくんは「だんや」をバイト先に選んでいただろうか。
「ハル」
マルさんが、咎めるようにハルくんの腕を軽く小突いた。
「店員さぁん、」
唐突に背後から女の甘ったるい声が響いた。
「はい、ただいまー」
ハルくんは呼ばれた方に振り返る。テーブル席には、可愛らしい二十歳前後の少女たちが陣取り、きゃあきゃあと声をあげている。ハルくんは少し困ったように頭を掻きながら、注文を受けている。
手前の女の子が、こちらの視線に気づいて、小さく会釈した。釣られるように、こちらも微笑み返して会釈すれば、彼女たちは、チラチラとこちらを見ながら楽しそうに何か囁きあっている。
「なんだか、華やかですね」
「ああいうのは『かしましい』だろ? 奥の席の子がハルの『コレ』らしいな」
マルさんは苦笑いを浮かべながら、小指を立てた。あの女子会は、どうやら彼氏のバイト先を覗きに来た彼女と、その友人たちであるらしい。
大学の講義を受けながら、バイトを掛け持ちして、彼女までいるのか。ハルくんは、要領の良いタフな青年らしい。奥の席に座っている彼女は、大人びた利発な顔立ちをしていた。なんとなく、ハルくんを尻に敷いていそうだと邪推して、小さく笑いが込み上げる。
「それで、大将のことだけどな」
マルさんは、話題を引き戻す。
「ああ見えて不器用な男だろ?……だから、しっかり者のマコトがついてやってくれないとな」
説教じみた口調に、そっと目を伏せる。
「俺で、いいんですかねぇ」
「マコトしかいないだろ?」
「…………ですね」
上手く笑えず、お猪口に口をつけて誤魔化した。彼等のような常連客が大切にしているのは、「だんや」の暖簾と「大将」である。元バイトの「マコト」は、それらの付属品でしかない。
「頼りにしているからな」
ポンポンと強い力で肩を叩かれる。店内には、きゃあきゃあと黄色い声が響いていた。
蝙蝠傘を差して、並木道を歩いて家路に向かう。雨避けのトレンチコートは濡れ、革靴は泥水で汚れた。ようやく辿り着いた店先で傘を閉じ、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
迎え入れたのは、良く通る低い声。
「ただいま」
大将に返事をするも、俺と目が合うと曖昧に微笑まれて、こちらもぎこちなく笑うしかない。店内は、雨降りにしては盛況のようである。テーブル席は全て埋まり、カウンター席も空席は、二席。
「マコト、久しぶりだな」
傘立てに濡れた傘を差し込んでいると、野太い声が名を呼んだ。見れば、カウンター席には、赤ら顔のマルさんが座っていた。
「一杯付き合えよ」
常連客の気軽さで、トントンと隣の空いた席を叩かれる。本当は直ぐにでも風呂に浸かりたかったが、マルさんからの誘いを無下に断ることもできず、コートを脱いで彼の隣に腰掛けた。
マルさんは、見計らったかのように、カウンターの向こう側の大将に、お猪口を求めた。
「大将も一杯」
「ありがとうございます」
トクトクと二つのお猪口に日本酒を注ぎ、三人で顔を見合わせて乾杯する。マルさん好みのスッキリとした辛口の日本酒は、空きっ腹には、ややきつい。
「ほら、肉じゃが」
「ありがとう」
大将は、微笑んで俺の好物を出してくれる。けれど、俺たちとは、二、三言葉を交わすばかりで、大将は直ぐに板場の端で魚を捌き始めた。どうやら、店内の混み具合から、品だしに追われているようである。
「こうやってみると、親父さんにそっくりだな」
マルさんが大将の包丁捌きを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「大将のお父さんですか?」
「ああ、昔はあまり思わなかったが、やっぱり親子なんだろうな。ああやって、板場に立っていると瓜二つだなぁ」
マルさんは、懐かしそうに優しい笑みを浮かべた。この店は「小料理 だんや」の前は「定食屋 まきはら」であった。定食屋の常連客は、貴俊のことを幼い頃からよく知っている。早くに母親を亡くした彼は、小学生の頃から父親の店をよく手伝っていた。
だから、マルさんが大将に向ける眼差しは、息子を見守る父親のように、いつでも温かいのだ。
「ところで、大将と何かあったのか?」
マルさんは、なんでもないことのように呟いた。
「最近ちょっと、大将の調子が悪そうじゃないか?」
「…………そうですか?」
マルさんの追求に、小首を傾げてみせた。
「マコトさんとケンカしているんじゃないんですか?」
背後から声をかけられて、顔だけ振り返る。青い甚平姿のハルくんが、コソコソと耳打ちしてきた。
「ケンカなんて、していないよ」
言われてみれば、貴俊とケンカらしいケンカはしたことがなかった。ハルくんは、俺の答えに不服そうに、更に声を潜めて問いかけてくる。
「大将と、マコトさんって、そういう……ですよね?」
含みのある物言いに、大将とマコトの関係は、ハルくんに気づかれてしまったのだと悟った。
「………うん、ごめんね」
「どうして謝るんですか?」
隠していた訳ではないが、積極的に暴露するつもりもなかった。もし、俺たちの関係を知っていたら、ハルくんは「だんや」をバイト先に選んでいただろうか。
「ハル」
マルさんが、咎めるようにハルくんの腕を軽く小突いた。
「店員さぁん、」
唐突に背後から女の甘ったるい声が響いた。
「はい、ただいまー」
ハルくんは呼ばれた方に振り返る。テーブル席には、可愛らしい二十歳前後の少女たちが陣取り、きゃあきゃあと声をあげている。ハルくんは少し困ったように頭を掻きながら、注文を受けている。
手前の女の子が、こちらの視線に気づいて、小さく会釈した。釣られるように、こちらも微笑み返して会釈すれば、彼女たちは、チラチラとこちらを見ながら楽しそうに何か囁きあっている。
「なんだか、華やかですね」
「ああいうのは『かしましい』だろ? 奥の席の子がハルの『コレ』らしいな」
マルさんは苦笑いを浮かべながら、小指を立てた。あの女子会は、どうやら彼氏のバイト先を覗きに来た彼女と、その友人たちであるらしい。
大学の講義を受けながら、バイトを掛け持ちして、彼女までいるのか。ハルくんは、要領の良いタフな青年らしい。奥の席に座っている彼女は、大人びた利発な顔立ちをしていた。なんとなく、ハルくんを尻に敷いていそうだと邪推して、小さく笑いが込み上げる。
「それで、大将のことだけどな」
マルさんは、話題を引き戻す。
「ああ見えて不器用な男だろ?……だから、しっかり者のマコトがついてやってくれないとな」
説教じみた口調に、そっと目を伏せる。
「俺で、いいんですかねぇ」
「マコトしかいないだろ?」
「…………ですね」
上手く笑えず、お猪口に口をつけて誤魔化した。彼等のような常連客が大切にしているのは、「だんや」の暖簾と「大将」である。元バイトの「マコト」は、それらの付属品でしかない。
「頼りにしているからな」
ポンポンと強い力で肩を叩かれる。店内には、きゃあきゃあと黄色い声が響いていた。
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