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スマートフォン

第72幕

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 梅雨が明けた七月初旬のことある。
 小暑の候というには、やたら強い日差しが都会のアスファルトを照りつけていたが、エアコンの利いた上空の部屋の中では、夏めいた暑さは微塵も感じらずにいた。


 薫は日中に何度もスマホの画面に目を落とす。けれど、博己からの連絡は一つもなかった。
 やはり、あの夜に、自分は捨てられてしまったのだろうか。
 メッセージを書きかけては消して、電話をしようとして指が止まって、そんなことを繰り返しながら、薫は鬱々とスマホを弄くり回した。響の部屋に囚われてから、瞬く間に三週間が過ぎようとしていた。

 薫はスマホを脇に置くと、シャープペンシルをくるくると回して、問題集に向き直る。薫は勉学が得意ではない。兄から出された厳しい課題の山を少しずつ切り崩して、泥にまみれながらも、食らいつくのがやっとであった。苦手な数学や物理は、ほとんど毎晩、家庭教師のように付き添って兄が教えてくれた。
 そんな教師が走り書きにした方程式や図解のメモを何度も確認し、頭を悩ませながら、どうにか及第点に達することができた。

 早く外に出たい。

 薫は、三日後の地区予選を心待ちにしていた。隼人を応援したい気持ちは強い。けれど、それ以上に、束の間であっても、この部屋から外に出ることができる貴重な機会を逃したくはなかった。

 響の部屋は必要最低限のものしかなく、あまりにも退屈であった。
 兄は、いつになったら、解放してくれるのだろうか。
 薫は、そんな当たり前の疑問を口にすることもできないでいる。
 兄の機嫌を損ねれば、地区予選に連れて行ってくれるという約束も反故にされてしまうかもしれない。それまでは、大人しく響の出した課題に取り組むことしか、薫には思い付かなかった。



 神崎響は、実弟を狼の蔓延る学園に戻す気などない。けれど、いつまでも薫を、マンションの一室に閉じ込めておくことはできないことも理解していた。薫を誤魔化すのも、学園を誤魔化すのも、両親を誤魔化すのも、どんなに上手くやっても、夏休みが終わる頃が限度であろう。

 時間は有限ある。
 神崎響は、些か焦り始めていた。薫に暴行を加えたアルファのことも、未だに特定することができずにいる。薫から直接、加害者の名前を挙げさせるのが一番手っ取り早かったが、薫を問いただそうとした時の、あの取り乱した様子を思い出すと、悪戯にトラウマを刺激することは避けたかった。

 だから、響は薫のスマホに目をつけた。他者のプライバシーを侵害することは、誉められたことではない。けれど、響は薫の実兄であり、未成年の少年を保護している立場であることを言い訳にした。

 響にとって、実弟のスマホの中身を覗き見ることは、取り立てて難しいことではない。警戒心の強い薫は、スマホに堅牢なロックをかけていた。解除キーは、スマホの所有者の指紋であり、薫以外はロックを解除することは敵わないはずである。
 だが、そんな堅牢なセキュリティにも一つだけ弱点がある。それは、薫の指紋さえあれば、誰にでも簡単にロックを解除できることである。

 薫にスマホを渡してから、数日後の夜のことであった。
 響は深夜に静かに目を覚まし、隣で丸まって眠っている薫の肩を軽く揺する。弟が安らかな寝息を立てていることを確認すると、そっと薫の手を取って、スマホの画面に細い指先を滑らせた。
 後は簡単な話である。スマホの設定画面から、響の指紋を解除キーに追加で登録しておけば、薫の隙を見て、スマホの中を確認することは容易いことであった。

 そんな単純な話のはずであったが、薫に向けてメッセージを送信してくる人物を一人一人特定する作業は、想定以上に時間がかかることであった。たくさんのメッセージを過去まで遡って流し読み、送信者のプロフィールを確認する。そこからキーワードを引き当てながら、ネットワーク上で検索をかけて、人物像を探っていく。
 一週間かけて探り当てた人物は五名で、全て空振りであった。当然と言えば当然であったが、薫に対して、比較的多くのメッセージを送信してくる人物は、薫のクラスのベータの少年たちであった。


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