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茶事

第139幕

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 医学とは、人類の叡知である。人体の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断、治療、予防する方法を開発する学問である。 勤勉な人類は、医学を特別な学問と位置付け、活用と発展を続けながら、より健康を保ち、より寿命を永らえていった。

 けれど、ヒトは満足しない生き物である。
 欲望には際限はなく、常に渇望していた。

 そして、ヒトは医学を用いることで、疾患や怪我の治療を目的としない様々な施術や薬剤をも生み出してきた。「美しくなりたい」という願望から、健康な肉体にメスを入れることは、まだ可愛いものである。

 医学は、時として、神の領域にまで手を伸ばした。例えば、オメガ性が服用する発情抑制剤や避妊薬は、オメガ性から妊娠の機会を奪うことと同義であり、それは世界の理を揺るがすモノであった。「オメガ性の人権を守るためである」と有力者が声高に提言すれば、多くの民衆は、その慈悲深い思想に賛同し、拡散し、定着していった。けれど、「オメガ性の人権」の代償は安くはない。オメガ性がヒートして雄を誘惑することも、望まない妊娠をすることも、全ての責任は「オメガ性にのみ」押しつけられている。マイノリティであるオメガ性は、高価で副作用を伴うクスリを服用することが暗黙の義務であり、その義務を怠れば、理不尽に糾弾されるのだ。

 医学は、世界を覆す威力を持つ。

 神崎響が「アルファ性の遺伝子において、オメガ性のフェロモンに反応する細胞内代謝産物の作用緩和」という研究テーマに興味を持つのは、必然とも言えた。

「素晴らしい成果だな」

 初老の教授が、神崎響の書いた論文に目を通した評価であった。高等学校に在学中の三年間で基礎医学を独学で身に付けていた響は、医科大学に進学してからも、周囲から頭一つ分は飛び抜けており、二回生とは思えないほどに、論文の完成度は高いものであった。

「ありがとうございます。しかし、今の段階では、仮説の域を脱していません。この仮説を立証するなら、更に長期的な研究が必要でしょうね」

 著名な教授の称賛の言葉にも、響は、冷静であった。そんな才覚溢れる若者に、よれた白衣を纏った研究医は目を細めた。

「そうだな。君の卒業までに、どうにかなるとも思えないが、私はこの研究を続ける価値は十分にあると思うよ」

 長い歴史の上で、何度も試みられた研究テーマではあったが、未だに「オメガ性のフェロモン」が「アルファ性の衝動」を誘発するメカニズムは、未知の領域であった。それでも、新たなアプローチを試みた神崎響の着眼点は、医学に対する天賦の才を感じさせる。

「このまま研究室に残ることも視野に入れてはどうかね。君は臨床医より、研究医の方が向いていそうだが、」
「そうでしょうか、」
 
 神崎響は、小さく息を吐いた。

「神崎くんは、まだ二回生だから焦る必要はない。進路については、じっくり考えなさい」
「そうですね」

 染み一つない白衣を纏った優秀な医学生は、困ったように微笑んだ。
 神崎響に、選択肢などはない。神崎家が、響に用意した未来は明確である。医科大学に進学し、臨床医の経験を積み、いずれは総合病院の理事長という椅子である。そこに、研究医の道など存在しなかった。

「もし、私が医師にはなりたくないと言ったら、どう思われますか」

 まるで独り言のように呟いた若者の言葉に、偉大な教授は、可笑しそうに笑った。

「君の人生は、君のものだろう?」

 二十歳を過ぎたばかりの若者には、未来の可能性が無限に広がっている。先の短い老狼には、不確かな未来に迷える若者が、少しばかり妬ましく思う。

「だが、君が医師にならないなら、医学会には大きな損失になるだろうね」

 ほんの些細な呪いの言葉を口にすると、教授は笑みを浮かべたまま、立ち去っていった。

「大袈裟だな」

 神崎響は、深い溜め息を溢した。例え、アルファ性の発情抑制剤が実用化したとしても、神崎薫の過去を変えられるわけではない。

 神崎響は、何度も、薫と過ごした最後の夜を思い出す。あと数日で、堅牢な首輪は破壊され、薫と二度目の番の契約を交わすはずであった。二人で手と手を取り合って、この窮屈な世界から逃げ出せるはずであった。けれど、響は「研究」を優先して、研究室に駆け込んだのだ。あの夜、あの電話を無視して、あの部屋に留まっていれば、薫を一人きりにしなければ、実父に拐われることはなかっただろう。それでも、響には「研究」を投げ出すようなことはできなかった。例え、実を結ぶことはないと知っていても、この研究に固執し続けている。

 それは、医学の天賦の才を持ち合わせた者の宿命あろうか。それとも、守るべきはずの実弟を傷つけた贖罪のためであろうか。

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