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紳士の嗜み

第96幕

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 神崎響は腕を組み、苛々とソファに座り込んでいた。ダイニングチェアに座っている薫は、首元から発するカチャカチャとした不快な金属音と、ヤニ臭い男の息づかいに、呼吸を止めて、じっと堪え忍んでいた。

「……やっぱりダメですね」

 男はお手上げとばかりに、薫の首のチョーカーを指で弾いた。薫はビクンと肩を震わせる。

「指紋認証になっていて、ロックを解除しないと金具が出てこない仕組みになってますねー。これはかなりの高級品だと思います」
「……できないなら他の業者に頼むので、」

 言い訳がましく頭を掻いている男に、響は小さく舌打ちした。

 オメガ性につけられた首輪の解除を請負う業者は限られている。未成年の首輪の鍵は、大抵は親が保管しているからだ。

 親が子の幸福を願うのは当然だろう。
 道理を知らない我が子が、アルファ性に唆されて、或いは強要されたとしても、自らの手で鍵の解除ができなければ、不幸な番の契約は成立しない。「首輪」という道具が生まれた頃から、オメガ性の子を持つ親は、そのようにして厳重に鍵の管理を行ってきた。
 そして、それは同時に、親が認めたアルファ性でなければ番になることは許されないともいえる。裕福な家庭であれば、あるほどに、その傾向は強く、そのことに疑問を呈する者もいなかった。

 そのような背景から、「首輪の鍵を解除したい」という依頼は、鍵を紛失してしまったか、「それ以外」の後ろめたい事情だろうことは想像に難くない。

「専用の器具があれば外せますよ。……三日後になりますが、」
「そんなにかかるものですか?」

 響は片眉を上げると、少しばかり高圧的な口振りで、職人気質の男に問いかけた。男は不愉快そうに顔を曇らせた。

「兄さん、」

 不安げな薫の顔に、響はふっと肩の力を抜いた。

「……分かりました。三日後で構いません。次回は必ず、お願いしますね」

 男は頭を掻きながら、アルファの青年とオメガの少年を見比べた。長年の勘から、この美しくも幼さが残るオメガの雄の首輪の解除の依頼は「鍵を紛失した以外」の事情であろうと察しがついた。けれど、商売である以上、彼等に口出しをするつもりもなければ、深入りするつもりもない。

 上客から札束を受け取ると、男は工具を片付けて、足早に神崎響の部屋から立ち去っていった。


 響は薫の頬に優しく手を添えて、黒曜石の瞳を覗き込んだ。今宵こそ、薫と番になれると疑わなかった響は、切なげな息を吐いた。

「薫、」

 見つめ合う恋人たちは、唇を重ね合わせようとした。けれど、薫は、ほんの一瞬、身構えてしまう。その瞬間、重低音のバイブ音が響のズボンを震わせて、二人の甘い空気は散っていく。

 響は溜め息混じりに、耳にスマホを押し当てる。
 間の悪い通話相手は、研究室のメンバーであった。興奮気味に捲し立ててきた内容は、経過観察中の細胞に想定外の動きがあったというもので、直ぐにでも、担当の神崎響に確認してもらいたいとの用件であった。

 響は耳にスマホを当てたまま、リビングに置いてあった財布と車のキーをポケットに突っ込んでいく。

「少し、ラボに行ってくるな。薫は先に寝てていいから、」

 スマホに手を当てて、小声で薫に囁くと、響は薫のおでこの辺りに軽くキスをして、スマホで通話しながら、慌ただしく玄関から飛び出して行った。

「……いってらっしゃい、」

 兄が出ていった玄関のドアを見つめる薫の身体から緊張が解けていく。
 薫は、工具で無数に傷のつけられた首輪を撫でた。
 今夜、外されるはずだった首輪は、三日後に延期されてしまった。肩透かしを喰らったはずなのに、どこか安堵している自分に気がついてしまう。

 オメガの幸福はアルファと番になることで、薫の番になれるのは、この世で唯一、響しかいないのだ。幼い頃から薫のことを良く知る響は、優しくて頼もしい。薫のために全てを捨てようとまでしてくれている。
 だから、薫が躊躇う理由など、どこにもないはずであった。

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