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水無月

第十七話

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 チュンチュンと雀の鳴き声が遠くで聞こえた。朝の五時過ぎに目が覚めると、布団から這い出して、着ていたシャツを脱ぐ。枕元に置いてあるTシャツとハーフパンツに着替えて、少し考えて薄手のパーカーを羽織った。

「走りに行くのか?」

 まぶしそうに目を細めた男が、布団の中から問いかける。

「……起こしてごめん」
「いや、意外と続いてるなぁと思って……」
「…………自分でも驚いてるよ」

 貴俊は、からかうように小さく笑った。早朝のジョギングを始めて、一ヶ月半が経とうとしていた。

 「だんや」の看板の前で、ぐっと伸びをして、それから軽く足首をほぐしながら、凝り固まった身体を目覚めさせる。朝のひんやりとした空気で肺を満たせば、生まれ変わったような清々しい気持ちになった。

 今年の春は随分と長く、六月の終わりになっても梅雨の気配はない。それでも、少しだけ湿った空気の匂いに、天を仰げば南の空は灰色の雲に覆われていた。だが、北には青空が広がっていることを思えば、しばらく降りだすことはないだろう。

 ふっと息を吐いて、軽く地面を蹴った。走る上で大事なのは、呼吸の仕方であるらしい。なるべく身体の力を抜いて、深い腹式呼吸を意識しながら、一定のリズムで地面を蹴る。そうして、十分も走っていれば、桜並木を抜けて、この地域の憩い場となっている公園に辿り着く。
 公園の中心には広い湖が存在し、湖に沿うように何人かのランナーが走っていた。体力作りのためか、ダイエットのためか、単に走るのが好きなのか。そんな名もなきランナーたちが暗黙的に決めたらしい時計回りで、湖の回りを一周すれば、おおよそ十五分である。公園の往復に二十分と合わせて、計三十五分を目安に、朝のジョギングは定着しつつあった。

 水の流れる音と、木々の葉が揺れる音が、耳に心地好い。湖を半周する頃には、身体は熱く火照り、背中や脇にじっとりと汗をかいた。

 背後からポンと、肩を叩かれる。振り返る間もなく追い越していくのは、スポーティーな青いサングラスをかけている男だった。顔だけ振り返った男は、口角を持ち上げて満足そうに笑みを浮かべる。

「おはようございます」
「おはよう」

 森岡は小さく頷いて、軽快に走り去っていく。彼は、後ろ姿までも小洒落ていた。グレーのウインドブレーカーを羽織り、ハーフパンツの下にはランニング用のタイツを履いている。ブランドのロゴがついたシューズは、スタイリッシュなデザイン。

 森岡とは、特別に待ち合わせをしているわけではない。ただこうして同じ公園で走っているだけであったが、生活圏が似ているためか、週に二、三度は顔を会わせていた。それでも、森岡の存在は、想像以上に励みとなっている。知り合いと軽く挨拶を交わすだけでも、仲間意識のようなものが芽生えるようで、不思議なほどに心強い。きっと、森岡がいなければ、朝ランも続いていなかっただろう。

 ぽつん、と鼻の頭に水滴が落ちた。驚いて空を見上げると、いつの間にか黒い雲が空を覆い尽くしていた。ぽつん、と今度は肩に雨粒が当たる。「マズイ」と思った次の瞬間には、大粒の雨が降り頻る。遮るものがない開放的な公園では、ただの濡れ鼠になるしかない。フードを被って、慌てて逃げ込んだのは、簡素な休憩所であった。

「参りましたね」

 休憩所には、同じようにずぶ濡れになった森岡の姿があった。ベンチに座っている男は、サングラスを外して、濡れた前髪をかきあげている。

「天気予報では、晴れだったのにな」
「……?」

 全ての音を飲み込むような雨音に、俺の声はかき消され、森岡が不思議そうに首を傾げた。もう一度、声を張って同じ台詞を言うと、苦笑いと共に「まったくですね」と返ってきた。
 スコールのような一寸先も見えないのような激しい雨に、休憩所から出るに出られず、閉じ込められたような錯覚に囚われる。仕方なく、ベンチに座っている森岡の隣に腰かけて、雨足が緩むのを待つ他なかった。

 ぼんやりと今日が土曜日でよかったと思う。平日であれば、会社に遅刻するのは必至であろう。

 くしゅんっと、鼻を鳴らしてしまう。下着まで濡れているようで、肌に貼り付いた衣服が冷たくなり、徐々に体温を奪っていく。シューズもぐしょぐしょで不快感に眉を曇らせた。

「うち、ここから近いんですが、よければ雨宿りしていきませんか?」

 未だに雨は断続的に降り続けてはいたが、雨足は緩みかけて、視界は幾分か開けていた。このまま待ち続けても晴れる保証はなく、今を逃せば、更に雨が強くなることも考えられる。それに、牧原の家までは遠すぎた。

「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 森岡は、人好きのする顔で笑うと、ベンチから立ち上がって、伸びをした。

「それじゃ、覚悟を決めて走りますか」

 森岡は宣言と共に、雨の中を飛び出していく。慌てて、その背中を追いかける。地面には大きな水溜まりが点在していたが、すでに浸水しているシューズでは、水溜まりを踏みつけることも、気にはならなかった。


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