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白い花束
第128幕
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神崎薫は、ぼんやりと白昼夢の中にいるようであった。結城博己と交わした約束は現実味のない甘い夢のようであった。けれど、いつまでもそんな甘い余韻に浸っていられるわけではない。
腕の中で何かが動けば、薫は現実に引き戻される。視線を落とせば、自身を見上げる大きな瞳と目が合った。腕の中には、女のような細い身体があった。
「本条さん、大丈夫ですか?」
不安げに尋ねてくる少年に、本条は苦笑いを溢して頷いた。差し伸べてくる手を断って、自分で立ち上がると、床についていた尻をパンパンと叩いた。こそこそと着衣の乱れを整える患者のことは見ない振りをして、本条は窓際に回り込む。大きな窓に手をつくと、空を仰いだ。やんわりと秋空は茜色に染まりつつある。
「彼は?」
本条は夕焼け空を見つめたまま、何でもないことのように尋ねた。なるべく患者を刺激しないようにという看護師なりの配慮であった。神崎薫は、ハッして本条を見た。その華奢な背中に、噛み締めるように小さな声で呟いた。
「俺の『運命の番』です」
「…………そう 、」
本条の口元が、動揺で歪んだ。息を吐いて、視線を逸らすと、ベッドの脇にある花束が目に留まった。花茎が何本も立ち上がり、先端にまとまって白い花を咲かせている。その見覚えのある花に、眉を曇らせた。先日、神崎薫が何者かに乱暴された日に、床に落ちていた花束と同じものであった。
「この花束は彼から……?」
「はい。あの、花瓶ってありますか?」
薫は恥じらうように頬を染める。本条の指先が花束に触れれば、白い花弁がひらりと落ち、華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「薫くん、自分のことを大切にしないといけないよ」
「どういう意味ですか、」
薫の声に、僅かに刺が混じる。
「そのままの意味だよ」
本条は、小さく息を吐いて、自身の胸の辺りを擦った。彼が擦った胸のポケットには、一枚の付箋が忍ばせてあった。薫の身を案じる青年の電話番号が書かれた紙の存在を確かめると、本条は微笑んだ。
「花瓶、取ってくるから待ってて」
訝しげに見つめてくる少年を置き去りにして、本条は優しい笑みを浮かべたまま、病室を後にする。
閉鎖病棟の廊下を歩きながら、看護師は、一人で思いを巡らせる。彼は、神崎薫に「河島隼人」の話をすることを見送った。今はその時ではないと判断したのだ。神崎薫は、悪い男に心を囚われていて、『運命』などという幻想に支配されている。多くのオメガ性がそうであるように、アルファ性の前に頭を垂れて、服従している。
本条千晴は、アルファ性を伴侶にしていたが、アルファ性に屈しているわけではない。女のように華奢で、愛らしい容姿をしていたが、彼は気高く革新的なオメガ性の大人の男であった。それ故に、同じオメガがあのような屈辱的な姿を晒していることに、少なからずショックを受けていた。
あんな穢らわしい花束など、捨ててしまえばいいのに、狼に支配された憐れな少年は、大事に枕元に飾るつもりでいる。
ふと、あの白い花の名を思い出す。あの花はゼラシウムである。赤やピンクが主流であり、取り立てて珍しい花ではない。華やかで、愛らしい花を咲かせ、葉は丸くハーブのように香りがよいのが特徴であった。そして、驚くほどに多くの花言葉がつけられている。
白いゼラニウムの花言葉はなんだったろうか。
何か不穏な意味が込められていたような気がしたが、本条はすぐには思い出せなかった。
腕の中で何かが動けば、薫は現実に引き戻される。視線を落とせば、自身を見上げる大きな瞳と目が合った。腕の中には、女のような細い身体があった。
「本条さん、大丈夫ですか?」
不安げに尋ねてくる少年に、本条は苦笑いを溢して頷いた。差し伸べてくる手を断って、自分で立ち上がると、床についていた尻をパンパンと叩いた。こそこそと着衣の乱れを整える患者のことは見ない振りをして、本条は窓際に回り込む。大きな窓に手をつくと、空を仰いだ。やんわりと秋空は茜色に染まりつつある。
「彼は?」
本条は夕焼け空を見つめたまま、何でもないことのように尋ねた。なるべく患者を刺激しないようにという看護師なりの配慮であった。神崎薫は、ハッして本条を見た。その華奢な背中に、噛み締めるように小さな声で呟いた。
「俺の『運命の番』です」
「…………そう 、」
本条の口元が、動揺で歪んだ。息を吐いて、視線を逸らすと、ベッドの脇にある花束が目に留まった。花茎が何本も立ち上がり、先端にまとまって白い花を咲かせている。その見覚えのある花に、眉を曇らせた。先日、神崎薫が何者かに乱暴された日に、床に落ちていた花束と同じものであった。
「この花束は彼から……?」
「はい。あの、花瓶ってありますか?」
薫は恥じらうように頬を染める。本条の指先が花束に触れれば、白い花弁がひらりと落ち、華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「薫くん、自分のことを大切にしないといけないよ」
「どういう意味ですか、」
薫の声に、僅かに刺が混じる。
「そのままの意味だよ」
本条は、小さく息を吐いて、自身の胸の辺りを擦った。彼が擦った胸のポケットには、一枚の付箋が忍ばせてあった。薫の身を案じる青年の電話番号が書かれた紙の存在を確かめると、本条は微笑んだ。
「花瓶、取ってくるから待ってて」
訝しげに見つめてくる少年を置き去りにして、本条は優しい笑みを浮かべたまま、病室を後にする。
閉鎖病棟の廊下を歩きながら、看護師は、一人で思いを巡らせる。彼は、神崎薫に「河島隼人」の話をすることを見送った。今はその時ではないと判断したのだ。神崎薫は、悪い男に心を囚われていて、『運命』などという幻想に支配されている。多くのオメガ性がそうであるように、アルファ性の前に頭を垂れて、服従している。
本条千晴は、アルファ性を伴侶にしていたが、アルファ性に屈しているわけではない。女のように華奢で、愛らしい容姿をしていたが、彼は気高く革新的なオメガ性の大人の男であった。それ故に、同じオメガがあのような屈辱的な姿を晒していることに、少なからずショックを受けていた。
あんな穢らわしい花束など、捨ててしまえばいいのに、狼に支配された憐れな少年は、大事に枕元に飾るつもりでいる。
ふと、あの白い花の名を思い出す。あの花はゼラシウムである。赤やピンクが主流であり、取り立てて珍しい花ではない。華やかで、愛らしい花を咲かせ、葉は丸くハーブのように香りがよいのが特徴であった。そして、驚くほどに多くの花言葉がつけられている。
白いゼラニウムの花言葉はなんだったろうか。
何か不穏な意味が込められていたような気がしたが、本条はすぐには思い出せなかった。
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