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オメガの所有権

第148幕

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 神崎薫はベッドに横たわり、深い眠りに落ちていた。神崎氏は、薫の首に巻かれた茶色のチョーカーの鍵を外してやると、露になった白い肌を愛しそうに撫でる。閉じた瞼の端には、懐かしい黒子があった。

「お前がアルファ……いや、ベータだったらな、」

 呟いた言葉は、何度、反芻しても意味のなさない仮定であった。薫の手を取り、手首に二本の指を押し当てる。ドクドクと血の流れる鼓動を感じながら、腕時計の針に目を落とす。
 薫の呼吸は細く、脈は弱っていく。患者が薬を飲んでから、二十分が過ぎていた。薬剤の効能のピークを感じとると、医師は胸ポケットから長方形のケースを取り出して、ベッドサイドに広げた。ケースには、注射器や薬剤の小瓶が並ぶ。

 薫の病衣の袖を捲し上げて、手早く腕を縛ると、白い肌を擦りつけて静脈を探す。見つけた静脈の上をアルコール綿で消毒すると、注射器を手に取った。筋弛緩剤で呼吸を奪い、塩化カリウムで心臓の鼓動を止める。その腕に針を刺し、二本の薬液を血中に流し込めば、憐れなオメガは、ほんの数分で永遠の眠りにつくだろう。

 本当は、もっと早くこうするべきであった。
 例えば、あの不幸な事故に直面した瞬間であった。
 例えば、神崎兄弟が逃避行を企てていたことが発覚した瞬間であった。
 神崎家の当主は、薫を白い病室に閉じ込めて、響を脅迫することで、一時凌ぎに事態を収めてきた。が、そのような甘さは、彼等にまやかしの希望を与え、神崎に歯向かうような愚かな行動を取らせたのだ。

 ならば、成すべきことは一つである。
 今度こそ、この淫魔を葬り去り、響の正気を取り戻させなければならない。

「……ッ」

 神崎氏は舌打ちした。注射器を持つ手が震え、針の狙いが定まらない。目の前に居るのは諸悪の根元である悪魔である。けれど、安らかに眠る顔は、あまりにも無防備で、あまりにも幼く、かつて愛した息子の顔でもあった。

 ガチャリと施錠が解除される音に、医師は顔を上げた。

「何をしてるんですか、」
「何も」

 現れた青年は、病室を覆う不穏な空気に眉を曇らせた。眠る患者の腕に、注射器を宛がっていた医師は、静かに息を吐き、掴んでいた腕を離した。
 美貌と鋭さを兼ね備えた青年は、真っ直ぐにベッドに歩み寄り、眠る患者の肩を揺する。

「起きろ、薫、」
「五時間程は目を覚ましませんよ」

 深い眠りについている患者を揺り動かす青年に、神崎氏は医師らしい見解を述べた。

「これは、私が譲り受けているはずですが」
「もう、十分、愉しんだでしょう?」

 結城博己は、冷酷な医師を下から睨み付けた。神崎医師は、淡々とケースに注射器を片付けながらも、薄く微笑んだ。強大な権力を持った青年が、この病室を訪ねて、患者の肢体を好きにしてきたことには、苦々しくも目を瞑り続けてきたのだ。医師の皮肉めいた物言いに、博己の眉がぴくりと動いた。

「薫の目が覚めたら、私が引き取ります」

 地を這うような青年の声に、神崎氏の顔から笑みは消える。

「いくら結城家のご子息でも、そのような勝手をされては困ります」
「勝手なことをしているのは、貴方でしょう?」

 青年の瞳に炎が宿る。
 神崎氏は内心驚いていた。薫に興味を持ったのは、神崎のスキャンダルや、珍しいオメガの雄の肢体であったからではなかったか。それも、ほんの些細な特権階級の気紛れであったはずである。威嚇するように睨み付けてくる狼を宥めるように、神崎氏は耳元で優しく語りかける。

「オメガなら、他にもいるでしょう。よければ、私が身繕いましょうか?」
「失せろ」

 博己の足が、サイドボードを蹴飛ばした。花瓶や注射器は床に落ちて破裂音と共に飛び散った。

「失礼しました」

 神崎氏は、数歩後退り、頭を垂れる。アルファ性の頂点に君臨する暴君は、腹の底に獰猛な狼を飼っている。彼の怒りを鎮めなければ、神崎家のこの先に未来はないだろう。

「一つだけ、お約束していただきたい」
「なんだ?」
「響と……神崎響と接触させることだけは……」
「ああ、わかっている」

 博己は、苛立ったように舌打ちし、安らかに眠る薫に視線を落とした。

「その時は、こちらで始末する」

 博己の美しい指が、薫の頬に触れる。物騒な言葉とは裏腹に、頬を撫でる指先があまりにも優しくて、神崎氏はゾクリと背筋に寒気がしたのであった。

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