17 / 45
水無月
第十七話
しおりを挟む
チュンチュンと雀の鳴き声が遠くで聞こえた。朝の五時過ぎに目が覚めると、布団から這い出して、着ていたシャツを脱ぐ。枕元に置いてあるTシャツとハーフパンツに着替えて、少し考えて薄手のパーカーを羽織った。
「走りに行くのか?」
まぶしそうに目を細めた男が、布団の中から問いかける。
「……起こしてごめん」
「いや、意外と続いてるなぁと思って……」
「…………自分でも驚いてるよ」
貴俊は、からかうように小さく笑った。早朝のジョギングを始めて、一ヶ月半が経とうとしていた。
「だんや」の看板の前で、ぐっと伸びをして、それから軽く足首をほぐしながら、凝り固まった身体を目覚めさせる。朝のひんやりとした空気で肺を満たせば、生まれ変わったような清々しい気持ちになった。
今年の春は随分と長く、六月の終わりになっても梅雨の気配はない。それでも、少しだけ湿った空気の匂いに、天を仰げば南の空は灰色の雲に覆われていた。だが、北には青空が広がっていることを思えば、しばらく降りだすことはないだろう。
ふっと息を吐いて、軽く地面を蹴った。走る上で大事なのは、呼吸の仕方であるらしい。なるべく身体の力を抜いて、深い腹式呼吸を意識しながら、一定のリズムで地面を蹴る。そうして、十分も走っていれば、桜並木を抜けて、この地域の憩い場となっている公園に辿り着く。
公園の中心には広い湖が存在し、湖に沿うように何人かのランナーが走っていた。体力作りのためか、ダイエットのためか、単に走るのが好きなのか。そんな名もなきランナーたちが暗黙的に決めたらしい時計回りで、湖の回りを一周すれば、おおよそ十五分である。公園の往復に二十分と合わせて、計三十五分を目安に、朝のジョギングは定着しつつあった。
水の流れる音と、木々の葉が揺れる音が、耳に心地好い。湖を半周する頃には、身体は熱く火照り、背中や脇にじっとりと汗をかいた。
背後からポンと、肩を叩かれる。振り返る間もなく追い越していくのは、スポーティーな青いサングラスをかけている男だった。顔だけ振り返った男は、口角を持ち上げて満足そうに笑みを浮かべる。
「おはようございます」
「おはよう」
森岡は小さく頷いて、軽快に走り去っていく。彼は、後ろ姿までも小洒落ていた。グレーのウインドブレーカーを羽織り、ハーフパンツの下にはランニング用のタイツを履いている。ブランドのロゴがついたシューズは、スタイリッシュなデザイン。
森岡とは、特別に待ち合わせをしているわけではない。ただこうして同じ公園で走っているだけであったが、生活圏が似ているためか、週に二、三度は顔を会わせていた。それでも、森岡の存在は、想像以上に励みとなっている。知り合いと軽く挨拶を交わすだけでも、仲間意識のようなものが芽生えるようで、不思議なほどに心強い。きっと、森岡がいなければ、朝ランも続いていなかっただろう。
ぽつん、と鼻の頭に水滴が落ちた。驚いて空を見上げると、いつの間にか黒い雲が空を覆い尽くしていた。ぽつん、と今度は肩に雨粒が当たる。「マズイ」と思った次の瞬間には、大粒の雨が降り頻る。遮るものがない開放的な公園では、ただの濡れ鼠になるしかない。フードを被って、慌てて逃げ込んだのは、簡素な休憩所であった。
「参りましたね」
休憩所には、同じようにずぶ濡れになった森岡の姿があった。ベンチに座っている男は、サングラスを外して、濡れた前髪をかきあげている。
「天気予報では、晴れだったのにな」
「……?」
全ての音を飲み込むような雨音に、俺の声はかき消され、森岡が不思議そうに首を傾げた。もう一度、声を張って同じ台詞を言うと、苦笑いと共に「まったくですね」と返ってきた。
スコールのような一寸先も見えないのような激しい雨に、休憩所から出るに出られず、閉じ込められたような錯覚に囚われる。仕方なく、ベンチに座っている森岡の隣に腰かけて、雨足が緩むのを待つ他なかった。
ぼんやりと今日が土曜日でよかったと思う。平日であれば、会社に遅刻するのは必至であろう。
くしゅんっと、鼻を鳴らしてしまう。下着まで濡れているようで、肌に貼り付いた衣服が冷たくなり、徐々に体温を奪っていく。シューズもぐしょぐしょで不快感に眉を曇らせた。
「うち、ここから近いんですが、よければ雨宿りしていきませんか?」
未だに雨は断続的に降り続けてはいたが、雨足は緩みかけて、視界は幾分か開けていた。このまま待ち続けても晴れる保証はなく、今を逃せば、更に雨が強くなることも考えられる。それに、牧原の家までは遠すぎた。
「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
森岡は、人好きのする顔で笑うと、ベンチから立ち上がって、伸びをした。
「それじゃ、覚悟を決めて走りますか」
森岡は宣言と共に、雨の中を飛び出していく。慌てて、その背中を追いかける。地面には大きな水溜まりが点在していたが、すでに浸水しているシューズでは、水溜まりを踏みつけることも、気にはならなかった。
「走りに行くのか?」
まぶしそうに目を細めた男が、布団の中から問いかける。
「……起こしてごめん」
「いや、意外と続いてるなぁと思って……」
「…………自分でも驚いてるよ」
貴俊は、からかうように小さく笑った。早朝のジョギングを始めて、一ヶ月半が経とうとしていた。
「だんや」の看板の前で、ぐっと伸びをして、それから軽く足首をほぐしながら、凝り固まった身体を目覚めさせる。朝のひんやりとした空気で肺を満たせば、生まれ変わったような清々しい気持ちになった。
今年の春は随分と長く、六月の終わりになっても梅雨の気配はない。それでも、少しだけ湿った空気の匂いに、天を仰げば南の空は灰色の雲に覆われていた。だが、北には青空が広がっていることを思えば、しばらく降りだすことはないだろう。
ふっと息を吐いて、軽く地面を蹴った。走る上で大事なのは、呼吸の仕方であるらしい。なるべく身体の力を抜いて、深い腹式呼吸を意識しながら、一定のリズムで地面を蹴る。そうして、十分も走っていれば、桜並木を抜けて、この地域の憩い場となっている公園に辿り着く。
公園の中心には広い湖が存在し、湖に沿うように何人かのランナーが走っていた。体力作りのためか、ダイエットのためか、単に走るのが好きなのか。そんな名もなきランナーたちが暗黙的に決めたらしい時計回りで、湖の回りを一周すれば、おおよそ十五分である。公園の往復に二十分と合わせて、計三十五分を目安に、朝のジョギングは定着しつつあった。
水の流れる音と、木々の葉が揺れる音が、耳に心地好い。湖を半周する頃には、身体は熱く火照り、背中や脇にじっとりと汗をかいた。
背後からポンと、肩を叩かれる。振り返る間もなく追い越していくのは、スポーティーな青いサングラスをかけている男だった。顔だけ振り返った男は、口角を持ち上げて満足そうに笑みを浮かべる。
「おはようございます」
「おはよう」
森岡は小さく頷いて、軽快に走り去っていく。彼は、後ろ姿までも小洒落ていた。グレーのウインドブレーカーを羽織り、ハーフパンツの下にはランニング用のタイツを履いている。ブランドのロゴがついたシューズは、スタイリッシュなデザイン。
森岡とは、特別に待ち合わせをしているわけではない。ただこうして同じ公園で走っているだけであったが、生活圏が似ているためか、週に二、三度は顔を会わせていた。それでも、森岡の存在は、想像以上に励みとなっている。知り合いと軽く挨拶を交わすだけでも、仲間意識のようなものが芽生えるようで、不思議なほどに心強い。きっと、森岡がいなければ、朝ランも続いていなかっただろう。
ぽつん、と鼻の頭に水滴が落ちた。驚いて空を見上げると、いつの間にか黒い雲が空を覆い尽くしていた。ぽつん、と今度は肩に雨粒が当たる。「マズイ」と思った次の瞬間には、大粒の雨が降り頻る。遮るものがない開放的な公園では、ただの濡れ鼠になるしかない。フードを被って、慌てて逃げ込んだのは、簡素な休憩所であった。
「参りましたね」
休憩所には、同じようにずぶ濡れになった森岡の姿があった。ベンチに座っている男は、サングラスを外して、濡れた前髪をかきあげている。
「天気予報では、晴れだったのにな」
「……?」
全ての音を飲み込むような雨音に、俺の声はかき消され、森岡が不思議そうに首を傾げた。もう一度、声を張って同じ台詞を言うと、苦笑いと共に「まったくですね」と返ってきた。
スコールのような一寸先も見えないのような激しい雨に、休憩所から出るに出られず、閉じ込められたような錯覚に囚われる。仕方なく、ベンチに座っている森岡の隣に腰かけて、雨足が緩むのを待つ他なかった。
ぼんやりと今日が土曜日でよかったと思う。平日であれば、会社に遅刻するのは必至であろう。
くしゅんっと、鼻を鳴らしてしまう。下着まで濡れているようで、肌に貼り付いた衣服が冷たくなり、徐々に体温を奪っていく。シューズもぐしょぐしょで不快感に眉を曇らせた。
「うち、ここから近いんですが、よければ雨宿りしていきませんか?」
未だに雨は断続的に降り続けてはいたが、雨足は緩みかけて、視界は幾分か開けていた。このまま待ち続けても晴れる保証はなく、今を逃せば、更に雨が強くなることも考えられる。それに、牧原の家までは遠すぎた。
「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
森岡は、人好きのする顔で笑うと、ベンチから立ち上がって、伸びをした。
「それじゃ、覚悟を決めて走りますか」
森岡は宣言と共に、雨の中を飛び出していく。慌てて、その背中を追いかける。地面には大きな水溜まりが点在していたが、すでに浸水しているシューズでは、水溜まりを踏みつけることも、気にはならなかった。
0
お気に入りに追加
23
あなたにおすすめの小説
壁穴奴隷No.19 麻袋の男
猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。
麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は?
シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。
前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
愛などもう求めない
白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
嫌われ者の僕はひっそりと暮らしたい
りまり
BL
僕のいる世界は男性でも妊娠することのできる世界で、僕の婚約者は公爵家の嫡男です。
この世界は魔法の使えるファンタジーのようなところでもちろん魔物もいれば妖精や精霊もいるんだ。
僕の婚約者はそれはそれは見目麗しい青年、それだけじゃなくすごく頭も良いし剣術に魔法になんでもそつなくこなせる凄い人でだからと言って平民を見下すことなくわからないところは教えてあげられる優しさを持っている。
本当に僕にはもったいない人なんだ。
どんなに努力しても成果が伴わない僕に呆れてしまったのか、最近は平民の中でも特に優秀な人と一緒にいる所を見るようになって、周りからもお似合いの夫婦だと言われるようになっていった。その一方で僕の評価はかなり厳しく彼が可哀そうだと言う声が聞こえてくるようにもなった。
彼から言われたわけでもないが、あの二人を見ていれば恋愛関係にあるのぐらいわかる。彼に迷惑をかけたくないので、卒業したら結婚する予定だったけど両親に今の状況を話て婚約を白紙にしてもらえるように頼んだ。
答えは聞かなくてもわかる婚約が解消され、僕は学校を卒業したら辺境伯にいる叔父の元に旅立つことになっている。
後少しだけあなたを……あなたの姿を目に焼き付けて辺境伯領に行きたい。
成り行き番の溺愛生活
アオ
BL
タイトルそのままです
成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です
始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください
オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる