1 / 1
プロポーズ
しおりを挟む
所帯持ちの男なんかと関係を持つものではない。
彼は「妻とはいずれ別れるつもりだ」とそう言った。僕はその言葉を信じて、この部屋でいい子で待っている。
けれど、本当は知っていた。いずれは、この先も訪れることはない。彼が、何も手放したくはない強欲で臆病な男であることは、僕が一番知っていた。社会的な地位も、普通の男であることも、美しい妻や愛らしい子供たちですら、彼の人生を彩る装飾品なのだろう。
彼にとって、僕は決まった曜日に、刹那的な快楽を分かち合うだけの存在でしかない。
それでも僕は、彼を不幸にしたいわけではない。日陰者の僕にとって、彼は唯一の心の拠り所に違いないのだから。この部屋にいる間は、彼は僕だけのものでいてくれるのだから。
されど、街が色めき立つ年の瀬は、ひどく僕の心をざわめかせる。恋人たちが肩を寄せ合う聖夜には、いつも僕は一人きりだった。
彼は、家族と共にシャンパンを空けて、ご馳走を食べて、ホールケーキを切り分けるのだろうか。子供達が寝静まれば、枕元にプレゼントなんかも置いて、その小さな頭を愛しそうに撫でるのかもしれない。
彼は知らないのだ。
クリスマスは、僕の誕生日でもあることを。
ベッドの中でうずくまって、早く時間が過ぎることだけを切望する。誕生日という日は、誰にとっても特別なものだ。僕にとっては、この一年に重ねた罪と、これから先に重ねる罪の重さに苛まれる日であった。
そんな僕の贖罪の夜に、訪ねてきたのは、彼女であった。
「ひどい顔ね」
玄関先に佇む彼女は、僕を見上げながら、そう言った。けれど、ひどい顔はお互い様。彼女の黒髪は雪で濡れ、目元は赤く腫れて、手には安物のホールケーキがあった。いつも朗らかな彼女とは、別人であった。
彼女の恋人は、女である。
僕が男しか愛せないように、彼女は女しか愛せない。そして、彼女もまた報われない恋に溺れる愚かな人間の一人であった。そう、クリスマスの夜に、僕を訪ねてくる程度には。
二人で肩を並べて、甘ったるいケーキを食べる。彼女の乳房は女にしては小さかったが、それでも身体はどこか柔らかい。化粧っ気のない厚い唇は潤んでみえた。
「結婚しよう?」
彼女は、無邪気な少女のように笑った。あまりにも愉しそうに笑うので、それもいいかもしれないと思った。僕を見上げる瞳は、憂いを帯びた黒曜石で、見つめていれば、魂さえも吸い込まれてしまいそう。
僕が女と結婚したら、彼は少しぐらい動揺して、未練たらしい言葉を吐くだろうか。少しだけでも後悔の涙を流したりするのだろうか。そんな薄暗い優越感を抱いてしまい、そんな自分にほんの少し怖くなる。
「僕たちの結婚は許されるのかな」
「どうかしら。でも、世の中の夫婦がみんな恋愛の末に結婚しているわけではないでしょう?」
ぽつりと溢した僕の不安に、彼女は理知的な言葉を紡いだ。
冬の冷たい風が窓を叩いた。肌寒いのか、彼女はそっと僕の肩に凭れかかる。それがどこか儚げで、彼女の丸びを帯びた肩を抱き寄せた。それでも、僕には彼女と唇を重ねたいとは思えない。
「子供はどうするんだ?」
「人工受精だっていいじゃない?」
彼女は自らの薄い腹を撫でた。彼女は男を知らない清らかな身体のまま、僕との子供を産む気でいるらしい。まるで聖母マリアのようで可笑しくなる。けれど、彼女の腹の底には、生々しい子宮が確かに存在する。腹の中に胎児を宿す女の身体は、まるで未知の生き物のように得たいが知れず、恐ろしい。
それでも、彼女は優しくて温かい女である。彼女は、誕生日の夜に、僕を一人になどしないだろう。
彼女の手に手を重ねて、腹を撫でる。小さくて細い指先は、守らなければならない幼児を連想させた。
「この子は幸せになれるのかな?」
「ええ、きっと」
彼女は、うっとりと夢見るように呟いた。
彼は「妻とはいずれ別れるつもりだ」とそう言った。僕はその言葉を信じて、この部屋でいい子で待っている。
けれど、本当は知っていた。いずれは、この先も訪れることはない。彼が、何も手放したくはない強欲で臆病な男であることは、僕が一番知っていた。社会的な地位も、普通の男であることも、美しい妻や愛らしい子供たちですら、彼の人生を彩る装飾品なのだろう。
彼にとって、僕は決まった曜日に、刹那的な快楽を分かち合うだけの存在でしかない。
それでも僕は、彼を不幸にしたいわけではない。日陰者の僕にとって、彼は唯一の心の拠り所に違いないのだから。この部屋にいる間は、彼は僕だけのものでいてくれるのだから。
されど、街が色めき立つ年の瀬は、ひどく僕の心をざわめかせる。恋人たちが肩を寄せ合う聖夜には、いつも僕は一人きりだった。
彼は、家族と共にシャンパンを空けて、ご馳走を食べて、ホールケーキを切り分けるのだろうか。子供達が寝静まれば、枕元にプレゼントなんかも置いて、その小さな頭を愛しそうに撫でるのかもしれない。
彼は知らないのだ。
クリスマスは、僕の誕生日でもあることを。
ベッドの中でうずくまって、早く時間が過ぎることだけを切望する。誕生日という日は、誰にとっても特別なものだ。僕にとっては、この一年に重ねた罪と、これから先に重ねる罪の重さに苛まれる日であった。
そんな僕の贖罪の夜に、訪ねてきたのは、彼女であった。
「ひどい顔ね」
玄関先に佇む彼女は、僕を見上げながら、そう言った。けれど、ひどい顔はお互い様。彼女の黒髪は雪で濡れ、目元は赤く腫れて、手には安物のホールケーキがあった。いつも朗らかな彼女とは、別人であった。
彼女の恋人は、女である。
僕が男しか愛せないように、彼女は女しか愛せない。そして、彼女もまた報われない恋に溺れる愚かな人間の一人であった。そう、クリスマスの夜に、僕を訪ねてくる程度には。
二人で肩を並べて、甘ったるいケーキを食べる。彼女の乳房は女にしては小さかったが、それでも身体はどこか柔らかい。化粧っ気のない厚い唇は潤んでみえた。
「結婚しよう?」
彼女は、無邪気な少女のように笑った。あまりにも愉しそうに笑うので、それもいいかもしれないと思った。僕を見上げる瞳は、憂いを帯びた黒曜石で、見つめていれば、魂さえも吸い込まれてしまいそう。
僕が女と結婚したら、彼は少しぐらい動揺して、未練たらしい言葉を吐くだろうか。少しだけでも後悔の涙を流したりするのだろうか。そんな薄暗い優越感を抱いてしまい、そんな自分にほんの少し怖くなる。
「僕たちの結婚は許されるのかな」
「どうかしら。でも、世の中の夫婦がみんな恋愛の末に結婚しているわけではないでしょう?」
ぽつりと溢した僕の不安に、彼女は理知的な言葉を紡いだ。
冬の冷たい風が窓を叩いた。肌寒いのか、彼女はそっと僕の肩に凭れかかる。それがどこか儚げで、彼女の丸びを帯びた肩を抱き寄せた。それでも、僕には彼女と唇を重ねたいとは思えない。
「子供はどうするんだ?」
「人工受精だっていいじゃない?」
彼女は自らの薄い腹を撫でた。彼女は男を知らない清らかな身体のまま、僕との子供を産む気でいるらしい。まるで聖母マリアのようで可笑しくなる。けれど、彼女の腹の底には、生々しい子宮が確かに存在する。腹の中に胎児を宿す女の身体は、まるで未知の生き物のように得たいが知れず、恐ろしい。
それでも、彼女は優しくて温かい女である。彼女は、誕生日の夜に、僕を一人になどしないだろう。
彼女の手に手を重ねて、腹を撫でる。小さくて細い指先は、守らなければならない幼児を連想させた。
「この子は幸せになれるのかな?」
「ええ、きっと」
彼女は、うっとりと夢見るように呟いた。
0
お気に入りに追加
5
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう
まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥
*****
僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。
僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥
マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました
東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。
攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる!
そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。
夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
妻の死を人伝てに知りました。
あとさん♪
恋愛
妻の死を知り、急いで戻った公爵邸。
サウロ・トライシオンと面会したのは成長し大人になった息子ダミアンだった。
彼は母親の死には触れず、自分の父親は既に死んでいると言った。
※なんちゃって異世界。
※「~はもう遅い」系の「ねぇ、いまどんな気持ち?」みたいな話に挑戦しようとしたら、なぜかこうなった。
※作中、葬儀の描写はちょっとだけありますが、人死の描写はありません。
※人によってはモヤるかも。広いお心でお読みくださいませ<(_ _)>
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる