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サイドストーリー後編
しおりを挟む会社の創立記念パーティーに夫婦で参加することになった二人は、仲良さそうに、それでいてどこかたどたどしい様子で会場にやってきた。
着飾った藤田咲良は、かわいらしかった。化粧映えする顔だちなのかもしれない。所作や振る舞いも文句がなく、やはりいいとこのお嬢様はなんだかんだ育ちがいいんだなと素直に思った。
でも口に出すのは悔しかったので、私はなるべく二人を見ないようにしていた。仕事に打ち込み、パーティーの進行や重要な仕事相手に挨拶をするのに必死で立ち回り、二人を視界から排除した。
そんな時、隅の方で壁にもたれている女性を見かけた。私は水を手に持ち、すぐさまその人の方へ向かった。
「奥様、大丈夫ですか? ご気分でも?」
天海さんのお母様、つまりは現社長の奥様が、暗い顔をしているのに気がついた。彼女は私に力無い微笑みを返し、水を受け取ってくれる。
「ありがとう、気がきくわね」
「いいえ。人酔いでしょうか。一旦出られますか?」
「いいの、原因はわかってるから」
そういう彼女の冷たい視線の先を見てみると、あの二人がいた。誰かと談笑しているようで、並んで笑っている。そんな姿を見ただけでずきりと胸が痛んだ。
奥様は言う。
「どう思いますか、あれを」
「え? ええ……咲良さんは初めてのパーティーですよね、よく頑張られているのでは」
「あなたにはあれが夫婦に見えますか? 私には兄と妹にしか見えません」
奥様の言葉をきき、私も再び二人を見た。突然結婚することになった夫婦だ、馴れ合ってる方が不自然。もとは姉の婚約者なのだし、やや距離があるのも当然と言える。
今日は着飾って大人びた咲良だが、あどけなさは残っている。年の差もあり、二人が兄妹に見えるのも仕方ないことでもあった。奥様は続ける。
「まあ、今日はうまく化けていると思いますよ。でも私は知ってるんです。あの子は幼い頃から人見知りもすごいし内気な子で。挨拶もうまくできず人の後ろに隠れるようなことばかり。蒼一がそれをフォローしていたけれど、だから兄妹にしか見えないのかしら」
「まあ、お二人は年も少し離れていらっしゃるから」
私の言葉に、奥様ははあと大きなため息を漏らした。そっちを見てみると、彼女は私が持ってきた水を一口飲んで言った。
「あなたが蒼一の相手だったらよかったのに」
その言葉を聞いた途端、ぎりぎりだった自分の心が破裂した気がした。ずっと渦巻いていた黒い感情がなお膨れ上がる。それは私の全身を包んで支配する感覚だった。
天海さんの隣が私だったら。そう、あの人の母親が言ってくれている。
彼のために努力を重ねた毎日だった。役に立ちたくて、少しでも好かれたくて、必死に頑張った日だった。それを奥様だけがわかってくれる気がした。
どうしても、あの人の隣にいたい。
拳を強く握りしめた。わかっている、奥様が漏らしたあんな一言に深い意味はない。多分藤田咲良を気に入らないから、私を引き合いに出しているだけなのだ。
それでも、私の崩れた心はもう元には戻らなかった。
パーティーが終了した後、天海さんにそれとなく夫婦について尋ねると、言いにくそうに言葉を濁された。ああ、やっぱり奥様の言うように夫婦としてはうまくいっていないんだと再確認する。
それでも、私がここで天海さんに告白したとしても受け入れてもらえないことは百も承知だった。彼は真っ直ぐで決して人を裏切るような真似はしない。そう思うと私も告白はできずにいた。
ふと思い立ち、藤田咲良の素行調査をプロに依頼してみた。もし何かあれば、天海さんも夫婦について考え直してくれるかもしれない。そんな浅はかな考えだった。
とはいえ、あの藤田咲良がそんな変な情報を持っているとは思えなかった。見ていればわかる、彼女は男遊びをするようなタイプではないだろうし、どう見ても育ちのいいお嬢様だからだ。私は特に期待せずに調査報告を待っていた。
ところが、だ。
報告書に添えられていたのは外で男に抱きしめられている彼女の写真だった。それを見た瞬間、衝撃で息が止まるかと思った。同時に沸き上がる、怒りと呆れ。
もし私が天海さんと結婚できたら。白昼堂々とこんなことなんてさせない。男と二人で出かけることだってしない。あの人を悲しませることなんて絶対にしないのに。
写真はこれのみで、不貞を示すには不十分だとわかっていた。よく見れば相手の男が咲良に抱きついているのであって、熱い抱擁というわけではないのもわかっていた。
それでももう、私は止まれなかった。
天海さんの誕生日の日を選び、彼を食事に誘った。早く帰りたそうにしているのは意外だった、うまく行っていない妻と誕生日を祝うのがそんなに特別だとは思えなかったからだ。
例の写真も準備し、話そうとするもなかなか勇気が出なかった。どう切り出せばいいのか、天海さんがなんて答えるのかわからない。時間だけがすぎ、彼も苛立っているのを隣で感じていた。
一度トイレに行ってくる、と天海さんが席を立った後、一人気持ちを落ち着けようと努めた。できることなら私を見てほしい。狡いやり方だと非難されてもいい、私がこれだけあの人を想っていたのだと気づいてほしいのだ。
震える手でドリンクを飲んだ時、テーブルの上に置いてあるスマホが鳴り響いた。はっとすると、それは自分のものではなく天海さんのものだった。
じっと画面をみると、そこには『咲良』の名前が見えた。その文字を見ただけで、自分の嫉妬心が燃え上がった。
そっとそれに手を伸ばし、すぐに引いた。
いけない。さすがにそれはダメだ。
そりゃ咲良さんに意地の悪いこと言ったり、素行調査したり、やり方は自分でも歪んでると分かってる。でもこれより一線は越えてはだめ。
そう自分で言い聞かせるが、鳴り響くスマホが私を誘っているように思えた。帰りを待っているんだ、と安易に想像がつく。
自分の心臓がバクバクと大きく音を立てる。ケーキを用意し、家で待っている女性の顔が思い浮かんだ。
私は鳴っているそれを手に取った。
自分がこんなにひどい人間だなんて知らなかった。
その後、天海さんに思い切り振られた自分だが違う方向に吹っ切れた気がした。データも消します、と宣言したあの写真を、私は奥様に見せに行った。案の定彼女は冷静な判断を失うほど怒り、二人を離婚させると躍起になる。
これまでの人生、ただ必死に勉強して、周りに負けないように頑張ってきた。努力すればそれなりに報われる、だから自分は正々堂々としてればいいんだと思っていた。
それなのに、自分でも呆れるほど汚くて醜いことばかりしている。やめようとする感情は残ってなかった。
ただ、どんな手を使ってでも、
人生で一番愛した人に私を見てもらいたかった。
「僕はもう天海の名はいりません」
天海さんが堂々と言ってのけたのを、私はただ部屋の隅で呆然として見ていた。
彼の隣には私ではなく、やはりあの人がいた。二人はしっかり手を握っている。相変わらず素朴な子で、天海さんと繋がるその手にはネイルも何も施されていない。自分を磨く、と必死になって色がついている私の爪とはまるで違った。
今日、ずっと好きだった人から真実を聞かされた。
天海さんこそがずっと咲良さんを好きで、結婚式すら仕組んだということ。
まるで知らなかった。私はてっきり、綾乃さんに逃げられて仕方なく結婚したのだと思っていた。その後情が沸いて一緒に過ごしているんだと。なのに、そんな昔からのことだったなんて。
咲良の顔を見てみると、彼女も決意を固めたようにしっかりと前を見ていた。そんな様子から、ああこの人も天海さんを好きなんだと気付かされる。
なんてくだらない終わりだろう。元々私が入り込む隙間もなかったんだ。二人はずっと思い合っていた。嫉妬に狂い、天海さんを奪いたいと躍起になっていた私。ただ自分の醜さを露見しただけだった。
情けなくて目から涙が出てくる。
謝らなきゃ、と思い声を掛けるも、彼からは冷たい目で見られただけだった。私がやってきた汚い手も全て伝わっているようで、その目が全てを物語っていた。自分は動けなくなる。
一緒に働いている時の、優しい顔はどこにもなかった。心底失望した顔で私を見ている。何も言い訳はできなかった、確かに私は自分でも呆れるぐらい嫌な人間だった。
このままでは天海さんが仕事を辞める羽目になる、どうしようと困っているところに、現社長が帰宅された。そこで事の一部始終をきき、彼は怒り狂った。
藤田家と天海家のつながりの重要さ。
夫婦として頑張ろうと思っている二人の気持ちの大切さ。
そして、死に物狂いで頑張ってきたプロジェクトは、咲良さんの気遣いに感動した相手の会長からいい返事をもらったこと。
私を次の結婚相手に、と言っていた奥様も黙り込んでいた。何も反論する余地はない。
私が二人の仲を裂こうと必死になっている時に、咲良さんは車椅子の老人に気づき優しく接していた。それが結果として会社にも利益をもたらした。
情けなくて情けなくて、消えてしまいたいと思っていた。
天海さんのフォローをしたくて必死に仕事も頑張ってきた自分より結局は、自然と出た咲良さんの優しさの方がずっと重要なことだったのだ。
ぼんやりと二人の繋ぐ手を眺めていた。ああ、私があの場所に行くことは絶対にありえないんだと、ようやく思い知らされたのだ。
数日経った頃、私は天海さんに呼び出されていた。
誰もいない会議室。以前もこういうことがあった。その時も、そして今回も、呼ばれた理由は分かりきっている。
あれからどうやら天海さんは退職はしないらしい、ということは知っていた。仕事を数日休んでおり、その間私はいつも通り出勤していた。
逃げ出したいのは山々だった、天海さんに今更合わせる顔なんてない。それでも、仕事を途中で放り投げることはしたくなかった。
クビか、よくて左遷か。自主退職を求められるかもしれない。
どれでも覚悟はできていた。辞表はもう書き終えている。今まで通り働けるなんて思ってはいない。この会社の未来の社長の奥様に、私はとんでもないことばかりしてきたのだ。
入社を喜んでくれた母にだけは申し訳ない。こんな形で自分でも誇りに思っていた仕事を失くすなんて、自分はどうかしている。
呼び出された時刻になり彼の元へ行った。部屋に入ると、席に座り、何やら仕事の資料を見ていた。休んでいた間溜まっていた仕事かもしれない。
私は俯かず前を向いたまま、彼の正面に立った。
「失礼します」
彼はこちらを見なかった。じっと資料に視線を落としたまま、口を開かない。
手にかいた汗をスカートの裾で少し拭いた。再就職先を見つけなきゃかな、帰りに求人広告でも……
「新田さん」
「はい」
天海さんが声を出す。抑揚のない声で彼は告げた。
「今回のプロジェクトからは外れてください」
「……はい」
「手があくと思うので、今後はしばらく後輩の石田さんの指導に当たってください」
「はい、わか……え?」
私はぽかんとして目の前を見る。天海さんはまだ私を見なかった。慌てて彼に質問を投げる。
「え、天海さん、それだけですか?」
「それだけとは? 重要な話でしたが」
「そうじゃなくて……私、クビか、よくて左遷では?」
必死になってそう言う。だって自覚してるもの、私はそれだけのことをしたと思ってる。彼だって少しでも私の顔を見たくないに違いないのに。
質問に、天海さんはため息を一つ漏らした。
「そうなりたいんですか?」
「い、いえそういうわけでは。でもそうなるのが自然かなと」
「それだけのことをしたと分かってるんですね」
「……はい、分かっています」
拳を握りしめて言った。
彼はいまだ私と視線を合わせず、資料の文字を目で追っている。そのまま口だけを動かす。
「言っておきますが、
咲良がこうしてほしいと言ったんです」
ピタリと動きが止まる。信じられない言葉にパクパクと口を開けた。
「え? さ、咲良さん?」
「そうです。今回の件を仕事には持ち込まないでほしいと。これまで通り仕事はしてほしいと、咲良が僕に頼んだんです」
「ど、どうしてですか? 私はあの人に恨まれるようなことを散々したんですよ! 自分で理解しています。奥様と手を組んで、散々傷つけてー」
そこまで言って口籠る。そう、嘘を並べたり、嫌味を言ったり、私はどうしようもなく嫌な人間だった。
なのになぜそんな私を庇うような真似を? まるで理解できない、私がいなくなれば一番スッキリするのは咲良さんのはずなのに。
戸惑う私を尻目に、天海さんが言った。
「……『片想いの辛さは自分も分かるから』だそう」
「…………」
言葉を失くしている私に、天海さんがこちらを見た。今日初めて合ったその瞳は、私ではない人を見ているのだと気づいた。
違う人を、あの人を思い浮かべている。だから天海さんは、こんなに優しい目をしているんだ。
「新田さん。僕はね。
咲良ちゃんのこういうところが好きになったんだ」
どうして忘れていたんだろうか。
私が天海さんを好きになったきっかけは、移動して間もない頃。女だとか、外見がどうとかではなく、中身を見て評価してくれた。それまで散々裏で陰口を叩かれてきた自分は、彼の言葉が何より嬉しかった。
この人は外見や上部じゃなくて、人間の本質を見ている。
誰かを陥れようとする人間なんて見てくれるはずがない。髪型も、メイクも、ネイルだって。ただ外見だけを取り繕うのは全く無意味だったのに
「……というわけで。僕もあまり納得してないけど、社員としてこれからも働いてはもらいます。何もなし、というのもどうかと思うのであのプロジェクトからは外れてもらいました。死に物狂いで頑張ってきたのに外されるのはあなたにとって十分苦痛な結果であると思ったので。話は以上です」
再び私から視線を外して天海さんは言った。私は揺れるその色素の薄い髪を眺めながら心で思う。
自分がやったことは許されない、人を愛することで醜くなっては本末転倒。自分の中の愛という不確かなものに頼りすぎて大事なことを見失っていた。
ここでクビだ、と宣言されたなら、それで終わりだった。でもこんな形で私と彼女の格の違いを見せつけられたのは、ある意味一番辛いことだった。
敵うわけないか。私だったら絶対、こんなことはできない。散々自分を苛めた相手を助けるだなんて。
私はぐっと唇を噛む。そして泣きそうになるのを堪えながら言った。
「天海さん。
……本当に、好きでした」
掠れた声に、彼はピクリと反応した。もっと色々言いたいことはあるのに、それしか言葉が出てこなかった。
彼は再び私を見上げる。真っ直ぐこちらを見て言った。
「ありがとう。でも僕には好きな人がいるから」
キッパリと断言したその言葉を聞き、私は一つだけ涙をこぼした。
謝罪も何もきっと無意味だ。そんなことをする立場ですらないと思っている。
ただ、私にはないいじらしさと優しさを持つあの女性に、心の底から感謝したいと思った。
私は背筋を伸ばし、頭を深々下げる。
「すみませんでした。
仕事を頑張ります。よろしくお願いします」
天海さんははい、とだけ短く答えた。そのまま彼に背を向けて、私は歩き出す。
みっともない恋だった。くだらない自分だった。
もっと私を磨こう、それは外見ではなくて内面のこと。
仕事を頑張って、いつかまたあの女性にバッタリ会う機会でもあったなら。
その時恥ずかしくないように、しっかり謝れるように、
私は私を育てたい。
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